観能の時間
年に数回、能を観に行きます。能の演目は曲で数えますので本来は「聴きに行く」と言うらしいです。
主人が好きで誘われたのが始めです。で、だんだん好きになっていきました。
唱えも謡も地謡も聴き取れないことが多いです。だから何をしているのかわからないこともしばしばあります。ただ謡本は持っているので事前に読み、大体は把握してから観るようにしています(古文なのでわからないところがあるのです)。使用されている言葉自体はとても美しいと思うのです。
内容は例外も勿論ありますが殆どオカルトです。死んでなお何かしらの思いを残した人たちの話が多いのです。
怖い話は嫌いなので、細かい内容がわからないから聴いていられるのかもしれません。
それでも私が惹かれたのは。能を観るその空間と時間の非現実感です。
私見に過ぎませんがまるで夢の中の世界にいる気分です。夢といっても某テーマパークの能天気さや華やかさではなく、心の奥を透かし見るような、純粋なかたちになった一つの思いを目のあたりにする感じです。
能舞台の背景には松が描かれていて、「鏡板」と言います。だから本来は松が舞台の正面か、その後方にある筈なわけです。松と鏡に映った松の間の、実際には無い空間で演じられているものを私は観ています。
その無いのに広い舞台という空間の上で人の思いのかたまりが どうしようもなくそこにあるのを、夢を見るように観るのです。静かでほの暗い見所から。
能の所作はとても美しく。別世界のようなのに。私の中にあるものが昇華されてそこに現れた気がして。
もしくは誰かの夢を見せて貰っているようで。
覚めて見られる夢を観に能楽堂へ行くのです。