二、山の異変と魔法遺物
ユーカをお供に辻馬車へ乗り込み、暖かな陽気についうとうとしていたら、いつの間にか教会の前に立っていた。
王都西地区の広場に面しているレスタナ教会は、土着の神である豊穣神レスタナ、慈愛神アトリアナ、創造神エンシーズの三柱を奉っている。
レスターナ王国は建国時から特定の国教がなく、大陸最大を誇るリアソロン教も、ついに根付くことはなかった。
この地域に伝わる神話や教義をまとめた書物もあったそうなのだが、過去の戦火で失われて以降、いまだ一つも発見されていない。
そのため王都の教会といえば、ここともう一箇所だけだ。
教会以外の宗教施設は全て神殿、祠、墓のいずれかである。
教会裏に併設された孤児院では初等教育も行われていて、運営は補助金と寄付、年に二度の富くじ販売で賄われている。
小児育成に税が使われているなら国教でも良さそうなものだが。
「思っていたよりなんというか……質素です。悪い意味じゃないですよ!?」
ユーカは華美で装飾過多な建築を想像していたようだが、権威や戦争に利用されない小国の教会などこんなものだ。
ということは、レスターナが神を大義名分に掲げて他国侵略をしたことは一度もないのだろうか。まさかな。
「中へ入ろう。紹介したい人がいる」
三段ほどの小さな石階段を上り、開け放たれた両開きの扉から中に目を向ける。
ステンドグラスを透過した正午の日差しが、床板に鮮やかな絵を映していた。
僧服をまとった細面の男が、鋭い視線でこちらを見つけたようだ。
相も変わらず、いかつい顔だなあ。
「よう、リート。最近来なかったな」
「兄貴の方はどうだ。なんかやつれてないか」
男は拳を握り俺の胸を叩く。
俺も同じ動作で拳を返した。いつもの挨拶だ。
「ユーカ、紹介しよう。兄のロンズだ。教会で教育者をやっている」
「リートさんと同じ調査隊所属のユーカです」
騎士の礼をしたユーカに対し、どうぞよろしく、と右手のひらを見せる教会独特の礼でロンズが返した。
「神話絡みの仕事は兄貴に相談するといい。これでも一応、神学者だ」
子供時代、《獣爪の独楽事件》に巻き込まれた俺達兄弟は道は違えど、同じく神秘の調査をしている。因果なものだ。
「今日はユーカさんを紹介しにきたのか」
「それもあるけど、兄貴の方で面白そうな話を仕入れてないかと思って」
「ああ、いくつかあるな。聞いていくか? 茶くらいは出すぞ」
ではお言葉に甘えて。
数年前、東の遠方にある農村で起きた不思議な出来事。
収穫祭の翌日、なんだか空の様子がおかしい。夕方だというのに妙に明るい薄曇りでお天道様もぼやっとしている。珍しい天気もあったものだと空を眺めていたら、いつの間にかお天道様が二つになった。村の全員がこれを見て、慌てて拝礼儀式をすることになった。これはお天道様が我々へ何かを伝えようとしたのだ。間違いない。
以前、外国の文献で調べたことがあるな。
翻訳に苦労してサーラ先輩とアンルカさんに泣きついた覚えがある。
農村で行われる収穫祭の翌日だから、秋の終わりから冬の始めの出来事。文献に書かれた時期とぴったりだ。
えーと……
「確か“幻日”と呼ばれるものだ。自然現象か神秘現象か、原因はわからんが吉兆や凶兆の印なんだそうだ」
「印ですか?」
「そう、ただの兆しだから直接の害はない。虹も凶兆の印と言われているだろう? だが虹が出ても大きな凶事はそうそう起きない」
ああそっか、とユーカが納得してくれたようだ。
ロンズも大仰に頷いている。やはり兄貴に教育者はどうも似合わんな。
「珍しい現象だが調査の必要はないな」
「じゃあ、次は酒場で本人から直接聞いた話だ」
酒場で給仕をしている女がある夜、自室でうとうとしていると何か物音が聞こえる。眠いながらも音の方に目を向けると、部屋の隅で二匹のネズミが喧嘩をしていた。餌の取り合いをしているようだ。追い出すのも面倒だとそのまま眠ろうとすると、一匹のネズミが「てめえ、噛み殺すぞ」と喋ったのだという。
「夢現の状態、というものですね。報告書で読みました!」
ユーカが嬉しそうだな。俺も後輩の成長を見られるのは嬉しいぞ。
成長しきったら俺の方がユーカに世話をしてもらうのだ。
心温まる介護、もとい、師弟関係である。
「うん、そうだ。良く調べているな。寝入りばなは夢と現実を同時に見ているというから、幻を体験しやすいんだろう。それに『噛み殺すぞ』という脅しはおかしい」
「何故ですか?」
「ねずみは噛む以外に相手を殺す方法を知らない。『噛み殺す』という表現は他の殺し方を知らなければ出てこない表現だ。もし本当にネズミが喋ったのなら、『噛むぞ』か、『殺すぞ』のように単純な表現になると思う」
就寝中に起こる不思議な現象のほとんどは、自身の精神が見せている幻だという。
それはそれで神秘と言えなくもないが、調査はできない。
何らかの方法で観測しない限り、原因を特定できないからだ。
そして現状では夢幻を観測、あるいは再現する手立てはない。
「最後の話は今朝、行商人から聞いた最新情報だ」
王都から西、連峰向こうの漁村で漁師をしている男は、自ら作った干物や燻製を王都へ売りにいくことにした。この重量ならば平気だろうと谷越えの道を通ってきたのだが、途中、ふと谷底へ目を向けると茶色の大きなものが見える。一枚布のように見えるが、それにしてはずいぶんと大きい。それが何なのか、男は確かめたかったが谷底へ降りると戻るのに一苦労だ。結局男は確認をあきらめ、そのまま行商に向かった。あれは何だったんだろうねえ。
「とまあ、こんな話だ」
「ごみじゃないのかそれ」
「苔の群生地でしょうか。確か、春の終わりに山の方で大雨が降ったと聞きました」
谷に雨が降って茶色の苔が大発生した。ありうる話だ。
下流で赤潮が発生するかもしれないな。
「ありがとう兄貴。上に報告しておくよ」
「お茶、ごちそうさまでした」
俺達は手を振って教会を出る。
龍脈を移動させたことは言わないでおこう。俺のせいにされては困る。
さて、連峰向こうの漁村といえば、神殿遺跡から南、王都からは南西に位置する。
漁村から連峰を越えて王都へ向かうには、南に連峰を迂回する道、そのやや北に山間の谷底を通る道、縦谷を越える道の三本だ。
行商が通ったのは一番の近道である縦谷を越える道。
伝令の為に整備された細く険しい道で、馬車や荷車を通せないから人通りはかなり少ない。
少なくとも人為的な現象ではなさそうだな。
「……さん、リートさん!」
おっと、いかがされましたかお嬢様。
「あちらを見てください」
ユーカの真剣な表情に何事かと広場の向かいに目を向ければ、去年出来たばかりの栗菓子の店だ。結構人が入っている。
「見てください。栗菓子のお店です」
「うん、旬はまだ先だから栗菓子はないぞ」
「あのお店、夏は豆菓子を出しているそうです」
確かに「豆菓子あります」と書かれた看板が出ている。
「買っていくか」
「はい」
たまには食道楽も良いか。