紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』とヤマザキコレの『魔法使いの嫁』は、どちらがなろう小説の『奴隷ちゃん』に似ているか?
結論から先に書いておくと、『ミミズクと夜の王』のほうであろう。
あろうと、あえて断言しなかったのは、ミミズクと夜の王と違い、魔法使いの嫁はアニメのほうしか見ておらず、現在進行形で進んでいるからだ。
さて、結論を書いたところで、『そんなの当然だろ。なに当たり前のこと言ってるんだ』
と、そう思ったあなた。
あなたのご意見を、まとめた形で感想にしていただけると、非常に助かる。
わたしも、自信がないところがあるのだ。
ともかく、論を進めよう。
まず、『ミミズクと夜の王』について。
およそ十年ほど前のことになるので、このエッセイを読んでいる方のどれほどが知っているかわからないが、『ミミズクと夜の王』という作品が電撃文庫大賞をとった。
いままでのライトノベル的な発想というべきからすれば、かなり異色の作品に見えた。なんというか、絵本的な雰囲気をまとっているのだ。
他方で、魔法使いの嫁は、2017年11月の現在、アニメでやってるので、知ってる方も多いだろう。
この二つの作品は、わりと似通った設定が多く存在する。
まず、主人公が奴隷であるということ。
この奴隷というのは、精神的に未成熟な、ある種、妖精のような存在である。
妖精とは、つまり少女であるから、この精神は『人間未満』である。
人間が人間としての精神構造を有するのは、精神分析的に言えば、去勢というある種の儀式を経てるからだとされる。したがって、未去勢な精神というものは、人間に当たらず、いわば白痴としての性質を持つことになるだろう。
ミミズクについて言えば、その内面は、当初は白痴そのものである。
彼女は狂気めいた所作をしている。
「食べてくれんかなー」冒頭からだいたい100Pあたりまで、このような発言をたびたびしているし、血があったかいなどという心の描写は、リストカットを思わせる。
こうした狂気の描写は、彼女がいっそう妖精であることを連想させるものだ。
しかし、彼女は最終的に夜の王を「所有」しようとする。夜の王を『返せ』という台詞。わたしのものだという意思。つまり、彼女こそは能動的に夜の王を所有する主体となる。
この時点で、ミミズクは奴隷ではなく、むしろ奴隷を所有したいと願う主人のほうである。
彼女は『夜の王』を神として偶像化し、それを所有したいと願っているのである。
だから、ミミズクは『奴隷ちゃん』ではないが、『夜の王』は『奴隷ちゃん』である。
この小説のずるいところは、ミミズクが奴隷少女であるところだ。夜の王は欲望がない存在であるが、そうであるがゆえに巧妙に隠されている。
本当はミミズクこそがなろう小説における主人公だったのだ。
他方で、魔法使いの嫁のチセは、主人であるエリアスを『所有』したいという欲望はない。
あえて、チセの所有への欲望を表したところはエリアスに対して『大丈夫だから』と、子どもをあやすように語りかけた部分であるが、その点については、ファリックマザー的な、子どもを支配する欲望ではなく、子どもに欲望されたい欲望である。つまり、『所有されたい欲望』である。
わかりやすく言えばバブみ。
だから、チセは主人公にはなりえない。
男に欲望されることには欲望していないが、子どもに甘えられたいという欲望はあるだろう。
エリアルとしては当然チセを嫁にしたいわけだが、チセは幼く、教育する必要がある。
エリアルはチセを娘のように育てたいと思っているわけだが、これは光源氏計画だといえば、わかりやすいだろうか。父性とは娘に欲情する父親そのものである。それに対して、娘側はあなたのほうこそが息子であるとして対抗する。
父性と母性がせめぎあう。
だから、父性に傾きすぎているなろう小説の『奴隷ちゃん』とはまったくベクトルが異なる。
せめぎあいということは、要するに他人とのいさかいであるから、チセとエリアルはおそらく夫婦喧嘩をするだろう。
わたしはなろう小説の一方的な所有(他人が不在の関係)よりは、そういった所有しあう関係のほうが好ましく思える。
ん。今回わりとエッセイしてる感があるな。