110.少女、九死に一生を得る。
オズワルドは祠の前へと進み出た。そっとその表面に触れ、目を閉じ集中する。
すぐさま彼を中心に魔風が発生した。水面に波紋が発生し、黒い岩肌に青い紋様が走る。さほど間を置かずに扉がゆっくりと内側に動き始めた。
魔法を発動させる時とはまた違う手順のようで、取り込んだマナを魔導に変換せずそのまま放出しているようだ。
(どうやるんだろう)
好奇心に駆られたニチカは、その様子をよく見ようとそーっと寄ってみる。師匠の後ろからのぞき込んだ――その時だった。
「!? ッ……来るな!」
「え」
気配に気づいたオズワルドが焦ったように手を払う。
その手が少女の肩に触れた瞬間、事件は起こった。
バチッ
「ひぅっ!」
「っでぇ!」
二人の間に反発する衝撃が生まれお互いに吹っ飛ばされる。ニチカは祠の扉に叩きつけられ、肺の中の空気が押し出されて一瞬呼吸が止まった。
せき込みながら膝を着いていると、向こうで川に尻餅をついている師匠の怒号が飛んできた。
「バカ! お前は火の属性だと言っただろうが! 放出中に反属性が寄……るな……」
その表情が見る間に驚愕に染まっていく。視線の先を追った少女は、自分の背後の扉から半透明なゲル状の物が出てくるのを目の当たりにした。透き通る巨大泥人形は右手をゆっくりと振りかぶるとこちらに向かって圧し掛かってくる。
「ニチカちゃん!」
「うわぁぁぁっ!?」
ランバールの鋭い声に我に返り、脊髄反射的に転がって回避する。それでも水の魔物は掴みかかろうとしてきた。
「いやー! いやー!! いやぁぁぁ!!!」
死に物狂いで転がった少女は杖を構えて必死にマナを手繰り寄せる。
「ブラスト!」
炎属性の爆破が命中し、水の魔物の片腕が吹き飛ぶ。……だが、一度散った水はすぐさま集まり、何事もなかったように形成されてしまった。
「実体がないんだよっ、こっち」
「ラン君っ」
駆け寄ってきた彼に手を引かれ距離を取る。腰を抜かしている市長の側まで下がる事ができたが、オズワルドとは川を挟んで分断されてしまった。
水に火を撃ち込んでも当然のごとくダメージは与えられない。何か有効な手立ては……パニックに陥ったニチカは目まぐるしく考える。
「えーとえーとえーと、どうしよう。……雷? 電気とか! よーっし!」
「わーっ! 待った待った! オレらまで感電するからそれはやめて!」
掲げた杖がバチバチと帯電するのを見て、ランバールは血相を変えて少女を止める。
実体のない相手に雷を撃ち込んでも電気を通すだけ、逆にこちらへの被害が出るとんでもない自爆技である。
「ニチカ! お前後で覚えてろよ!!」
うろたえていると川の向こうから師匠の怒号が飛んできた。さすがと言うべきか水のバケモノを一瞥しただけでその正体を見破ったらしい。
「そいつはおそらくガーディアンの一種だ。この祠の中に守護の要になっている物があるはず」
水のガーディアンは、反属性だからか、はたまた単純に機嫌を損ねたからか、執拗にニチカだけを狙い続けている。
幸い動きはそこまで素早くないのでなんとか逃げられてはいるが、顔のないのっぺらぼうに追いかけられているのは単純に気味が悪い。
「じゃ、それ早くどーにかしてよぉ!」
ガーディアンが地面の何も無いところに向かって左手を叩きつける。するとニチカの間近から水柱が間欠泉のごとく噴き上がり転びそうになる。
必死に助けを求める弟子に対し、師匠は祠の壁をドンと叩いて非情な現実を伝えてくれた。
「お前が邪魔したせいで中途半端にしか開いてないんだよ! すぐ開けるから何とかそれまで持ちこたえろっ」
「うわぁぁぁん!!」
自分で蒔いた種とは言え悲惨すぎる。
ホウキを取り出した少女はしがみつくように飛び乗り逃げ始めた。
ところが、ニチカがある程度距離を取ったところで水のガーディアンは不格好な人型から細い糸のようにスルスルと形を変え始めた。
まるで籠を編み上げるが如くニチカの行く手をふさぎ始める。文字通り流れるような動きに一瞬だけ地上で見た噴水の事を思い出し見惚れてしまった。
「っ!!」
だがその内の一本が鋭い錐のようにこちらを攻撃してきてその認識を改める。こんな危険な水芸があってたまるか。
なんとか直撃は免れたが、かすめた頬から血が一筋流れ落ちる感覚が伝わる。拭う間もなく次なる攻撃が襲い掛かり慌てて回避する。
「下! 右斜め上! 下四十五度・七時の方向!」
「ラン君わかんないってぇぇ!!」
攻撃が来る方向を下から半精霊が教えてくれるのだが、頭がこんがらがってワケが分からなくなっていく。
「真下と右後ろから同時に来てる! 左に飛んでっ、そのまま急降下!」
「っ!」
もはや感覚のみで避けていたのだが
「、う、あっ?」
コンマ数秒、攻撃の手がピタリと止む。
それまで張り詰めていた緊張感が、それでぷちん、と切れてしまった。
リズムを崩されたニチカは空中でたたらを踏む。
「……」
どう動けばいいか分からない。
今まで自分はどう動いていた?
いや、むしろどうやって飛んでいた?
「後ろ!」
鋭い声に呪縛が解ける。
振り向いたすぐ目の前に、水の槍が迫っていた。
時間がゆっくりと動く。
槍はあと数センチで腹に突き刺さる。
だが、体はもどかしいほどゆっくりとしか動かない。
(もうダメだ――!!)
絶望にギュッと目を瞑ったその瞬間、流れる詠唱が鍾乳洞に響く。
――凍てつく風 凍える風
「!」
――冷やせ 凍らせ 熱を喰らえ
まるで歌っているように弾む声。
発動呪文を操るその時でさえ、彼女は楽しそうだった。どこからか飛来したその人はニッと笑いながら一直線にこちらに向かってくる。
「『我らに仇なす敵を絶対零度の世界へいざなえ』ぇぇーッ!!」
「シャルロッテさん!?」
ホウキに乗って現れた彼女は、金色の尾を引きながら水の槍に向かって何かを投げ込む。空中でクルッと一回転したかと思うと、指を鳴らし合図を出した。
「急速冷却弾!」
バキン!という強烈な音を立てて、水が瞬時に凍りつく。ニチカの腹へ迫っていた槍は、触れるか触れないかギリギリの位置で止まった。
少し押されたら刺さりそうな位置からじりじりと下がり、ほーっと空中から落ちる。へなへなと地についたニチカが見上げると、シャルロッテはパワフルなウィンクを決めた。
「だいじょ~ぶ? ニチカちゃん」
***
「いやホントぎりぎりだったわねぇ、オズちゃんの冷却弾じゃなきゃ危なかったかも」
突然の救世主がホウキから飛び降りると、下であっけに取られていたランバールが顔を強ばらせる。
「ロッテ先輩、どうやってここに……」
「あー、そういうのは後々。とりあえずこのガーディアンをなんとかしなきゃでしょ?」
割り切った表情でシャルロッテはガチガチに凍ったガーディアンの根元をたどっていく。
そして自分をじっと見据えるオズワルドに気づくとわずかに肩をすくめてみせた。
「言いたいこともあるだろうし、話したいことも色々あるけど。そっちが先」
祠の岩扉は猫くらいなら通り抜けられそうなぐらいには開いていた。もう何かに追われることもない。時間さえかければ問題なく開くだろう。
ところがシャルロッテはいきなりガッと手をかけると、ふすまでも開け放つような気軽さで押しのける。
「!?」
「ハイハイ、これね」
目を剥く一同には構わず、そのまま中に上半身を乗り出した彼女は、白い台座の上に奉られていた青い魔導球をむんずと掴んだ。
事も無げにそれを取り出すと繋がりが切れたのか、氷付けのガーディアンはバラバラに崩れ水の中に還っていった。まだ事態を理解できていないニチカが混乱する頭で問いかける。
「……水属性だったんですか?」
「そうよ、言わなかったっけ?」
ニチカは尋ねたいことが色々あった。だが、口を開きかけたところでオズワルドと目が合う。その視線の意味は言葉にしなくても伝わった。黙って居ろ、と。
「……」
沈黙が訪れる。気まずい雰囲気の中、先に口を開いたのはオズワルドだった。
「シャルロッテ。話を始める前にこれだけ答えろ」
答えによっては殺さんばかりの気迫にランバールは固唾を呑み、ニチカはホウキをギュッと握り締める。
「俺たちを裏切ったのか?」
しばらく俯いていた彼女は、ゆるゆると小さく頭を振った。
「いいえ……でも、結果的にはそうなっちゃったのかしら」
「箱の中身がディザイアだったのは――」
「それは本当に知らなかったの! 私には開けられなかったし、本当にただ運べと命令されただけで」
命令。
その言葉を口にしてしまったシャルロッテは息を呑み、オズワルドは一瞬考えを巡らせたあと地の底から這うような声を出した。
「あの男か」
「あ……」
「白魔だな、そうだろ? シャル!」
ほとんど怒鳴りつける勢いで問い詰めると、彼女の緑の瞳がたちまちの内に潤んでいく。
そのまま流れの中に膝をついたシャルロッテは、張り詰めていた気持ちが割れてしまったかのようにすすり泣いた。
オズワルドはその傍らに行くと膝を着き震える肩に手を置く。そして少しだけ柔らかい声で質問を重ねた。
「脅されたのか?」
「……」
「いつ接触があった?」
しばらくの間を置いて顔をあげたシャルロッテは、しゃくり上げながら助けを求めた。
「お願い、助けて……オズワルド」