第三十二話 老臣
第三十二話 老臣
≪アリーシャ≫
御簾越しに、老いた武人が座していた。
武人の名は、主席家老モスシカ。
先代、先々代に仕えた重臣。
髪も髭も白く染まり、年を感じさせるが、未だしっかりと伸びた背筋は若者のようだった。
先代の知恵袋として重きをなした男。
ヴェリオスほど智謀の士ではないが、経験による知恵をもっている。
ここ数年は隠居したように領主の屋敷に訪れることは無かった。
そのモスシカが、女官を通してアリーシャに面会を求めて来ていた。
「アシュリー様に措かれましては、ご多忙のところをこの老人の為に時間を割いていただき、感謝いたします」
モスシカは雰囲気には似ぬ、柔らかい口調で話しかけてきた。
「前置きはよろしい。用件を聞きましょう」
私は率直に訊く。
隠居然としていたモスシカが、意味もなく来訪するはずがないからだ。
「アシュリー様は、どこまでヴェリオスに信を置いておいでなのでしょうか?」
心臓の音が一気に高鳴る。
まるでこちらの心を読んでいるような言葉に。
父が後継者として認めた私を、モスシカは信じているはず。
しかし、最近の私の行動を知り、自分の目で確かめたくなったのだろう。
(だからこそ、様子見に来たのか……。ならばここで、取り繕うのは下策)
「あの者がガラニア家を信奉する限りは」
私は端的に、自分の考えを述べる。
それに対し、モスシカは柔和な態度を崩さぬまま、やんわりと言う。
「アシュリー様を裏切らない限りは、と言うことではないのですかな?」
モスシカの指摘に、更に鼓動が高鳴る。
脈が速くなる。
「――どういう意味か?」
「あの者が殿と一部の者にしか心を開いておらぬのは、この老臣めも存じ上げております。端的に言えば、ガラニア家ではなく、アシュリー様個人と契約しておるつもりであることも」
「それは違います。ヴェリオスは、この家を守ることに心を砕いてます」
この家が亡べば、ヴェリオスは朝廷への足掛かりが無くなり、再び一からやり直さなければならない。
だから、モスシカの言うことは間違っている。
彼は私よりも、一族の悲願に重点を置いているのだ。
私はそう思っている。
(思い込もうとしている……)
そうでないと、とてもガラニア家に身を捧げることができないから。
「アシュリー様がそうお考えならば、それでもよろしいでしょう。この老臣が見るに、あの者の野望はガラニア家を利用して、どこまでも己の力を伸ばすことにあると、愚考いたします」
「それで?」
私は御簾越しに、モスシカを睨む。
彼はそんな存在ではないと思い。
ヴェリオスを信じて。
「あの者をどこまで利用する気か、この老臣めに教えていただくことは叶いましょうや」
モスシカの問いに、私は努めて冷静に答える。
「ならば聞くが良い。あの者が我が家を利用するように、私もあの者を利用しています。これまでのやり方では、いずれガラニア家はゾギナス家に呑み込まれる。なればこそヴェリオスを使い、北方全土を取り戻し、ゾギナス家を抑え込みます」
(そう……。私はそう思い込もうとしている……)
そうでなければ、彼を危険な目を合わせることなどできないから。
使うことができないから。
裏切られるのが怖いから。
「そこまで使えば、その後は不要と言うことですな?」
モスシカの目が光る。
ここで下手な答えは不審を招く。
「その後は、その後の事」
切り捨てるように私は言った。
「アシュリー様のしっかりとしたお考えを聞き、老臣も安心いたしました」
そう言って、モスシカは下がる。
護衛として一部始終を聞いていたダレスが、何とも言えない苦い顔をしていた。
ダレスにしてみれば、朋友が使い捨ての駒にされることが、耐えられないのだろう。
私にしても耐えられない。
でも、それは最初に話し合って決めたことだ。
私の願いは領地を守りきることであり、それはガラニア家の領民を守るということ。
その分を越えて動くことは破滅を招く。
ヴェリオスもあの時は、私の願いのささやかさに驚きながらも、頷いていた。
ならば私の願いを知って、それに反する動きをするとは考えたくない。
ガラニア家を裏切らない限り、私も家も、彼を裏切ることは無い。
(どうか、裏切らないでほしい……。どうか……)
私はそう、切に願った。