プロローグ 王都西地区にて目撃された不審者についての補足
遠くでふくろうが、ほう、と鳴いた。
「そこのご老人、ちょっと待ってもらえんか」
「へえ、なんでしょう」
西区の警邏中、裏路地の中ほどで呼び止めた年老いた男は、服装こそありふれたものだが、髪が異常に長く伸ばされ手入れされていないように見えた。
腰を深く曲げ、組んだ後ろ手にもやはり爪が長く伸ばされている。
「衛兵の者だ。近頃この辺りに不審者が現れてな、人がいたら声をかけて周っている」
「そりゃあ、お世話さんです」
受け答えはしっかりしているが、体躯は痩せ衰えて力ない。
不審ではあるが、何か事を起こせるような人物とは思えなかった。
「ご老人はこんな新月の夜半に一体どこへ行くのかな」
「へえ、嫁のいびきがうるさくて、どうにも眠れないもんで散歩をしております」
間の抜けた話に少しだけ気が緩み、ランタンを落としそうになった。
近所に住んでいる老人だろうか。
「夜は危ない。なるべく早く家へ帰りなさい」
「へえ、どうも」
老人はこちらに頭を下げ、後ろ手を組んだまま暗闇の中へと歩き出す。
遠くでふくろうが、ほう、と鳴いた。
身体が震えた。
あの老人を追ってはいけない。
あれは明らかに生者ではない。おそらく物の怪か憑き物の類である。
この新月の晩、足元すら見えない暗闇で、灯りを持たずにどうして歩けるのか。
つい走り出したくなったが、今は警邏中だと自分に言い聞かせ、路地の逆方向へ歩き出す。
けっして振り返ってはならない、そんな気がした。
「よう、お疲れさん」
「誰だ!」
大通りに出た所で突然話しかけられ、足が固まった。
思わず槍を向けてしまったが、どこかで見た顔だ。
男は均整の取れた体躯をこちらに向け、骨ばった指で無造作に頭を掻いた。
「万象調査隊だ」
騎士団で神秘を調査している部隊、だったか。
胴鎧と兜を身に付けず、濃灰色の手甲と脚絆だけを付けた、なんとも不恰好な姿だ。
「調査隊が何故こんな夜半に……あんた、あのおかしな爺さんを追っているのか?」
「まあね。もう上がっていいぞ、後は俺達に任せろ」
男はそう言って路地の向こうへ消えていった。
――あれが、万象調査隊か。
遠くでふくろうが、ほう、と鳴いた。
「それで、追いかけてからどうしたんだ?」
「もちろん本人に直接、話を聞いたぞ」
「その爺さんは何だった?」
「夜目がきく、ただの老人。『普段夜歩きをしないが慣れた道だから灯りは要らんと思った』、だそうだ」
「風貌が異様だった」
「爪が長いのは機織りをするため。髪が長いのは……じじいに見えるばばあだから。この程度で異様なんて言ったら失礼だぞ。先月戦った顔無しの化物なんて空中に浮いていたんだからな」
「ばばあ? でも『嫁のいびきが』と言っていた」
「息子の、嫁だ」
十八年前、グラスランド衛兵騎士団内にて結成された神秘専門の調査部隊、その名も万象調査隊は世界の神秘を求め、本日も鋭意活動中である。
「肝心の不審者はどうした?」