帰宅 - Tomorrow will take care of itself -
「ただいまー」
重い足取りでようやく帰宅すると、ちょうど妹の嬉依が二階から降りてくるところだった。
小柄な高校一年生で、まだ制服を着たままだった。
短めの黒髪に日替わりのヘアピンをつけており、階段を降りる度にその黒髪がさらりと揺れる。
そして喜一の帰宅に気付いた嬉依は「うわ」と呟いて冷ややかな視線を向けてきた。
疲れで喜一の目と妹のジト目が合う。
そして数秒ののち、はあ、と心底疲れたようにため息をつかれた。
そしてつかつかと近づいてきて耳打ちをされる。
「またなんかバカやったんでしょ。おかーさんが機嫌悪くなっててこっちまでとばっちりなんだけど」
ああ、完全に忘れていた。
家に帰ったからって今日起きたことのツケは帳消しになっていたりしない。
そういえば校長が家には連絡させてもらうって言っていたじゃないか。
疲れた心と体にトドメを刺さんばかりに現実がのしかかってくる。
「あーあ、最悪。学校じゃただでさえ気分悪いことあったってのに」
「お前もかよ」
「喜一っちゃんのは自業自得でしょ。一緒にしないでよ」
「半分はな、それ以外にもあったんだよ。んで、何かあったのか?」
「んー……」
言いづらい、というより説明しがたい、という表情だ。
「あれナンパっていうのかな……、三年の先輩から告白っていうかナンパっていうか、どっちともつかないようなこと言われてさ。すごい上から目線な上に今日だけで三回も教室来られて正直かなり困っちゃったんだよね。周りの子や男子からはからかわれるし」
もちろん喜一の知らない先輩だろう。喜一と嬉依は高校生の二年と一年だが、学校が違う。
喜一の知っている嬉依の学校の生徒なんて妹の友達数人と、中学のときの同級生くらいのものだ。
ちなみに喜一の学校の制服はブレザーだが、嬉依の学校の制服は今時学ランにセーラー服だったりする
。
「なんだそりゃ。ストーカーみたいな奴だな」
「しかもあんまりいい噂聞く人じゃないし……どう断ろうか今日一日悩んでたんだよね」
「お前、見てくれはいいからそういうのによく絡まれるよな」
「いい加減、謙遜するのも馬鹿馬鹿しくなるくらいにね……。実際のところホント嫌なんだけど」
身内びいきになるので滅多に言わないが、兄から見ても嬉依の容姿はかなり可愛らしいと言っていい部類に入ると思う。
しかも背が低くて小柄で肌も白く、庇護欲を掻き立てられる男は多いんじゃないだろうか。
おまけに性格にこれといった問題がないのだから、そりゃモテる。
しいて言えば胸回りが残念だが、嬉依のようなスタイルだとその方が似合うという意見もある。
ただ、一度それを言ったらしばらく口を聞いてくれなくなったことがあるが。
そしてその小動物のような見た目からか、嬉依は同性から猫可愛がりされることが多い。
問題は男からの反応だ。
こいつの男運は最悪と言ってもいい。
それが運なのか見た目のせいなのかは判断はつきかねるが、とにかくロクな男が近付いてこない。
小学校の頃は通学途中に知らない男から付きまとわれたり、カメラを向けられたり。
中学ではけったいな話し方をする同級生から日替わりで告白されたこともあり。
中学卒業時に至っては校庭の樹の下だのどこぞの曲がり角に来いだのと、怪しい手紙が鞄の中に大量に突っ込まれていたらしい。
その曲がり角の方の手紙は保存袋に入った食パンとセットになっていたと聞いたときは腹を抱えて笑ったものだ。
しかも男運が悪いだけならまだいいのだが、そのせいでほぼ男性不信になっているのがむしろ問題だった。
ひたすら変な男から絡まれるせいか、まともと思われる男からのアプローチでも大体いい反応を示さない。
(もちろんここいらの情報は本人から全部聞いたわけではない。とある筋からのリークだ)
野球部のエースだの、同じ本の話題で盛り上がった文学少年だの、聞いてみれば今までの怪しげな連中とはまったく違う、まともな連中でもあまり前向きな姿勢を示さないのだそうだ。
おかげでレズ説はおろか、ブラコン説まで浮上したが、結局どういう相手が嬉依の好みなのかという結論は保留になったままだった。
(もちろん直接聞いたわけではなく、とある筋からリークだ)
そしてその男運が悪いとも男性不信ともとれないような状況が続いてたのだが、聞いて見るところによると今なお継続中といったところのようだ。
「お前さ、いい加減選り好みしないで付き合ってみたらどうなのよ?」
「そう努力しようと思った途端に、選り好みで済まない人からのアプローチが多くてさ……。聞きたいならちゃんとひとつひとつ説明しようか?」
「いや、遠慮しとく」
妹の恋愛事情なんて微妙な話はできれば知らないまま、結果だけ伝えてくれるのが一番いい。
途中経過の色っぽい話なんてなぜかこっちがむず痒くなってしまう。
「まあお前がイヤならきっちり断ればいいだろ。変にこじれそうなら周りに相談してみてもいいし。それにお前の学校、進学校だろ?そんな変なのがいるイメージはないけどな」
「あー、喜一っちゃんは進学校の入学試験受けたことないからわかんないよね」
と、何がカチンときたのかわからないが、そんなイヤミを言ってくる。
見た目も整ってる上に兄貴よりいい学校いってるあたり、ますますイヤミだった。
別に学校は頭の性能と努力の総和だから今更羨む気もないが。
それにこいつはこいつで、男運以外にも悩みがないこともないのだし。
そう、こいつは実は魔術がまったく使えなかったりする。
理由はわからない。
一度検査らしきものに行ったことはあるが、そもそも魔力がなんなのかすらロクにわかっていないので、健康かどうかを調べただけで終わってしまったらしい。
本人はあまり気にしないようにしているが、昔はそれで嫌な思いをしてこともあった。
ひょっとしたら進学校に行ったのはそのコンプレックスの裏返しもあるのかもしれない。
「進学校の入試でも、異性を口説くスキルは要求されないから。それと」
「ん?」
「おかーさんから話があるって。なぜかこっちに『念話』があったんだけど。そろそろ腹を決める時間じゃない?」
そう考えれば5分くらいは立ち話をしていた気がする。
キッチンからでも違和感くらいは感じてもおかしくない時間だ。
そう思った瞬間、右向いの扉から地獄の底から響いてくるような声が聞こえてきた。
『喜一、いつまで立ち話してるの?話があるから一度着替えてから居間にいらっしゃい』
びくり、と喜一の肩が震える。
なるほど、ちゃんと着替えた上で説教が始まってしまったら、着替えたいからという理由で離脱はできない。
前に使った手をちゃんとフィードバックして挑んでくる。なかなかの策士のようだ。
きっと話が終わるまで夕食にするつもりはないのだろう。
十重二十重の包囲陣だ。
「ま、何があったのかは知らないけど、あとでなにがあったかくらいは教えてね。巻き込まれ損はイヤだし」
嬉依は頭の後ろで手を組みながら、他人事のように言った。
はあ、と溜息をつく。
まだまだ一日が終わったと思うのは早いみたいだ。
背中の傷は戦士の恥。とりあえず言うとおりに着替えてから、相手の満足がいくまで前のめりで説教を受けるとしよう。
きっと、明日は明日の風が吹くのだろうし。