少女は消えていない
俺とユーカは今、ヴェッツ夫妻宅の寝室へきている。
もう既に日は暮れた。室内の灯りも油皿の芯に点ったわずかな灯火だけだ。
外は雲一つ無い夜空で、上弦から少し膨らんだ月も浮かんでいる。
だが室内に月光は射していなかった。
「上手くいくかどうか俺にもわからない。了承してもらえるだろうか」
「あの子、カテノアをどうか助けてあげてください」
メレナは「大事な家族ですから」と言って、優しい笑顔を浮かべていた。
「カテノア、そこにいるなら聞いてほしい。君を助けられるかもしれない。なるべく昨日の場所から動かないでくれ」
何もない空間に向けて語りかけたが、やはり何も返ってこない。
カテノアに俺達の姿は見えているだろうか。
俺達の声は届いているだろうか。
準備は整った。
いつも通りの室内、いつも通りの灯火。
俺とユーカが空間の異物になっている可能性があるが、昨日はちゃんと現れた。条件は揃っているはずだ。
あとはカテノアが“こちら側”に出現するのを待つ。
燃料を使い切った灯火がゆっくりと勢いを失い、小さくなって消えた。
夫妻が寝台へ向かい、揃って横になる。
静寂の中にユーカが唾を飲みこむ音が響く。
視界が塞がれた暗闇で俺は時機をはかっていた。
……きた! カテノアがそこに、部屋の中央にいる!
「今だ!」
寝室の壁の一部がヘクスの馬鹿力で外へ引き倒された。
外の川沿いには非番の騎士ニ十人、勤務中の騎士ニ十人がずらりと並び、ぴかぴかに磨いた剣と盾を掲げ、月光を反射させた。
橋の欄干や向いの屋根に上った女達は手鏡を持ってきてくれたようだ。
ランジャック隊長、アンルカさん、それに調査隊の面々が更に光を増やす。
近所の人達も磨いた鍋や農具を使って月光を集めてくれている。
光が室内に溢れた。
カテノアは眩しいのか、両腕を顔の前で交差させている。
左手首につけた精霊の腕輪が少しずつ縮んでいき、あるところでぷつんと切れて床へ落ちた。
同時にカテノアの頭上に、輝く何かが現れすぐに消えた。
あれは……何だ?
長いような短いような時間が過ぎて、俺は周囲を確認する。
俺、ユーカ、ヴェッツ夫妻は異常なし。
室内は、破壊した壁以外に異常なし。
外は普段と同じ、夜の王都だ。
話を聞いて集まってくれた人達と……上半身裸の騎士以外は。
そして、カテノアはまだ眩しいのか薄目をしょぼしょぼとさせている。
少女は消えていない。
また“向こう側”へ行ってしまうのでは、と不安になった俺はカテノアの手を握った。それを見ていたユーカもカテノアの反対側の手を取る。
空いたもう片方の手でハンドサインを作った。
「任務成功だ」
わあっ、と外から歓声が上がった。
月の光を受けた剣と盾が上下し、道に、壁に、幾筋も光を躍らせている。
何事かと遠くからも野次馬が集まってきたようだ。
カテノアはきょとんとしている。
まだ事態が飲み込めていないのかもしれない。
「ユーカ、腕輪を回収してくれ。ヘクス、外の連中を頼む」
カテノアと向き合い、しっかりと肩を掴むと指先に震えが伝わってくる。
俺は無意識に、その小さく細い肩を擦って温めていた。
「俺達のことがわかるかい?」
「……はい」
「体調におかしなところはないか?」
「大丈夫です」
受け答えはしっかりしている。
少女は消えていない。
この世界に、俺の目の前に存在している。
俺は何度も確かめるように、自分の心に言い聞かせた。
そうだ。
少女は消えていない。
深く、大きく息を吐いて気を落ち着かせる。
もう大丈夫だ。
「カテノア、自己紹介をしよう。グラスランド衛兵騎士団、万象調査隊のリートだ」
「同じく、ユーカです」
「わた、私はカテノア、アベイラおね、お姉ちゃんの、妹で、メレナの、お、叔母です」
笑顔を見せたカテノアの目から、今にも涙の粒が溢れそうだ。
「ほら、ヴェッツさんとメレナさんも」
大事な壊れ物を扱うように怖々とカテノアを抱きしめる夫妻を見て、ようやく重たい枷が取れたような、そんな気持ちが溢れてきた。
……成功の嬉しさよりも安堵の方が大きいな。
ユーカもほっと息をついて、その場に座り込んでしまった。
今回は上手くいったが、次はどうなるか分からない。
神秘とはそういうものなのだ。
ヴェッツ夫妻の礼を受け取りながら、ふと後ろを見ると、浮かない表情のアンルカさんが、隣に立つランジャック隊長に声をかけていた。
「隊長、騎士団長への報告はいかがいたしますか?」
「承諾もなしに勤務中の騎士を連れてきたからな。……後日、俺が頭を下げに行く。リートに始末書を書かせろ」
「ヴェッツ夫妻宅の補修費用はどうしましょう」
「あー、……うちが出すしかあるまい。とりあえず仮補修をしておけ。ここにいる全員で。今夜中に」
お手数おかけします。