103.少女、心を殺す。
「うわぁ……!」
なだらかな丘を越えた先に見えてきた光景に、少女は感激の声を漏らした。
よく晴れた青空の下、エメラルドグリーンに輝く水を湛えた円形の湖が広がっている。端から端まで歩いて数時間はかかるだろうか、特筆すべきなのはその湖にまるごと一つ街が浮かんでいることだ。
ここからでも、まるでクリスタルのように繊細な光を反射する宮殿のような建物が建っているのが見える。周囲には同じくガラスをふんだんに使った美麗な建物がいくつも並んでいるようだ。
水の国サリューン。現在いる中央大陸の中でも最北端に位置する観光と娯楽の水上都市である。
「綺麗だね」
「岸にゴンドラが止まってるのが見えるか? あれに乗って街まで行くんだ」
後ろからやってきたオズワルドの指すほうを見れば……なるほど、湖のほとりに何隻か船が停泊している。
岸から離れた一艘がゆるゆるとした動きで街へと向かう。観光気分にはいいかもしれないが急いでいるときはどうするのだろう。
「空から飛んで入るとかはしないの?」
「やってもいいが――」
師匠が説明しようとしたその時、はるか後方から高らかな雄叫びが聞こえてきた。
「ヒャーーーッハーー!!」
聞き覚えのある声に振り向いた瞬間、すぐ側を緑色の何かが通過した。一拍おいてブワァと吹き付けた風によろめきそうになる。
豪速の『何か』はそのまま湖上へと突っ込んでいき、水中から発射された水の玉に狙撃されぽちゃりと落ちた。あっけに取られていたニチカの横でオズワルドが冷静に解説する。
「無断で飛んで入ろうとするとああなる」
「ラン君ーーッッ!?」
間違いない。あの声と後ろ姿は追いかけてきているはずの彼だった。
ぶくぶくと気泡がはじけたと思うと、緑の髪の青年が水中から飛び出した。ランバールはケタケタと笑いながら濡れた髪の毛をかき上げる。
「だはははっ、失敗失敗」
「ごしゅじーんっ!」
またも聞きなれた声が響き、今しがた越えてきた丘の上に茶色のオオカミが現れる。素晴らしい速度で駆けてきた彼は目の前でキキーっと急ブレーキをかけた。
「追いついた追いついた! どうどう? 宣言通り水の国に入るくらいで追いつけたでしょ? えらい? 褒めて褒めてっ」
全力で走ってきたことでテンションが上がっているのか、尻尾をちぎれんばかりに振るウルフィを見てクスリと笑いがこみ上げる。離れていたのは三日ぐらいだと言うのになんだか懐かしく、その鼻先に頬ずりをした。
「早かったのね。フルルに挨拶はしてきたの?」
「ニチカ! うんっ、ちゃんと送り出してくれたよ!」
満面の笑みで答える彼はこう続けた。
「そんな大事な使命のお供を引き受けたんなら、果たすまで死んでも帰って来るなってさ!」
それは……えぇと……彼女なりの照れ隠しなのだろう、きっと。
そうだ間違いない。なぜなら彼の右耳には毛に埋もれるようにして緑色のピアスがきらりと光っている。その点を指摘すると彼は照れてはにかみ笑いを浮かべた。
「照れちゃって~」
ニチカはテイル村滞在中にネコ族から聞いた話を思い出す、あれはきっと『つがいの証』だろう。
将来を誓い合ったイヌ族同士が互いの瞳の色を模した耳飾りを贈り合う、言うなれば婚約。きっと今頃、純白のオオカミの左耳には太陽のように輝く黄色のピアスが揺れているはずだ。
……婚約。
ずきりと胸に走る痛みは無視して、ようやく湖から這い上がってきたランバールの元へと歩み寄る。ブルブルッとまるで犬のように水滴を飛ばしている半精霊は、こちらと目が合うとへにゃりと笑って挨拶をした。
「久しぶり」
「かな?」
「生身では、だよ」
久しぶりに見た彼はやっぱり少しだけくせ者っぽくて、でも人懐っこい笑顔でそれを打ち消していた。髪の毛を乾かすのを熱魔法で手伝いながら、ニチカは心配そうな顔を向けた。
「あんなにスピード出したら危ないよ、水に落ちたから良かったけど」
「えええ、世の中にはあれよりもっと飛ばすバケモノじみた美人が居る――」
まさにその言葉を言った瞬間だった。
二人から少し離れた場所にドサリと大きな荷物が降ってくる。
「え」
「えっ」
そしてランバールの時とは比べものにならないくらいの突風になぎ倒される。
転んで見上げた空を、金色のキラキラした光が尾を引きながら通過していった。
「ヒャーーーーッハーーー!!」
デジャヴだろうか。
その人物はランバールとまったく同じ軌道を描いて水の弾に撃墜される。
ボチャンという音を聞いたニチカはハッとしてその人物の名前を呼んだ。
「シャルロッテさぁぁあああん!?」
***
「あはははっ、失敗失敗」
しばらくして、やはり同じような照れ笑いを浮かべながら上がってきたのは、配達業を営む顔見知りの魔女だった。彼女はこちらに気づいたかと思うとパッと顔を輝かせる。
「ちょっとやだ、またオズちゃんとニチカちゃんじゃない。よく逢うわねぇ」
「シャル、スピード狂もほどほどにしないと、いつか飛行船辺りにぶつかって死ぬぞ」
「うふ、心配してくれるの?」
忠告したというのにニヤニヤ笑いを返されオズワルドの機嫌が急激に下降する。ニチカは慌てて話題を逸らした。
「ああ、ええと、シャルロッテさんはお仕事ですか? こんな遠いところまで大変ですね」
その言葉に輝くようだった笑顔にほんの少しだけ影が差した。
あれ、と思う間もなく彼女はすぐに苦笑を浮かべて肩をすくめて見せた。
「まぁ、そんなとこ。そっちは順調? ここにいるってことは、んー、火の桜花国でしょ、風の里は通っただろうから……あと目星がついてないのは行方不明って言われてる土くらいかしら?」
「いえ、土の精霊様には偶然会えたんです」
「本当? すごいじゃない! ニチカちゃんサイコーッ」
まるで自分のことのように破顔して抱き着いてくるシャルロッテに胸が暖かくなる。
思えばこの人は最初から自分の助けになってくれた。空からやってきてオズワルドを井戸に突き落としたのが今となっては遠い昔のようだ。
「じゃあ、後はここの水精霊に会えればミッションはコンプリートしたも同然ね」
改めて言葉にされ胸の奥に鈍い痛みが走る。
(やだな、この痛み……)
原因はわかっているはずなのに認めたくない。少し離れたところに立っているはずの師匠を見ることができない。
だが返事を待つシャルロッテの視線を受け、むりやりに笑顔を作った。
「はいっ。このまま順調に行ってくれると嬉しいんですけど」
本当に? と、心の中のもう一人の自分が問いかけて来る。
本当だ、と頭の中でしっかりと答える。
元の世界に戻るための悲願。この世界を救うため。順調で悪いわけがない。
「だーいじょうぶ、ニチカちゃんだもの。きっと上手くいくわ」
ウィンクをしてくれるシャルロッテに励まされて微笑み返す。
そこでようやくもう一人を待たせている事を思い出し、紹介しようと振り返った。
「そうだ、シャルロッテさん。こっちはランバール君って言って風の里の――」
だがそこで異常に気付く。さきほどから静かにしていた彼は、笑顔でそこに直立していた。
とても満面の笑みだ。凄まじく冷や汗さえかいていなければ。
「……ラン君?」
顔面蒼白という言葉がぴったりな彼を一目みたシャルロッテは、両手を胸の前で握り締めて黄色い声をあげた。
「いやぁぁーっ! もしかしてランラン!? やだーっ久しぶり!」