乱心
「ねえ、リート、……これで何列目だっけ」
「六列目です。少し休憩しましょうか」
角部屋から一つ部屋をずれて、左右の扉を同時に確認しながら進んできた。今、六列目を始める所だから、これまで四百弱の部屋を確認したことになる。残り千五百部屋を通過すれば全部屋を確認したことになるが、はたして次の日没までに間に合うのか。
「時刻がわからないのは不安だね」
「正午頃に迷宮入りをしたから……、角部屋についた頃がちょうど日没です。今は夜半の手前あたりじゃないですか」
「さすがリート」
「訓練を受けていますから」
衛兵の訓練で、時間と距離の感覚を徹底的に叩き込まれた。何故そんなことを覚えるのかと当時は不思議だったが、今ならよく理解できる。孤立した時、役に立つ感覚だからだ。
時間感覚がなければ知らない土地での移動は難しい。距離感覚がなければ移動できる範囲を見誤る。そして両方の感覚がなければ正確な方角を測れない。全てが生き残るための知恵なのだ。
まさか王都のど真ん中で孤立するとは思ってもみなかったが。
「それじゃ進もうか」
「先輩平気ですか?」
「体力はまだあるんだけど……」
「けど?」
「早く帰らないと漏れそう」
緊急出動である。急がなければなるまい。
「先輩ありました! 三枚部屋!」
進みながら左側の扉を開けていくと、ある部屋で右手の壁に扉がないと気付いた。つまり一つ前進して左側の部屋がアタリだ。
足取り軽くアタリの部屋へ入ると正面に扉が一枚だけ、ということはこの先が王城の書斎である。……ようやく上がりだ。気が抜けたら急に腹が減ってきた。
「いいかいリート、開けるよ」
サーラ先輩がゆっくりと扉を開く。
その先に……先に……小部屋があった。四方に扉が一枚ずつ。迷宮に閉じ込めれてからずっと見てきた小部屋だ。
「先輩、二枚部屋が裏口になっていると言ってましたよね……」
「ここは入口の部屋だね」
「もっと遠い場所にあったはずじゃ」
ああ、そうか。日没を迎えて部屋が入れ替わったのか……。
一瞬気を抜いたせいか、空腹や喉の渇きが襲ってきた。気付かないようにしていた身体の疲れまで、どっと押し寄せてくる。“家に帰るまでが遠征”とはよく言ったものだ……。
いかん、呆けている場合ではない。先輩のアレやコレが緊急事態なのだ、気を取り直して進むべきである。
「次行きましょう、次!」
「リート、やけっぱちになってはいけないよ。騎士たるもの、どんな時も冷静でいるのが肝心だからね」
「先輩……」
「私は大丈夫。もう漏らす覚悟を決めたから」
急ごう。
部屋を一つ戻り、再び前進を始める。サーラ先輩と手分けをして左右の部屋を覗きながら進む。部屋を十ほど進んだところで、身体に異変が起きた。
目がかすみ、足元がおぼつかない。喉の渇きが異常だ。思っていたより体力を消耗したのかもしれない。よく考えれば昼から飲まず食わずで歩き通しだ。夕方頃までサーラ先輩をおぶっていたから、きっとその影響もある。
今まで確認した部屋は、ええと、どのくらいだったか。確か、今は十一列目……いや、十三? 喉が渇いた。サーラ先輩柔らかかったなあ。やっぱり十一列目? 俺はこのまま死ぬのか。
上手く考えがまとまらない。
「リート……? あ、しまった! 仕掛け部屋か」
仕掛け部屋ってなんだっけ。ああ、喉が渇いた。
「身体がほてる部屋だね。生物の催淫香を利用してるんだ。……よくもまあ、この広い迷宮から二つも仕掛けを引いたものだ。ほらリート、進むよ」
「先輩、喉が渇きました」
俺は何を言っている?
「うん、たぶんもう少しだからがんばろう」
「飲ませてください」
サーラ先輩の頬が紅潮している。きれいだ。目が離せない。
「飲み物は持っていないよ」
「どうせ漏らすんだからいいでしょう?」
濡れたサーラ先輩のくちびるに、ローブの上から股間を押さえるサーラ先輩の手に、俺は欲情している。おかしいのはわかっている。わかっているのに止められない。
「いいですよね?」
「……ダメ」
もう我慢できない。ええと、入れ物がないな。直接でいいか。毒を吸い出すみたいに、直接口で。いいよな?
「あっ、ちょっ、ちょっとリート! しっかりしなさい! ……ダメだってば……」
片手でサーラ先輩の腰を抱きしめた。もう一方の手がローブの中へすべりこむ。
そうだ、このまま押し倒してしまえ。いや、ダメだ。何を考えている。こんなところで先輩の、……先輩が悪い。こうなったのは全部先輩のせいだ。もういいや。後のことなどどうでもいい。俺は今欲しいのだ。だってすぐ目の前に――
「こりゃ! 二人ともそろそろ戻るのじゃ!」
気の抜けた可愛らしい声が聴こえて振り返れば、背後の扉が開いておりその先にアトリがいた。奥に見えるのは見慣れた王城の書斎だ。
途端に視界が広がり、心が晴れ渡っていく。急激に冷めていく身体。冴えていく頭。
「……アトリ?」
「夕方からずっと暗い所でいちゃいちゃしおって。まったく」
「書斎から来たのか?」
「何を言っとる。ここは書斎の奥じゃろう?」
サーラ先輩がローブの裾を直しながら、一つ咳払いをした。
「おほん。……“夕方から”ってことは、一度私達のことを見たのかい?」
「リートに後ろから抱きついておったろう。びっくりして扉を閉めてしもうたわ」
「扉に鍵がかかっていたはずだけど」
「ふむ、またかけ忘れたんじゃろう。サーラはおっちょこちょいじゃからの」
……助かった。とにかくいろんな意味で助かった。
扉をくぐり書斎へ入ると、漂う花の匂いの中にかすかに混じる薬品の匂いがした。わずか半日ぶりだというのに、匂いも、乱雑に積まれた本の山も、全てが懐かしく感じる。
「ふう……、やっと戻ってこられたね。反省点がたくさん見えたから、明日から早速倉庫の改造をしないと」
書斎の外を覗けば真っ暗だ。すでに城門は閉められており、王城の中に静寂が広がっている。夜半過ぎってところか。
「先輩、あの、……すみませんでした」
自分を見失っていたとはいえ、サーラ先輩にとんでもないことをしてしまった。そして都合が悪いことに、俺は今日の出来事をはっきりと記憶している。酒の席で掻いた恥のように何もかも忘れてしまえたら、どんなに楽であろうか。
「いいよ。元はといえば私のせいだからね。リートの休日もつぶしちゃったし……。私の方こそごめんね」
もしも休日じゃなかったら、今頃騎士団による俺の捜索が行われていたはずだ。無駄に騒ぎが大きくならなかったのは不幸中の幸いだった。
「じゃ俺、寮へ戻ります」
「リートよ、泊まっていかんのかのう?」
王城に泊まっても眠れる気がしないのだ。匂いとか感触とか全部ばっちり残っているからな。そして俺が自分を見失ってからずっと、まぶたの裏にユーカの顔がちらついている。冷たい夜風に当たって心を漂白しないと、なんだかどうしようもない気分なのである。
城の脇戸へ向かうと、サーラ先輩とアトリが見送りについてきてくれた。
「今日のことは一応報告書にまとめておいて。特に仕掛け部屋で起きた変化のこと」
「わかりました、それじゃ失礼します。アトリもまたな」
「うむ。事情はよくわからんが、何があったのか話しにくるがよい。待っておるぞ」
できれば話したくないが、誤解されたままになるよりはマシか。近いうちにまた来よう。
勝手口を開けると冷たい空気が流れ込んできた。いつもなら寒さに凍えるところだが、半日閉じ込められた後の新鮮な空気は清々しい。……腹も減ったし、一杯引っ掛けていこうかな。
「ああ、リート」
「はい?」
「今度私に触れる時は、もっと優しくしなさいね。……ふふっ、おやすみ」
今夜、俺は眠れるのだろうか。
十五、新地下倉庫探訪 了