明日は我が身
「くだらん」
老年の男はそういって白い口ひげを指でしごいた。小柄な体格に礼装と棒タイを付け、白髪はきれいに整えられている。
俺の目の前で執務机に着いている男こそ、鉄の箱が発見された家の持ち主だ。名前はハンゼス。王都にいくつかの物件を所有し、手広く商売をしている。なるほど、見た目はご立派な紳士である。しかし、とても紳士らしい態度とはいえなかった。言葉で表現するなら老獪だ。
王都西区の隧道通りそば、閑静な住宅街に紳士の屋敷はあった。屋敷の周辺にある階段や坂道にはすべり止めの黒い砂利が撒かれ、凍った雪道に強い色の対比を浮かび上がらせている。道にすべり止めを欠かさないのは金持ちが住む地区の特徴だ。
俺とユーカが通された執務室にも、やはり高級な調度品がいくつも見てとれた。
「まあそう言わず……。箱にまつわる話などあれば、お聞かせ願いたいのです」
「箱を開ければすぐにわかるだろう? まったく、こんな馬鹿馬鹿しいことに騎士団を使うなど議会は何を考えている。あなた方もずいぶんと暇そうでなによりだ」
下手に出ればこの野郎……、と、いつもなら怒りを感じる場面だが今日は冷静だ。ユーカの表情もずいぶんと涼やかである。なぜかといえば、先ほどユーカが言ったある言葉が原因なのだが、まあ、それはいいか。
ハンゼスは合理的な思考をする人間のようだから、ここは法の番人として合理的に粛々と仕事を進めよう。あー、おほん。
「箱の中から加工された毒物、あるいは殺傷可能な武器が発見された場合、ハンゼス殿は有害危険物隠匿の罪により裁かれます。国家転覆の疑いもかけられるでしょう。その際、重犯罪の容疑者として長期間の取調べを受けていただくことになりますが――」
一代でのし上がった成金という人種は、偉そうな言葉遣いをしたり心にもないイヤミを言ったりする。これは会話の主導権を握るための技術だ。挑発し、相手より自分が上だと見せかけ、最終的に譲歩する形で有利な条件を引き出す。
この話術は、使っているうちに癖になってしまうという特徴がある。“上から目線”で人と接するのは気分がいいからな。だから話術が通用しない国家権力に対しても同じ態度をとる。
「わかったわかった! 箱のことは知らない。壊した家はクラーノという人間に無賃で貸していた。私の商売敵だった男だ」
「箱を持ち込んだのはその人物であると?」
「そうだろう。あの家の地下収納を知っているのは私とクラーノだけだ」
途端に素直になった。もう少しつっこんでみるか。
「冬に家を取り壊したのはなぜでしょう?」
「春まで残せば今年分の資産税を持っていかれるからな。雪解け前に壊せば去年の分だけで済む」
「商売敵に無賃で家を貸していたのですか?」
「クラーノは大口の取引に失敗して財産を失った。その後、家族とも別れた。商売敵といったが、すべてを失ったクラーノは私にとってただの友人だった。……明日は我が身だ。同情もやむをえん」
ハンゼスはそういって、合理的な考えをする商売人から一人の男の顔になった。きっと今の言葉に嘘はないだろう。
「クラーノさんはどちらにいらっしゃるのでしょう?」
「冬の始めに肺炎を患って死んだ。痛ましいことだ」
紳士の屋敷から出ると、近所の食堂からパンを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。そろそろ昼時である。
匂いにつられたのかどうか知らないが、俺の隣を歩くユーカがふふと笑う。
「とっても似ていました」
「そっくりだったな」
先ほどまで会っていたハンゼスの顔が、レリーフのネコによく似ていたのだ。執務室に入るなり、ユーカが小声で「キシャー」と言ったせいで思わず吹きだすところであった。笑いで俺の怒りを鎮めるとは、さすが由緒正しき王都の魔除けである。
「せめて聴取を終えてから言ってくれ。あやうく話の矛盾を聞き流すところだ」
「でしたね。もうしわけありません」
ハンゼスへ事のあらましを説明する時、俺は依頼内容の通り「鉄の箱は家のガレキの中から出た」と説明したのに、ハンゼスは「あの家の地下収納」と言った。
どうして地下収納に鉄の箱があったと思ったのか。それは箱の存在を知っていたからだ。地下収納にしまわれた箱を見たことがあるから、そう発言した。つまり、ハンゼスは何かを隠している可能性が高い。
「……箱に入ってるのは裏金、裏帳簿あたりか」
「それならハンゼスさんは“箱を開ければわかる”とは言わない気がします。大工職人さんに処分を頼むのもおかしいです」
うむ、確かにそうだ。
ハンゼスにとって箱の開封には問題がない。ということは中身までは知らない可能性が高い。しかし箱の存在を知っていると問題がある。
俺が国家権力をちらつかせたから関わりを否定したのか? だが、あれはお互いの立場を明確にするため言ったこと、俺が本気じゃないことは理解していたはずだ。……どういうことだ?
「リートさん、次はどうしますか?」
「箱自体の調査だな。装飾や部品から作られた年代がわかるはずだ」
「またずいぶん古いもんを持ってきたね、ええ? リートの小坊主が。ちょろまかしてきたのかい?」
鉄の箱を乗せたそりを、引いたり押したり持ち上げたりしながら東区の工房街へやってきた。坂道と階段が多い街というのは、景観は良いが住むには不便なことこのうえない。移動するたびに足への負担が重くのしかかるのだ。昔の人はなぜこんな不便な場所に街を作ったのか。
「うるせえババア。どのくらい古い?」
「この蝶番を使っていたのはアタシの先々代あたりさね。ざっと八十年以上前だ。サビの具合からいって、溶接されたのは箱が作られてすぐだね」
箱を鑑定しているのは、金属加工のベテラン職人でサフタという。俺の馴染みで衛兵時代から世話になっている、人の良いババアである。俺が使っている装備の調整はほとんどこのババアに任せている。初めて会った時からすでにババアだったので年齢はよくわからない。頭に桃色の手拭いを巻き、手に革手袋をはめている姿も昔のままだ。
「ババアババア言うんじゃないよ」
「それなら後輩の前で”坊主”とか“小僧”とかいうのやめてくれ」
「何いってんだい、まだまだケツの青い小僧のくせに生意気な。ユーカに足の火傷の話でもするかい?」
「すみませんでした」
人の良いババアである。口は悪い。このババアにかかれば騎士団長ですら小僧扱いなのだから、俺なんか赤ん坊である。
ユーカは先ほどから俺とサフタの会話を聞いて笑いをこらえているようだ。くそう、恥ずかしい。
「サフタ、この箱開けられるか?」
「やってみなけりゃわからん。鉄板の厚さ次第だね」
「他にわかることはあるか?」
「ここ見てみい」
ババアが指差した箱の隅、斜めの直線とひし形を合わせたような模様が描かれていた。直立した麦の穂のような模様だ。
「これはまだら模様の矢羽を図にしたもんだ。斑紋矢羽という」
「どんな意味があるんだ?」
「生物を運んでいる、って意味。昔の兵隊さんが使っていた符丁だね」
生物の運搬?
「伝書鳩やら毒蛇やらを戦地へ運ぶときにこの模様を付ける。でもこんな鉄の箱に付けられているのは初めて見るわな」
生物を運搬する箱。頭蓋骨の絵。ふたが溶接されている。開封厳禁。これらの情報が心の中で点となり、点同士が線で繋がると嫌な想像が浮かんでくる。
この箱は危険なものをただ単に収めているのではなく、危険なものが外に出ないよう封じ込めているのではないか? もしも、中にあるのが遺物だとしたら……?