幽霊騒動
アンルカさんの柔らかな笑顔に見送られ、俺とユーカは徒歩で現場へ向かっていた。少々遠いが馬は厩舎に置いていく。仕事道具の大半は寮の自室に置いてきた。
「リートさん、馬を使わないんですか」
「ああ、この件は泊まりになる」
「そうでした。アンルカさんの話では夜に出る幽霊でした」
ユーカは胸の前で両手を合わせるように、ぱんと叩いた。
おそらく夜間調査になるから最速で解決しても一泊は決定だ。しかし残念なことに調査費用には余裕がない。
馬を連れていけば一泊分の餌代と厩の借り賃でぎりぎり、さらに馬番を頼んだりなんかしたら足が出る。王都内だから出張費も出ない。世知辛いねえ。
「リートさんも食べます?」
ユーカは足取り軽く、屋台売りの焼き菓子を頬に詰め込みながら歩く。眺めているとまるで小動物だな。
待て待て、こいつさっきからずっと食ってる。調査費用は新人の餌代ではないのだ。いや、食費も含まれているからユーカの餌代で合っているのか。……うん?
配属早々、逃げられては困るから今回は見逃してやろう。ユーカさん、その小さい方の菓子ください。
王都中央から北へ伸びる緩い坂道を下りながら、夏風の熱を身体に感じる。
ついこの間まで残雪を被っていた連峰に目を向ければ、雪解けは例年通りに進んだようで山頂まで青々とした姿に変わっていた。
寒ければ辻馬車を使う予定だったが、いらんなこりゃ。
北地区に整備された、幅広の浅い水堀が見えてきた。堀割の職人が腰まで水につかりながら、水草の掃除をしている。
木造の頼りないアーチ橋を渡って堀沿いの道を横切れば、件の現場はすぐそこだ。
太陽は尖塔の屋根にさしかかり、街並みに濃い影を落としている。紅がかった淡い青空に上弦の月が上っていた。そろそろ夜が近い。
「ごめんください! 衛兵騎士団から参りました」
と、扉の前でユーカが言った。
改めて発声が綺麗だと思う。一度、サーラ先輩所蔵の魔法書を音読させてみようか。奇跡的に魔法が使えたりするんじゃねえかな。
若い男の声で「お待ちしておりました」と返ってきた。
扉を開き、出てきたのは年の頃十八、九の地味な格好の青年だ。短髪が見事なほど一直線に刈られていた。
隣に立つのが嫁さんだな。長い金髪にスカーフを巻き、エプロンを着けた同じ年頃の女だ。
夕闇の中でもわかるほど二人の顔色が良くない。
「早速事情を聞かせてもらいたいんだが、いいかな?」
「構いません、中へどうぞお入りください」
若夫婦が住んでいる家屋は手前に土間と台所、奥に寝室がある質素な作りの一般的な平屋だ。暖炉や床板は綺麗に掃除されており、夫婦の実直な性格がうかがえる。
湿った木の匂いがするな。日当たりが良くないのだろうか。
「衛兵騎士団で調査を担当しているリートというものだ。こっちはユーカ」
「ヴェッツといいます。妻はメレナ。二人で野菜を作りながら木工をやっています」
よろしくお願いします、と頭を下げたメレナの表情は暗い。
袋から種油の小ビンを出してメレナへ渡すと、少しだけ笑顔が見えた。
ユーカが小声で耳打ちをしてくる。あ、やめて、耳がくすぐったい。
「どうしたんですか、あんな高級品」
「寮の物置からくすねてきた。夜間調査なんだから灯りは必要だろう?」
「呆れました……」
「俺は悪くない。費用を出さない騎士団が悪い」
ここです、とヴェッツが寝台隣の床を指差した。寝室のほぼ中央だ。
膝を床につけ、四つん這いになって観察するが変わった点はない。床下には冬の寒さを防ぐための空洞があるが、人が出入りできるような隙間はない。部屋の中にも人一人が隠れられる場所は見当たらなかった。
「ヴェッツさんが見た幽霊の姿を教えてくれ」
「九才くらいの女の子です。肩まで伸ばした金髪で、格好は少し古めでしたが普通でした」
「メレナさんが見た幽霊も同じ姿だったかな?」
「はい、同じだと思います」
酒や麻薬、毒、食物の摂取が原因なら、複数人が同時に同じ幻覚を見ることはない。
複数人が同じ幻影を見るには条件が必要だ。気温の高さ、湿気の量、物の配置と距離など、緻密な条件が揃ってようやく見られる。例えば、真夏の道に映る逃げ水や陽炎がそうだ。
だが、この質素な部屋にそれだけの条件が揃っているとは思えない。寝台のすぐ隣、夫妻の目の前に現れるのだから、何かの見間違いもありえない。
いや、待てよ?
「いつ頃から出るようになった? それと何時頃に出るか、わかるかな?」
「初めて現れたのは二十日前の夜です。……日が暮れて一刻ほどでしょうか。いつも同じ量の油で灯りをつけるのですが、灯りが消えて寝台で横になるとすぐに現れます。最近は毎晩の事なので少し慣れてきました」
はは、とヴェッツが自嘲している前でユーカが首を傾げている。
その調子だ、後輩よ。矛盾に気が付けるのはしっかり頭を働かせている証拠だ。
「灯りが無いのに少女だとわかったんですか? 髪色も金髪だと?」
と、ユーカは言った。メレナが顔を上げて補足する。
「幽霊の左の手が白く光っていたんです。部屋の壁がぼやっと見えるほどの小さな光でしたけど姿はちゃんと見えました」
おや? これはひょっとするとひょっとするぞ。
「この家に住み始めたのはどのくらい前だ?」
「生まれてからずっとです」
メレナはこの家で年老いた両親から生まれた。
子供の頃に炭鉱夫だった父親が病死。父親が亡くなってからはヴェッツが頻繁に家を手伝いに来てくれた。
母親は三年前に亡くなった。その時もヴェッツが傍で支えてくれた。
そうして二人は結婚を決めたという。
「ユーカ、原因は精霊の腕輪かもしれないぞ」
精霊の腕輪。
大層な名前だが、この地方の子供が植物の茎を編んで作る、ちょっとしたアクセサリーだ。左手首に腕輪をつけると精霊が見えるようになる、という言い伝えがある。
腕輪の装着にはルールがあり、闇の精霊がいる場所で腕輪をつけると“向こう側”へ連れていかれるという。
「私も子供の頃に作ったことがあります。ですが本件とは関係がないような」
「それがそうとも言い切れないんだ。ヴェッツさんとメレナさんも聞いてくれ」