101.少女、押し留める。
それから魔法陣についての授業を開始して小一時間。オズワルドは信じられない思いで目の前の少女を見ていた。
「じゃ、ここをこう繋げて……この記号を入れれば――あれ? ダメだ。んん? あ、そっか。違う違うこっちだ!」
ニチカが記号を書き入れた瞬間、ポッと陣の中心に火の玉が出現する。意外にも一度教えただけですんなりと基礎を習得してしまった少女は、自分なりにまとめに入った。
「いつもは頭の中で構築する魔法を実際に書いて発動させるって感じだね。あ。ってことはつまり、さっき教えてもらった時間軸をずらす記号をここに入れれば」
円をつないで完成させた少女は、数歩さがって口の中でカウントする。十を数えた辺りでパチンと指を鳴らした。
「ブレイク!」
ボンッ
小規模な爆破が生じ、辺りの小石を吹き飛ばす。教えもしない内にタイムラグを発生させるとは……師匠は額に手をやり呻いた。
(魔法陣はどちらかというと魔導師の域。適性はコイツの方が上だったか)
「すごいのね! こんな便利な物があるならどうしてもっと早く教えてくれなかったの?」
無邪気にそう聞かれるが、自分でさえ数週間はかかったものをアッサリ習得され男は密かに敗北感を味わっていた。ケッと心の中で毒づきディザイアの魔法陣を見せる。
「そんな事より、どうだ? 少しは理解できるか?」
ニチカはジッとそれを見つめていたが、次第に眉間に皺が寄っていき、ついにはぷはっと息を吐いて降参した。
「無茶言わないでよ、まだ習ってない記号ばっかりじゃない」
当然だ。これで解かれでもしたら師匠の面目丸つぶれである。内心安堵していることはおくびにも出さず、オズワルドはそっけなく返した。
「ま、追々な」
「教科書ないの?」
「ない」
講義は終わったとばかりに男は立ち上がる。
ふと振り返ると、ニチカは祭壇の上のステンドグラスをぼーっと眺めていた。多少くすんではいたがキャンドルの灯りに照らされていてそれはそれで風情があるとも言えた。
きら、きら、と反射して揺らめく光が色ガラスの向こうで揺れている。それを見上げる少女は目元をやわらげながら呟いた。
「綺麗だねー、なんで放置されてるんだろう?」
「こんな辺鄙なところにあるくらいだし、特別な式典にでも使われてたのかもな」
「結婚式とか!」
急に目を輝かせた少女はうっとりしたような瞳で教会内を見回す。
「いいなぁ~、確かにムードあるかも。そういえばちょっと前――って言っても元いた世界の話ね――家の近くでも結婚式してたの。そうそう外観からの想像だけどこんな感じだった」
「……」
あぁ、おしゃべりスイッチが入ってしまった。
楽しそうに囀りだす弟子を見下ろしながら男は内心ため息をつく。こうなったら気が済むまで喋らせた方がいい。途中で打ち切ろう物なら途端に不機嫌になるのだから女とは面倒くさい生き物だ。
「新郎新婦がちょうど出てくるどころだったんだけど、花嫁さんがすっごく綺麗でね。ねぇ聞いてる?」
「聞いてる」
やや棒読みながらも相づちを打つ。この調子だと五分……いや十分か。
「やっぱり憧れるなぁー。あのね、花嫁さんたくさんの人に囲まれててね、キラキラ輝いて幸せそうな顔して笑ってたの。私もいつかあんな風に祝福されてみたいな」
その時オズワルドは、この状況を手っ取り早く打ち切る良い方法を思いついてしまった。悪戯心が湧いたと言ってもいい。
「……予行練習でもしてみるか?」
「えっ」
少女の理解が追いつく前に手を取り、甲に恭しくくちづけを落としてやる。ニッと笑った男は真ん丸に見開かれた瞳を覗き込みながら言った。
「誓いの言葉とやらは、そんなに意味のあるものか?」
しばらくポカンとしていたニチカだったが、見る間にその頬が赤く染まっていく。
「とっ、当然、でしょ。幸せにするっていう未来への約束なんだから」
「ふむ、いずれ役に立つかもしれんな」
「どういう場面で!? まさかあなた結婚詐欺とかするつもりじゃ……っていうかすでにしてるんじゃないの」
「失礼な、そんなことはしてないぞ。まだ」
「まだ!」
もくろみ通りこちらのペースに引き込む事に成功した。このまま少し遊んでやっても良いかもしれない。
オズワルドはいつものように薄く笑いを浮かべ目の前の少女を見下ろす。
「私は貴女を生涯の伴侶とし、どんなに泣きわめき拒否されても地獄の底まで添い遂げることを誓います」
「なんか違う!」
「何時いかなる時でも上に立つ者としての心構えを忘れず、たゆまぬ調教と不断の努力を重ね、善き主人としてこき使い続けると――」
「これ何の誓い!? 新郎だとしたら最低すぎるんですけど!! 新たな門出から奴隷宣言とかどんなハードプレイよ!?」
そんな奴のところに嫁ぐ嫁の顔が見てみたいわ!などと喚くニチカの手をグッと引く。
「わっ!」
その細身な見た目からは想像できないほどにオズワルドは力が強い。いや、純然たる男と女の差なのだろうか。抵抗らしい抵抗も出来ぬまま、ニチカは気づけばその腕の中に収まっていた。
「俺の物になるのがそんなに嫌か?」
「そっ……ういう問題じゃなく、て」
苦しくはない、ゆるく囚われた檻の中で現状を把握すると、じん……と甘く痺れるような感覚が全身を走る。
それまでのからかうような響きは消え、オズワルドは真面目な声で問いかけた。
「愛の言葉が欲しいなら、誓いの言葉を望むなら、お前もそれを等しく返してくれるのか? 与えると誓えるか」
「……」
「……」
声が、出ない。なぜだかニチカは急に泣きたくなった。無性に切なくて胸の辺りが痛む。
「……なぜ泣く」
「わかんない」
堰が壊れたかのように涙がサラサラと流れ落ちる。
こんな泣き方は初めてだった。頭は妙に冷静で拭う気も起きずにただ感情を垂れ流した。
ざぁっ
風向きが変わったのか、ゆるやかな流れが教会の中の空気をうごかしロウソクの火が一斉に揺れる。
それが収まった時、視線が合ったのは本当に偶然だった。
カチリと合わさった目線はもう外せない。
あんなに冷たく見えた薄青の瞳が揺らめいている。
氷の向こうに隠された本当の彼に届きそうで、少女はまっすぐに視線を伸ばした。
「……ニチカ、俺は」
そっと頬に手を当てられる。その表情はどこか苦しそうに歪んでいた。
教会の女神像に見守られながら見つめ合う二人。
祝福はされず、見届ける者も居ない。
気持ちを言葉にできないのはどうやらお互いさまだったようだ。
言いよどんだオズワルドは引き寄せられるように顔を近づける。自然と目を閉じかけたニチカの脳裏に、誰かの声が再生された。
――本当にアンタなんかが愛されるとでも思っているの?
「!」
ハッとした少女は唇が触れる直前、身を引いた。
震える手で彼を押し戻したニチカは、かすれる声で告げる。
「こういうの、終わりにしよ」
ひどく空虚な響きは教会内に静かに吸い込まれていく。
「これ以上、貴方に踏み込まれたら……私、もう」
戻れなくなる。ここがギリギリのラインなのだろう。
「ごめん、なさい」
これは挙式などではない。埋葬だ。
気づき始めた想いを穴に放り、蓋をして見えないようにするための儀式。
開きかけた扉は哀しいほどあっさりと閉じられてしまった。
一瞬だけ泣き出しそうな顔をしたオズワルドの顔を、不幸にもニチカは見ていなかった。
氷の仮面が剥がれたその一瞬を、少女は逃してしまったのだ。
すぐさま凶悪な仮面をかぶりなおした男はあざける様に嗤う。
「、はっ、そうだな。俺らの関係はそんな祝福されるようなものじゃなかったか」
「あ……」
冷たい手で心臓をわしづかみにされたような恐怖がニチカを襲った。
その時、ひときわ強い風がざぁ、と吹き込みロウソクの火が一斉に吹き消された。
教会に闇の帳が落ちる。
「っ」
暗闇の中、いきなり爪が食い込むほどに荒々しく引き寄せられ、噛み付かれるようなキスをされる。乱暴に舌を絡めとられ、息つく暇も与えぬほどに蹂躙される。
最前列の椅子に押し付けられ、質量のある影が覆いかぶさるように圧し掛かって来るのを感じニチカは戦慄した。
ようやく呼吸を許され新鮮な空気が入って来る。
少女はカタカタと震えながら、影に赦しを乞う。
「いや……いやだ……ごめんなさい……赦して」
その怯えが伝わったのだろう、影は一瞬動きを止めたかと思うとそのまま動かなくなった。
影が少しだけ引くのを感じる。
しばらくの静寂の後、まるで自分に言い聞かせるような声が響いた。
「わかってる」
全てをあきらめたような、そんな声だった。