遥か昔の星空は
「動きませんね」
そろそろ夜半というところだが、あれから巨人の骸骨が動く気配はない。
野営地で硬い糧食をかじりながら、俺達は観察を続けている。
キアフットはよくこの状況で眠れるな。
サーラ先輩は俺の隣で、荒れた指先を撫でながら口を開いた。
「ずっと考えていたんだけどね、あの巨人は巫女なんじゃないかな」
「巫女?」
「ああやって魔物カラウの封印か何かを見張っている、と考えれば色々合点がいくんだ」
ちょっと聞き逃せない単語が出てきたぞ。
「魔物カラウが、今もこの山に閉じ込められているということですか」
「それはないかな。この山は何度も調査されているし、坑道がいくつも残っているんだ。山の内部に異物があれば山師が気付いていると思うんだよね」
山師とは河川、植物、岩肌や土壌の特徴から鉱脈を探し当てる専門家だ。
騎士団では大水の予知に協力してもらっている。
「巨人だって今まで一度も発見されていませんよ」
「骨と布だから見つけるのは難しいよ。そして、魔物カラウが死んでいるなら、やはり見つからないだろうね。死者は新たな痕跡を残さないんだ」
生きていれば動き回り、血を流し、排泄もする。
食べ物を得る必要だってあるから、どうしても痕跡が残る。
仮に魔物カラウが封印されていたとしても、既に死んでいるということか。
巨人のように魔法が使われていない限り、動き出すこともない。
あのローブの内側に描かれた魔法陣は、魂を操る魔法だとサーラ先輩が教えてくれた。
不死の魔法。
ただし人としての意識は無くなり、魂と最後の意志だけが身体に残る。
あの巨人はローブの魔法に操られている“意志そのもの”なのだ。
「巫女が残した最後の意志ってなんでしょうね」
「なんだろうね。でも、あれは半端な覚悟で使える魔法じゃない。意識を完全に失うのだから、本人にしてみれば死ぬのと同じことだからね。きっと、とても強い意志だったと思うよ」
自らの命を賭し、意識を失ってでも魔物カラウを倒す必要があった。
英雄、勇者と呼ばれるような立派な行為だが、いまいちぴんとこない。
そりゃ、俺だって小さい頃は物語の英雄に憧れた。
世界の謎を解き明かし、強大な怪物を倒してお姫様を救う。国中の皆に賞賛され、歴史に名を残すような英雄である。
だが大人になって分かったのは、俺の勇気で救える人間なんて手が届く範囲の一人か二人で精一杯だということだ。
今でも英雄になりたいと願うことはある。あるが、それは結果だ。
ただ、大切な一人を守るという目的を果たすための。
「リートが今見ている、あの姿が意志なのかもしれないね」
巨人の骸骨は今も山頂を見上げて、ただそこに佇んでいる。
月明かりの中に立つ、その姿は畏怖を感じさせるが、少し寂しそうにも見える。
おそらく意識の欠片すら残っていないはずだ。
お前は英雄になりたかったのか?
それとも周囲に無理矢理、英雄にされたのか?
――それとも、大切な何かを守りたかった?
「大昔にあの巫女がローブを着て魔物を倒した。それから魔物を見張るか、魔物の最後を見届ける者としてあの場所で眠ったんだ。そして、何か事情があったのか、それとも自然に失くなったのかわからないけど魔物は消滅した。そうして巫女だけが残った。証拠は何もないから全部推測だけどね」
巫女はあの場所に留まり、ずっと山を見ていた。
遥か昔、土砂崩れか何かで巫女は谷底に埋もれてしまった。
魔法は日没とともに発動するから日光で制御されている。
埋まっていた間、魔法が発動して動きだすことはなかったはずだ。
そして現代になり、山の表面に露出した魔法が再び動き始めた。
ぱち、と焚き火が弾ける音がした。
揺らぐ炎から立ち昇る煙を目で追っていき、仰向けに寝転がって見上げれば、一面の星空が視界の端まで広がった。
息が止まった。
心ごと夜空に落ちてしまいそうな、不思議な感覚。
こうして夜空を見上げるのはいつ以来だろう。
子供の頃、よく母さんと星座について話したことを思い出す。
古代の人々は隣り合う一つ一つの星を線で繋ぎ、星座を作った。
星座を眺めながら、それぞれの逸話を考え、想像し、伝えた。
逸話は世代を越えて伝説となり、やがて神話へと到る。
現代に生きる俺達が星々の神話に触れて、古代の人と同じように物語を想像できるのは、星空が大昔から変わっていない証拠なのだという。
気の遠くなるような長い時間を隔てていても、今、俺の眼に映る星空と、生前の巫女が見た星空はきっと同じだ。
巫女が残した意志を、少しだけ理解できたように感じた。
「異変の理由は大体わかりました。でも、あの巫女さんどうしましょう?」
巨人……というか、ローブをあのまま放っておくわけにはいかない。
完全に機能している不死の魔法がそこにあるのだ。
魔法の仕組みが解明されれば、悪用の方法はいくらでも思い付く。
「ローブを引っぺがせば魔法は止まるんじゃないかな。ただ……」
ただ、巫女の魂があの躯に縛られているなら解放してあげたい、とサーラ先輩は言った。
翌朝、巫女が谷底へ横たわるのを見届け、俺達は王都へ帰還する。