プロローグ おじさんと私
………人が燃えていました。
黒い炎によって、沢山の人たちが燃えていました。
あんなに強そうだった兵士さんも
あんなに綺麗だった侍女さんも
みんな等しく、黒い炎で真っ黒に変えられてしまいました。
黒い炎は水をかけても、床に擦り付けても、決して消えることは無く
ゆっくり、じわじわと、人々を焼き尽くしていくのです。
沢山の黒こげの中、私は進みます。
特にどこへ行こうというつもりは無かったのですが、みんなの焼け焦げる匂いがどうにも不快だったのです。
私は歩くことが出来ません。
このお屋敷に来た時、ご主人様は私の足首を切ってしまいました。
確か『玩具に歩く必要は無い』というようなことを言っていた記憶があります。
だから私は腕だけではいづるように、黒こげの間を縫ってゆっくりと進んでいきました。
部屋を出て、長い廊下を進んだ先。
お屋敷の大広間にご主人様はいました。
ご主人様も他のみんなと同じように真っ黒で、とても恐い顔をしたまま大広間に吊り上げられて死んでいるようでした。
そして、その死体を見上げるようにして、一人の男の人が立っていたのです。
「ん?」
男の人は私に気がつくと、驚いたように目を見開きます。
そして、私へ近づいてくると視線を合わせてしゃがみ込み、笑顔を浮かべてくれました。
「こんばんは、お嬢さん」
「こんばんは………」
男の人は不思議な姿をしていました。
真っ黒な軽鎧に銀色のコート。
コートの背には、白い兎足の刺繍が縫いこまれています。
あまり見たことの無い衣装………だけど、何より目を引くのは男の人の顔形でした。
目が眩むような銀白色の髪。
二つの瞳は吸い込まれるように深く、濃い、赤。
そして、その顔には顔面を真っ二つに裂くような深い傷痕が刻まれています。
それは私の知る、どんな人とも異なっているものでした。
それはどこか幻想的な姿で。
目の前にいるはずなのに、私は何だか御伽噺の天使様にでも出会ったような気がして、ジロジロと男の人を見つめてしまいます。
「?」
男の人は、そんな私へ首を傾げて微笑むと、私と目線を合わせるようにようにしゃがみ込んで口を開きました。
「お嬢さん。ここで大きな火事があったと思うんだけど、君は大丈夫なのかい?」
「大丈夫です」
「でも、体中に怪我をしている。
………火傷ではないようだけど」
「大丈夫なのです」
彼の言葉どおり、私の体は傷だらけです。
ご主人様は私の体を傷つけるのが大好きで、毎晩のように刃物で私の肌を切ったり、皮膚を剥がしたりしていました。
だから、大丈夫。私は大丈夫なのです。
また困ったように首を傾げる彼へ、今度は私の方から質問してみることにしました。
「あなたは、誰ですか………?」
「誰、か………。
うーん、本当に僕は誰なんだろうねぇ?」
私の質問は残念なことに質問で返されてしまいます。
『僕は誰なんだろう?』という問いかけに私は一生懸命頭を捻ってみたのですが、男の人が誰なのか、私には見当もつきませんでした。
「ごめんなさい………わからないです」
何だか申し訳なくなって私が謝ると、彼は笑って頭を撫でてくれました。
「いや、今の質問はおじさんの方が悪かった。
君は何にも悪くないよ。
そうだなあ………おじさんは、見ての通りただのおじさんさ。
君もおじさんって呼んでくれたら、それでいい」
「おじさん………?」
不思議に思って、私がおじさんの顔をまじまじと見つめていると、今度はおじさんが私へ問いかけます。
「ところで君こそ誰なのかな?
このお屋敷にいる人たちは、みんな焼き尽くしたつもりだったのだけれど、何で君は生きているんだろう?」
「わかりません………」
おじさんの問いかけに、私は首を振ってしまいます。
あの黒い炎は私だけを焼きませんでした。
私が炎に触れても、ほんの一瞬で消えてしまったのです。
私は困って首を振っていると、おじさんはうんうんとうれしそうに頷きはじめます。
「もしかしたら………君は彼らより僕らに近い人なのかもしれないな。
ねえ、君はこのお屋敷で何をしていたんだい?」
「私は………ご主人様の玩具、です」
「おもちゃ………?」
「ご主人様がそう言っていました。
私はご主人様の玩具だから、ご主人様は私に何をしてもいいのです」
「うーん………」
私の答えに、おじさんは何だか考え込んでしまいます。
「………君の名前は何ていうの?」
「覚えてない………知らないです」
「そっか………知らないんだ」
おじさんは少し困った様子で私を見つめていましたが、しだいに顔を綻ばせていきました。
「実はおじさんも自分の名前を覚えてないし、知らないんだよ。
おじさんと君は『名前を忘れた仲間』だね」
そう言っておじさんは私の手を取ると、とてもうれしそうに微笑んでみせました。
その微笑みがあまりにもうれしそうなものだったから、つい、私も笑ってしまいます。
「それで、君のご主人様はどこにいるのかな?」
「そこにいる人です」
私が真っ黒こげのご主人様を指差すと、おじさんは罰が悪そうに顔をしかめます。
「ありゃりゃ、この人がご主人様だったんだ。
ごめんね。おじさん気付かなくて、つい殺してしまったよ」
「………そういうことも、あるのではないでしょうか?」
おじさんが申し訳なさそうに頭を下げるので、私はおじさんが気にしないようにそう伝えたのですが、途方に暮れてしまった、というのが正直な感想です。
だって、私はご主人様の玩具なのです。
ご主人様がいなくなってしまったら、どうしていいかわからなくなってしまいます。
気にしないようにと伝えたものの、私は茫然自失としていたのでしょう。
おじさんがますます申し訳なさそうに表情を曇らせました。
「君に行くところはあるの?」
おじさんの言葉に私は首を振ります。
私に行くところなんてありません。
そもそも、自分がどこから来たのかも知りません。
私の記憶はこのお屋敷で、ご主人様に足を切られた所から始まっています。
私がボウっとしていると、おじさんがそっと手を差し伸べました。
「行く当てが無いのなら、おじさんと一緒に来るかい?」
「おじさんが、私の新しいご主人様になるのですか?
私をまた玩具にしてくれるのですか?」
私はおじさんの手を見つめたままそう尋ねましたが、おじさんは静かに首を振ってみせました。
「いや………おじさんはもう大人だから玩具はいらないんだ。
変わりに、君と友達になりたいんだよ。
おじさんは、これでなかなかの寂しがりやでね。友達が沢山欲しいんだ」
「お友達?」
私は不思議に思っておじさんを見上げますが、構わずにおじさんは言葉を続けます。
「もっとも、おじさんの友達になるということは、同時に生き物としての摂理を超えるということでもあるんだけどね………どうする?」
おじさんは少し躊躇いをみせながらも、私に問いかけます。
おじさんの言っている言葉の意味はよくわかりませんでしたが、私に迷いはありませんでした。
「私………『せつり』超えます。
おじさんのお友達になりたいです」
「………本当に、いいのかい?」
「はい」
だって、おじさんは、私に初めて笑顔を暮れた人なのです。
私へ友達になりたいと言ってくれた人なのです。
ここでお別れをしてしまうのは、堪らなく嫌なのです。
「………ちょっとだけ、痛むよ」
そう言って、おじさんは私の顔に手のひらを当てました。
同時に私の中で何かが猛り狂うかのような衝撃が駆け回ります。
それはご主人様から受けていた苦痛に比べれば、さほど苦になるものではありませんでしたが
疲れきっていた私は、衝撃に身をまかせるように、深い眠りへとついていったのでした。
◇
目を開けると、真っ赤な月が空に煌いていました。
月とはあんなに紅いモノだったでしょうか?
どこか朦朧とした頭の中で、私はそんなことを考えます。
「やあ、目が覚めたかい?」
そんな私の耳におじさんの声が届きます。
どうやら、私はおじさんに背負われて、深い森の中を進んでいるようでした。
私が居たお屋敷はもうどこにも見えず、おじさんは随分な距離を私を背負ったまま歩いてくれたようでした。
「おじさん………ごめんなさい」
「いいよ、友達だろ? それにおじさんはこう見えて力持ちなんだ」
私からは見えませんでしたが、どうやらおじさんは笑っているようでした。
「もうすぐ、おじさんの家に着く。
そしたら他の友達を紹介しよう。みんな良い奴だから、きっと君とも仲良くしてくれる。
それに、君の足を何とかしなければいけないな。
魔人化すれば、君の腱も再生されるかと思ったのだが………どうやら、その傷は業の深いものらしい。
とりあえず神官にでも、相談してみよう」
「はい………」
おじさんの言っていることは相変わらずよくわかりませんでしたが、私はそれよりもおじさんの背中が温かいことがうれしくて。
他のことはどうでもいいかな、という気持ちになっていました。
私はその温かいものをもっと求めて、おじさんの背に頬を当てます。
その時、はらりと見えた自分の髪が、おじさんと同じ銀白色になっていることに気付きました。
「素敵だった赤毛が白色になっちゃったけど………どうかな?」
「………綺麗」
「それは良かった」
私の言葉におじさんがホっとしたような息を吐くと、思いついたように言葉を続けます。
「ところで、さっきから君、君と呼ぶのも可笑しな話だな。
君に名前をつけさせてもらってもいいかい?」
「名前?」
「うん。君は鮮やかな赤い髪を持っていたからね。
『ルージュ』と呼びたいのだけれど………どうだろう」
私は自分が持っていた赤毛よりも、今の銀髪の方が気に入っていたので、あまりその名前が気に入りませんでしたが、他でもないおじさんがつけてくれた名前です。
私はそれを受け入れることにしました。
「その名前………とても素敵だと思います。
今日から私はルージュです」
「お褒めに預かり恐悦至極。
よろしくね、ルージュ」
「はい、おじさん」
おじさんが冗談っぽくそう言うので、私も少しだけ笑ってそう答えます。
ルージュ、それが私の名前です。
初めまして、ルージュといいます。
ルージュです。とても素敵です。
◇
「ルージュ、もうすぐ家に着くよ。
家と言っても仮のモノだけどね、おじさんは引越しが多いんだ」
おじさんがそう言って前の方を指差します。
指の先には、ご主人様のお屋敷と同じくらい立派な建物が建っていました。
それは大きな町の中央にぽつんと建った一軒のお屋敷。
お屋敷の周りの家々は、瓦礫の山になっていて、真っ黒に変色した血の跡があちらこちらに残り、鋭利な刃物で切り裂かれたような人間の死体がバラバラと、沢山転がっていました。
鼻の奥に、死体の腐った匂いがツンと入ってきて、私は咳き込んでしまいます。
「やれやれ………これは蛮族の仕業だな。
まったく、ゴミはちゃんと片付けておけといつも言っているのに………」
おじさんは呆れた様子で、真っ黒になった肉片を避けながらお屋敷に向かって進んでいきました。
お屋敷の前には、沢山の人々が待ち構えていました。
人々は剣を持ち、甲冑に身を包んでいて、私の少ない知識でも彼らが『戦士』と呼ばれる人たちであることがわかります。
戦士様たちは体中から血を流し満身創痍の様相でしたが、瞳だけはギラギラとおじさんを睨みつけています。
そして、一人の戦士様が私達に向かって嘆くように叫び声を上げました。
「よくも、俺たちの街を!
俺たちの仲間を、住民を!
………俺たちの全てを!
よくも………よくも、奪ってくれたなぁ!! 魔王!!」
彼の叫び声と同時に、沢山の戦士様たちが剣を振りかざし私達へ襲い掛かります。
だけどそんな彼らへ、おじさんはため息を一つだけついて、指先に黒い炎を灯しました。
「お前達が持つべきは蛮勇ではなく、勇気。
そして、今抱いているそれは、もはや愚昧と呼ぶべきものだよ」
そんなことを呟きながら、ぞんざいに手を振って黒い炎を戦士様たちへ放り投げます。
おじさんが放った炎は、先頭を走っていた戦士様に当たり―――弾けるように黒い大炎となって、彼らを焼き尽くしていきました。
それは、私がお屋敷で見た黒い炎と同じもの。
どんなことをしても、対象を焼き尽くすまで消えることのない、呪われた焔の渦。
あれだけ果敢であった戦士様たちは、あっという間に黒い炭へと変わってしまいました。
「まったく………バルバロイめ。
よりによって、こんな小うるさい連中を殺し損ねるとは………困った友達だよ」
やれやれと肩を竦めながらも、おじさんはおだやかに笑います。
おじさんが、世界中の人々から『魔王』と呼ばれていることを知ったのは、それから少し後のことでした。