三、王都侵食
「リートさん、聞きましたか?」
「何だユーカ? 何の話だ?」
「幽霊の噂です」
「また幽霊か」
俺が朝食を食べ始めると、ユーカが俺の髪を整える。
何故か朝の日課になっているが頼んだ覚えも許した覚えもない。が、特に不利益も不満もないのでユーカに任せている。
いや、一つだけ不利益があった。
俺の周囲に座る男達から、ほぼ毎日恨みのこもった視線を送られ続けているのだ。良い大人がこの程度で嫉妬するとはなんとも情けない。たかが若い女に身体の一部を触られているだけである。
……そう考えるとちょっとエロいな。嫉妬されるのに充分な気がしてきた。このままだと優しい先輩ではなく、やらしい先輩になってしまうが……まあいいか。
せっかくだから勝ち誇っておこう。へっ、ざまあみろ。なんだかよくわからんが。
「そうなんですけど、何だか要領を得ない噂話というか」
「調査依頼がくるような内容か?」
「どうなんでしょう? 個人的には少しだけ興味があります」
「とりあえず話は後だ。着替えなきゃならん」
「いい加減に着替えてから来てください」
寮の自室に戻って着替えを済ませた後、廊下へ出るとニラックさんと衛士の連中が立ち話をしていた。既婚者で家持ちのニラックさんを寮で見かけるのは珍しい。
「ニラックさん、おはようございます」
俺を見つけたニラックさんに背中をばん、と叩かれた。この人はもう少し力加減というものを覚えるべきである。
「おうリート、話聞いたか?」
「幽霊の噂ですか」
「なんだ、知っていたのか」
いつも上半身裸で男子寮を闊歩しているあいつよりも、一回りでかい体格。馬鹿力で負け無しのヘクスにとって武術の師匠であり、貴重な訓練相手だ。
奥さんと娘さんに「汚いからヒゲを剃れ」としつこく言われるのが最近の悩みだと聞いた。やはりヒゲはダメなのだろうか。男らしくてかっこいいのにな、ヒゲ。
「噂が流れていると聞いただけです」
「おう、そうか。調査するなら気を付けろよ。今までとは何か違う感じだ」
「違う?」
「俺の勘だけどな」
ニラックさんの勘は大体外れるが、これでも調査隊のベテランだ。忘れないよう肝に銘じておこう。注意するだけならタダである。
「ニラックさんはこれから任務ですか?」
「おう。東の街道で行き倒れが見つかったんだと。おそらく事件じゃないが、念のためキアフットと行ってくる」
「そうですか。お疲れ様です」
「おう。リートもがんばれよ」
寮から一歩外へ出ると、前日の雨がもたらした、じめじめとした空気が肌にまとわりついた。外に立っているだけで熱気と湿気にやる気が削がれていくのを感じる。いかん、これから仕事だというのに燃料が尽きてしまう。
腰に差した剣の位置を直しながら事務所へ向かうと、すぐにアンルカさんからお呼びがかかった。これは早速調査か。
「アンルカさん、背中にほこりが付いてますよ」
「あらやだ。さっきまでユーカと掃除してたからだわ。リート取って」
ほう。どうりで最近事務所が綺麗なわけだ。ユーカが来てからというもの、衛生観念がどんどん改善していくな。今までが汚かった、とも言うが。
「ええと、命令を伝えます。リート、ユーカの二人は幽霊の噂について調査してきてください」
「……え? それだけですか? もっと詳しい説明はないんですか」
ユーカも訳が分からずきょとんとしている。
「そうなのよ。今回の件はどう捉えたらいいのか」
「目撃証言とか、どこそこの場所に出没するとか、それもないんですか?」
「判明しているのは、王都に幽霊の噂が流れている、ってことだけ。話を聞いても全然わからなくて」
何だそりゃ? どうしてそれで調査依頼がくるんだ?
「依頼はきてないのよ。ただ、サーラが『早めに手を打った方がいいかもしれない』って言ったのよね。それで団長から命令だけ下りてきたってこと」
「なるほど、分かりました。すぐに調査へ向かいます」
サーラ先輩の勘は大体当たる。少し先輩のことを信用しすぎだと自分でも思うが、今までサーラ先輩の勘には何度も助けられてきた。今回だけ信用しないわけにはいかないだろう。
「ユーカ、王城へ行くぞ」
「サーラさんに話を聞くんですね」
「今夜までサーラは戻ってこないわ。アトリちゃん関連で出張中」
どうにも間が悪いな。いきなり取っ掛かりをなくしてしまった。
さて、どうするべきか。調査の第一歩は現場、二歩目は聞き込みだ。現場は王都全体だから、とりあえず身近な所から攻めるとしよう。
「じゃあユーカ、一旦椅子へ座ってくれ。アンルカさんもお願いします」
二人を詰所の椅子へ座らせて俺は心を空っぽにした。物事を判断するとき、余計な情報は考えを鈍らせる。
“事実を冷静に見極めろ”だ。ランジャック隊長に教わった、最も調査に役立つ言葉である。
「俺はまだ今回の件について何も知らない。知っていることは何でもいい、どんな小さなことでもいいから教えてくれ。まずユーカ」
「はい。私の知っていることは……」
王都南の外れにある、大きな館に住む老人が幽霊を見た。誰かからその話を聞いた巡回の衛兵が夕べ、その話をした。
んん? それだけか?
「誰からその話を聞いたんだ?」
「ええと、誰でしたっけ。衛兵の方だったような」
「話の内容は?」
「それが、今話したことしか覚えていなくて……」
何が何やらって感じだな。王都南の外れ、大きな館、老人、幽霊。出てきた情報を順に書いていく。
「次、アンルカさん」
「ええ」
ある少年が王都東の大橋を渡っているときに幽霊を見た。その話を聞いた何者かが、王城で働くメイドに話をした。
どういうことだ? さっぱりわからん。
「誰からその話を聞きました?」
「メイドの一人、だと思うんだけど具体的に誰だったか覚えてないわ」
「話の内容は?」
「今ので全部よ。ね、おかしいでしょう」
おかしいなんてものじゃない。共通点は脈絡のない幽霊と又聞きの話というだけ。そして肝心の内容が見事に欠落している。
噂話なのだから又聞きになるのは当然である。だが、内容どころか話の出所すらも二人の記憶から欠落している。ユーカはともかく、アンルカさんが情報源を忘れるなんて普通ではない。
そしてもう一つ、異常なことに気が付いた。
サーラ先輩は「早めに手を打った方がいい」と言ったのだから、本件は神秘が関係している可能性が高い。噂話自体が“人の記憶を消しつつ伝染する神秘”だと仮定するなら、今しがた話を聞いた俺の記憶も欠落するはずだ。
だが俺は今、ユーカとアンルカさんから話を聞いた。そう、ユーカとアンルカさんだ。どうして俺だけがはっきりと情報源を記憶している?
「二人とも、自分の異常に気が付いているか?」
「え? 私、何か変ですか?」
「ええ、今話していて気が付いたわ。記憶にあやふやな部分がある」
ユーカは記憶の欠落自体を忘れている。
アンルカさんは俺に話すまで異常を忘れていたが、気付いた。
おそらく、これは経験や知識の差だろう。アンルカさんは人間が持つ自我や記憶の曖昧さをよく知っているし、きちんと理解している。理解しているから大事な情報を忘れることは絶対にない。
サーラ先輩の言うとおり、これは早めに手を打った方がいいな。神秘の侵食が進めば、異常そのものを忘れてしまうかもしれない。
影響が一度きりならまだマシだ。だが俺達の預かり知らぬ所で二度、三度と伝染が重複し、その度に噂話とは無関係の記憶を欠落するとしたら。
嫌な想像が、俺の心から離れない。




