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伯爵さまの歯科衛生士

作者: ぴんた

一.新患、いつでも受付中

「ねえ、ザビエラ。これを持ち上げて、ちょっとずらしてくれない?・・・聞こえないの、ザビエラ? こっちに来て手を貸してよ。ほんの少しずらすだけでいいんだ・・・ねえ、聞こえないの? ちょっと力を貸してくれって頼んでるだけじゃないか。ひどいよ、無視したりして。僕は君の雇用主として命令する! 今すぐ、ここに来て、このキャビネットを右に一インチずらすんだ、ザビエル・ロドリゲス! もう一度だけ言う、ザビエル・ロ・・・」

「あたしの名前はザビエルじゃなくてザビエラよ、先生! 男みたいな名前で呼ばないでって、何べん言ったら分かるの?!」

 読みかけのヴォーグの最新号を受付カウンターに伏せて立ちあがると、あたしは診察室を覗きこんで叫んだ。

「だって、法律上の名前で呼ばないと返事しないじゃないか!・・・やっとこっちを向いてくれたね、ザビエラ?」

 と、壁際にしゃがみこんで、あたしをにらみつけていた先生が、チュンと尖らせていた唇をゆるめて、にっこりほほ笑んだ。もう、ずるいんだから、先生ってば!・・・ウンコ座りしながら、そんなにかわいく笑いかけられたら、どんな頼みだって聞かないわけにいかないじゃないの。たとえ、ビッグ・ベンをちょっと左に一フィートずらしてくれって言われたとしても。

 あたしは先生に言われた通り、診察椅子の脇に置かれた殺菌灯付きキャビネットを持ち上げると、右に少しずらした。

「ありがとう、ザビエラ!」

「どういたしまして。でも、乙女に力仕事を頼むなんて、先生、あなたって貴族だけど英国紳士とは言えないわね」

 と、先生の唇が再び、雀のくちばしみたいに小さく尖った。

「しかたないじゃないか、君のほうが力があるんだから。僕がそれを気にしてるって知ってて、そんなことを言うんだから、君のほうが紳士じゃないよ、ザビエル!」

「だから、あたしはザビエルじゃなくてザビエラ! 乙女なんだもの、紳士じゃなくて結構よ!」

 あたしがハイヒールのかかとをカチンと床に打ちつけて凄んで見せると、先生はにやりと笑って壁のほうを向いた。そして、キャビネットをどかすことで作業しやすくなった壁の小さな穴に、虫歯に詰めるレジンを充填すると、ライトをあてて硬化させ、丁寧に研磨機をかけた。

「あー、すっきりしたぁ! 見てよ、ザビエラ。この壁のどこに穴があったか、もう全然、分かんないだろ?」

「はいはい、坊ちゃま・・・」

 そんな穴、もともと、どこにあったのか分からないけどね。

「他にもないかなぁ!」

 先生はしゃがみこんだまま壁に張りつくと、うきうき口笛なんか吹きながら、他にも充填すべき穴がないか探し始めた。そうそう見つかるわけないでしょ。そうやって毎日、くまなく探してるんだから・・・

 あたしは受付カウンターに戻ってヴォーグを取り上げると、ガラスのドア越しに外を眺めた。今日もいっこうに来る気配のない患者さんの姿を探して。ま、いいんだけどね。誰も来なくても・・・。

 だって、たとえ、今月ひとりも患者さんが来なかったとしても、あたしのお給料は先生のパパのジャーンヴィル伯爵が莫大な不労所得の中から支払ってくださるから。坊ちゃまは「君の雇用主として命令する」なんて粋がってるけど、あたしの真のご主人様は、パパである伯爵様。そもそも、この歯科医院自体、パパが貴族の道楽の一つとして、息子のために建ててやった別荘のようなものだから、利益なんか上がらなくても大丈夫なわけ。開業して一年半、先生は一応、パパの援助に頼らずに、自分の腕一本で自立することを目指してはいるけど、あたしにとっては、どっちでも同じこと。むしろ、このまま閑古鳥が鳴き続けてくれたほうが、あたしと先生の水入らずでゆっくりできる・・・

「わーい、オカマだ、オカマだー! オカマが外をのぞいてるぅー!」

 と、ドアの外でガキが囃し立てていた。

「失敬なガキね! ちょっとこっちに来なさいよ、その生意気な口を危険な水銀化合物で埋め立ててやるから!」

 ドアから顔を出して怒鳴りつけてやると、奴らはキャーッと歓声を上げて散った。最近のガキどもって、まったくしつけがなってないんだから! 

 あたしはぷりぷりと診察室に戻ったが、先生は這いつくばって、床とキャビネットのすき間にミラーをつっこみ、穴がないか探し続けていた。あたしとしては、先生と二人きりでゆっくりできるのは嬉しいけれど、やっぱりもうちょっと患者さんが来てくれたほうが、先生の精神衛生にはいいかもしれない・・・。

「あな、あな、あな、あな、あなたのあだなは、あなだらけー」

 先生が変な歌を歌いながら、鼻を床にくっつけているすきに、あたしはピンセットで壁を穿って、こっそりC2くらいの穴を開けておいた。これで、先生も、もうしばらくは楽しめるはず。まったく世話が焼けるんだから。でも、そういうところも先生の魅力の一つなのよね。

 あたしは、白衣に包まれた先生の頼りない背中を見つめながら、うっとりとため息をもらした。

 大金持ちの大貴族の一人息子でありながら歯科医で、若くて、かわいくて、しかも、ちょっとおつむが足りないという究極のお坊ちゃま。それが麗しのエドワード先生。あたしの愛しのダーリン。先生はそのことを認めようとしないけど・・・

 でも、あたしは満ち足りた気持ちでスツールに腰掛けると、やりかけの繕いものを仕上げてしまうことにした。外は木枯らしが吹いているけど、診察室はいつでも暖かい。だって、あたしの膝の上には愛する人の予備の白衣が広げられているから。あたしは、うがい用の水を紙コップですすって、ほっと一息ついてから、お裁縫セットの蓋を開けた。

「ザビエラ! 僕の白衣を改造するのはやめてくれって、何度言ったら分かるんだ!」

 と、這いつくばっていたはずの先生が、いつの間にかあたしの前に立ちはだかっていた。

「改造?! ほころんだところを、ちょっとかがってるだけじゃないの?」

「嘘つけ! どうせ、また僕の白衣の身頃を詰める気なんだろうっ?」

 先生はほっぺたをピンクに染めて、わめきたてた。うふ。怒った顔もかわいいんだから。

「きゃあっ! ちょっと先生、何するのよう!」

 が、先生に突然、白衣を奪い取られて、あたしは悲鳴を上げた。危うく、針で指をつつくところだったじゃないの!

「これ以上、僕の白衣をぴちぴちにするのはやめてくれっ」

「白衣だってボディーコンシャスなほうがおしゃれじゃないの?!」

「乳首が透けるくらいコンシャスじゃなくってもいいだろうっ。あまりにもキツキツで、白衣の下にシャツを着ることもできないんだからね!」

「素肌に白衣、セクシーでいいじゃない。ここは暖房もちゃんと効いてるし。なぜ、あたしの前で、そんなことを恥ずかしがるの、ダーリン?」

「君はいつもそうやって、僕をおもちゃにして楽しんでるんだから! こないだなんか、僕の私服のズボンまで改造したろっ? とぼけたって無駄だよ。家に帰る途中、落とした財布を拾おうとかがみこんだら、みりっとお尻のところが裂けちゃったんだからね! しかも道のまんまん中で!」

「キャーッ、あたしもその場にいたかったぁ!」

 あたしが身をくねらせると、先生は肩をいからせ、まくしたてた。

「これは絶対に君のせいだよ! だって、体重なんか一ポンドだって増えてないのに、ズボンがきつくなるはずないだろ? プロテイン飲んで、鶏肉食べて、ダンベル持ち上げて、ジムにも通ってるのに、体重も増えなきゃ、筋肉もちっとも増えないんだから!」

「やだ、先生! 筋肉つけて、肉体改造なんか試みてるわけ?! だめだめ、先生はなまっちろくて、なよなよしたお坊ちゃま風なところが魅力なんだから。人間、ありのままが一番よ!」

 あたしがなで肩を撫でて慰めてあげると、先生は幼稚園児みたいにぶるぶる下唇を震わせながら、あたしの手を払いのけた。

「人が一番、気にしてることを指摘してくれて、どうもありがとう! ありのままが一番だって?! なら、君こそ、スカートとハイヒールを脱ぎ捨てて、ありのままの姿に戻ったらどうだいっ? そしたら就業時間中に一日三回、こっそりトイレでひげとすね毛を剃る手間が省けるだろう。それに僕も、筋肉ムキムキで怪力の歯科衛生士と毎日、自分をひき較べて自信を喪失しなくて済む。だって曲がりなりにも女の格好をした人間に毎日、六フィート三インチ+ハイヒールの高みから見下ろされて、いつも力仕事を代わってもらっていたら、男としてのプライドがズタズタになっちゃうからね。それよりは、ザビエル・ロドリゲスなんてマッチョな名前で、頬ひげじょりじょりの大男に肩車でもされて『どうだい、坊や、木の枝に引っかかった風船は取れたかい?』って言われるほうが、ずっと傷つかなくて済むよ!」

「ひどいわ、先生っ?! あたしの名前はザビエラ・ロドリゲスよ! そりゃあ、たしかにロドリゲスって名字は、ちょっとマッチョな響きがしないこともないけど、ポルトガル系移民の娘なんだからしかたないでしょ。それに、あたしの顔のうぶ毛が人よりちょっと濃いように見えるのも、ラテン系で全身の体毛が黒いせいよ。民族的なことをいちいち、あげつらうのはやめてちょうだい!」

「あげつらいだしたのは君のほうじゃないか、ザビエル? 僕の努力を肉体改造と言って馬鹿にするなら、君も僕の白衣を改造するのは金輪際、やめてくれっ」

「そんなにむきにならな・・・」

 と、先生からボディコン白衣を取り戻そうと手を伸ばすと、

「せんせーい! いるー?」

 待合室から甲高い声が響いて、近所のくそガキがおもちゃの飛行機片手にずかずか診察室に入りこんできた。

「ねー、先生、プラモデルがまた壊れちゃったから、こないだみたいにボンドでくつけて、つなぎ目をきれいに研磨してよー」

「プラモデルの修理?! いったい、ここをどこだと思ってるんだよ。僕はこれでも歯医者なんだぞ!」

 と気分を害したふりをしつつ、先生は嬉しそうにプラモデルを手に取った。もー、こんなくそガキ相手にしたところで一ペニーにもなりゃしないのに、どーでもいいことには、すぐに夢中になっちゃうんだから!

「ちょっと、坊や、うちは自費診療クリニックだから、おもちゃの治療も全額自己負担になるけど、お財布のほうはだいじょーぶかしらー?」

 あたしがとっておきの美人の歯科衛生士さん声を出して、嘘スマイルを決めると、ガキは土埃にまみれた薄汚い手を伸ばしてつかみかかってきた。やだ、ピンクのミニスカ白衣が汚れちゃうじゃないの!

「わーい、ザビエルだー! 先生が飛行機を直してくれてる間、外でジャイアントスウィングしてよー!ねー、ねー!」

 ガキはあたしの背中でフリークライミングを始めた。

「お、降りなさいってば! あたしはザビエルじゃなくて、ザビエラだって何回言ったら分かるのよ、このくそガキ。それに、か弱いレディーのあたしが、くそガキを持ち上げてグルングルン振り回すなんて、そんな荒業できるわけないでしょっ?」

「やだー、やだー、ジャイアントスウィングしてくれなきゃ、帰らないー! それに、ザビエルがほんとは男だって、町中の人に言いふらしてやるからー!」

 もう、みんな知ってる、と先生が口をはさんだが、あたしはあたしの自慢の黒髪をつかんで頂上に達しようとしているくそガキをひっつかんで肩に担ぎあげると、外に向かった。

「嫁入り前のレディがじつは男だなんて、そんな馬鹿な話、誰が信じるってのよ。あほらしい。でも、お情けで、ひとりにつき一セットだけやってあげるから、そしたら、すぐに帰りなさいよ。一セットは三回転だけだからね。わかった?」

「わーい、ザビエル、ありがとう!」

「だから、ザビエラ!」

「わー、ザビエルだ、ザビエルだ!」

 と、あたしが外に出るのを待ち構えていたように、くそガキどもがどこからともなく現れて、ジャイアントスウィングをしてもらうために列を作り始めた。さっき、あたしをオカマ呼ばわりしたくそガキまで! 乙女にこんなことをさせるなんて、なんて街なの、ここは! あ、しかも、列の最後尾には、ちゃっかり先生まで並んでいる・・・まったくもう、こんなんだから、うちのクリニックには、まともな患者が来ないわけよ。


二.新患さん、いらっしゃい

「ねえ、ザビエラ・・・こっちに来てよ。ちょっとだけでいいから・・・ねえ、ザビエラ、聞こえてるんだろ? こっちに来てくれよ。ちょっと頼みがあるんだ。大したことじゃないよ。ねえザビエラ!・・・いいよ、聞こえないふりをするんなら、僕は君の雇用者として、君の本当の名前を呼んで命令する! 今すぐここに来て、君の顎を貸してくれ、ザビエル・ロドリ・・・」

「だから、あたしはザビエルじゃなくて、ザビエラ・ロドリゲス!」

「やっと、こっち向いてくれたね、ザビエラ!」

 ・・・いつものパターンだ。でも、この、脳たりんのみが持つ澄んだ瞳でほほ笑みかけられたら・・・どんな頼みだって聞かないわけにいかないじゃないの。顎だろうが、クレジットカードだろうが、なんだって貸すわよ。でも。

「今度こそ、これで終わりにしてもらいますからね。あたしの顎を貸すのは」

「分かったよ、ザビエラ! 早く、早く!」

 とか言いつつ、半月後にはまた、お願いだから貸してくれって頼まれるのは目に見えてるんだけど。でも、あたしは上機嫌の先生に促されて診察椅子に座った。まったく、何回、これをやらせれば気が済むのやら。馬鹿と子供は、一度、気にいった遊びを何度も繰り返したがるものだけど、でも、これ、ヒヤッと冷たくていやなのよねえ。しかも、たとえ顎の先とは言え、女の子に体の一部を貸せだなんて、ほんと、デリカシーがないわよ、うちの坊ちゃまは。

「はーい、じゃ、ちょっとヒヤッとするけど、タイマーが鳴るまでじっとしててねー」

 先生は甘ったるい声を出しながら、歯科用の型どり材の入ったカップをあたしの顎にすぽりとはめた。ううっ。本当にヒヤッとするんだから! しかも乙女がこんなもの顎にあてがわれちゃって、いやだわー、あたし。お肌にいいとも思えないし。あ、でも、カップが落ちないように先生が手で押さえてるから、ボディコン白衣に包まれた薄い胸板があたしの目の前に・・・顎貸しの役得だわね。今のうちに思い切り、先生の体臭を嗅いじゃおうっと。うーん、高貴な血筋をうかがわせるファンタオレンジのべたべたした甘い香り・・・さっき、マンガ読みながら飲んで、吹きこぼしてたもんね・・・まったく。

「よし、完成っ!」

 と、あたしがいろいろ楽しんでる間にタイマーが鳴って、先生もあたしの顎からカップを外してお楽しみ中だった。

「ばっちり型が取れたよ! それにしても君のケツ顎はいつ見ても見事だなあ。早速、石膏を流しこんで模型を完成させなくては!」

 勝手にして・・・。先生は早速、石膏を水で溶き始めたが、

「あ、やっぱり、石膏じゃなくて金で鋳造しちゃおっか?!」

 と、わくわく声を弾ませた。

「合金の無駄遣いはやめてください、先生っ! そんなの石膏で十分でしょ。つうか、いったい何個、あたしのケツ顎模型を作れば気が済むのよ?」

 先生は怒られながらも機嫌よく、石膏を型に流しこんだけど・・・ああ、これが患者さんの歯の型だったらね。でも、今日もまだ一人も来ない。

「飽きないんだよねー、これがなぜか。それに、こないだ作ったのは、近所の子供たちに持ってかれちゃったしさ。みんな、大好きなんだよね、あれ。いいなー、ザビエラのケツ顎。それに胸毛と上腕二頭筋も羨ましい。あー、神様、なんで、ザビエラばっかり?」

「あ、あたしに胸毛なんかあるわけないじゃないの、先生っ?! それに上腕二頭筋だって、そんなにたいしたこと・・・」

「深いVネックのセーターとか着てると、胸毛の剃り跡が青々してるのが丸見えだよ?」

「し・・・失礼しちゃうわね! 乙女の胸に胸毛なんか生えてるわけないでしょ? いつも言ってるけど、あたしは人よりちょっと、うぶ毛が濃い体質なのよ。しかも黒いから、光線の加減で青光りして見えることもあるかもしれないけど・・・」

「あー、神様、お願いですから、僕にもザビエラのケツ顎と筋肉と胸毛ともみあげと座高をください・・・」

「ちょっと、あたしにもみあげなんかないわよ! それに背丈じゃなくて、座高を伸ばしてどうするのよ。先生、頭、大丈夫? つうか、あたし、背はモデルサイズだけど、座高は人並みよ!」

 あたしは憤慨して叫んだけれど、先生が訝しげにあたしの上半身と下半身を見比べ始めたので、ちょっといい気分になった。もっと貪欲に、舐め回すように、診察椅子の上のあたしをみつめて!

 が、あたしが腕を組んで大胸筋の谷間を作り、とっておきのポーズを決めた瞬間、表のドアから誰かが待合室に入ってくる気配がした。もうっ。なんだって、こんなときに限って患者さんが?!

 あたしは診察椅子から降りると、しぶしぶ受付カウンターに向かった。患者と言っても、どうせ、おもちゃを抱えたくそガキか、壊れたティーポットの取っ手を歯科用ボンドでくつけてもらいにきたおばあちゃんに違いない。が、

「あの・・・初めてなんですけど・・・」

 カウンターの前にもじもじ立っていたのは、十八、九の女の子だった。ここで、こんなまともそうな患者さんを見るのは、こっちも初めて。

「歯の治療ですか?」

 思わずこう尋ねると、

「ええ・・・」

 向こうも、それ以外に何が?って尋ね返したそうな顔をして、あたしを見上げた。ただでさえモデルサイズなあたしだけど、カウンターを挟んで向こう側に立っているミニミニサイズの新患さんと比べると、我ながらサイズも見た目も、まさにスーパーモデル級だった。

「歯の矯正をしたいんですけど・・・」

 矯正? 

「うちの先生の専門じゃないけど、ちょっと診察させてもらえれば、矯正専門医を紹介してあげることはできるわよ」

 新患用の受付票をボードに挟んでボールペンと一緒に差し出すと、彼女は一応、それを受け取ったが、不安そうに視線を泳がせていた。ハシバミ色のきれいな瞳。明るい茶色の巻き毛がふんわり顔の周りを取り囲んでいて、こんなにおどおどしていなければ、愛嬌があってかわいらしい顔つきをしている。たっぷりとした手編み風のブルーのセーターに、細身のブラックジーンズという素っ気ないいでたちが親しみやすい雰囲気を醸し出していて、男にも女にも、オカマにも好感を持たれそうなタイプだった。

「そこのソファーに座って書いたら?」

 彼女はいったん言うことを聞いたものの、すぐに立ちあがると、空白の受付票を差し出しながらカウンター越しに訴えた。

「よそに紹介してもらうんじゃなくて、ここで矯正してもらうことはできませんか? 私、もう十九歳だから、保険を使っても八割負担だし・・・じつを言うと、あんまりお金がないんです。それに時間も。でも、このクリニックなら、どんなことでも格安でやってくれるって噂を聞きました。だから、ここで治療をして欲しいんです。お願いします!」

 まあ、たしかに、うちの先生はどんなことでもやる。壊れたおもちゃも直すし、欠け茶碗の補修もしてあげる。壁の穴を埋めるのも得意だし、ケツ顎の模型を作るのもお手の物。しかも格安どころか、一銭にもなりゃしないことばかりしている。近所の人が、ここをよろず何でも修繕屋だと勘違いしているのも無理はない。

 でも、お金も時間もないのに、矯正してくれって言われてもね。問題がどちらか一つだけなら抜け道はいろいろあるけど、両方となると難しい。それに、矯正も審美歯科も、うちの先生の専門じゃないし・・・

 だけど、カウンターの向こうからあたしを見上げるハシバミ色の瞳は・・・今にも泣き出しそうなくらい、真剣な光を帯びていて・・・

「分かったわ。引き受けるって約束はできないけど、できるだけのことはするように、あたしからも先生に頼んでみるわ」

 つったって、話を通すだけだけどね。でも、彼女の瞳は子供みたいにぱっと輝いた。やれやれ・・・めんどうくさいことにならないといいけど。


三.無茶な注文

「一ヵ月以内に、この叢生歯列をアメリカ人みたいに完璧な歯並びに直したい?!」

 叢生とは、いわゆる乱杭歯のこと。先生が素っ頓狂な声をあげると、サンディー・・・久しぶりにまともな・・・多分、比較的、まともな新患さん・・・は診察椅子の上で申し訳そうに首をすくめながら頷いた。

「それは、ちょっと無理だな。美容外科にでも行けば、やっつけ仕事で何とかしてくれるとは思うけど、歯科医としてはあまりお勧めしたくな・・・」

「でも、私、美容外科なんかに行くお金、ないんです! 普通の歯医者さんに払うお金も充分あるとは言えないけど・・・」

 サンディーは先生の言葉を遮って勢いよく叫んだものの、その声は尻つぼみに小さくなり、目にはじわりと涙が浮かびあがった。

「ななななな、泣かないでよ! お金のことなら、心配しなくていいから!」

 あー、言っちゃったー! そんなこと約束していいのかなー、坊ちゃん? ま、「アマチュア精神」がうちのクリニックのモットーではあるけどね。貴族たるもの、金のために働くなどという下品なことをしてはいけないというのが先生のパパのお考えで、だから、うちの待合室の壁には「アマチュア精神」とカリグラフィー書体で書かれた額がでーんと掲げてある。アマチュア精神で診療される患者の身にもなってほしいところだけど、それがパパのお考えだし、このクリニックを建ててくれたのもパパだからしかたない。でも、先生の考えは違うはず。貴族とはいえ、二十一世紀は働かざる者食うべからずの精神で、パパから自立して独立採算を目指してるはずなのに、いまだに黒字になったことがなくて・・・今も、乱杭歯だけど、きれいな瞳と笑顔がかわいい小娘の涙に情をほだされて、無償治療の申し出をしている・・・自立への道はかなり通そうね。でも。

「でも、ひと月で何とかするのは、やっぱりちょっと無理だなあ。二年くれない? そしたら、無駄に歯を抜いたり削ったりせずに、整えられると思うんだよね」

 坊ちゃまにも、一応、歯医者としてのプロ精神はあるらしい。いや、アマチュアとしての誇り?

「でも、ひと月後に、とっても大事なオーディションがあるんです!」

 サンディーの目に再び涙がにじみ始めると、先生もおしっこをがまんしている幼稚園児みたいにそわそわし始めた。

「だ、だから、泣かないで! 前歯をめちゃめちゃに削ったり、抜いてもいいんだったら、突貫工事で何とか見た目を整えることはできなくもないから・・・」

「本当にっ?!」

 サンディーが神でも見るような目つきで身を乗り出すと、先生はごくっと唾を飲みこんでから、用心深く答えた。

「できることはできるよ。でも、あまりお勧めはしないけどね。普通に治療すれば抜かずに済む歯を、抜かなきゃならなくなるだろうし。だから・・・」

「でも、時間がないんです! 今度のオーディションには絶対、受かりたいんです。最後のチャンスなんです。だから、完璧な前歯で臨みたいんです!」

「最後のチャンス・・・? あんた、まだ十九でしょ? ミュージカルのオーディションなんか、これからいくらだって受けられるじゃないのさ」

 あたしが思わず口を挟むと、先生もここぞとばかりに力強くうなずいた。が、サンディーは目に涙をいっぱい溜めながらも、強情に言い張った。

「でも、あたしにとってはこれが最後だって決めたんです。だって、学校を出てから、ずっとオーディションを受けまくってるのに、全然合格しなくて・・・いきなり主役を狙ってるわけじゃないんですよ。脇役で受けてるのに、それでも受からないんです。だから、今度もだめだったら、才能がないって諦めて、他の道を探そうって決めたんです。ずっと夢を追い続けたいけど、うちは裕福じゃないから、早くちゃんとした仕事について家計を助けたいし。それに、今なら新しいことを始めて、一から勉強し直す時間もあるでしょう? だから、次が私のラストチャンスって決めたんです。最後だから、万全の態勢で臨みたいんです!」

「でも、テレビに出たいわけじゃないんでしょ? ミュージカルなら、前歯がちょっと捻転してても、誰も気づかないでしょうに」

 大きな舞台の上で、しかも脇役の歯並びなんかに気づく観客はいないんじゃないの? 慌てなくっても、端役からスターダムにのし上がるまでの間、じっくり普通の矯正をすればいいじゃないのさ。今は、裏側からだって治療できるし。先生もまた、うんうん頷いたけど、サンディーは納得していないみたいだった。

「この間までは、私もそう思ってました。今まで、歯並びのせいでいじめられたりしたこともないし。でも、三か月前のオーディションで、審査員に言われたんです。ひどい乱杭歯だな、どうして親は治してくれなかったのか、って。私は、親じゃなくて、大叔父夫婦に育ててもらったって答えました。そしたら、ああ、やっぱり、だから歯の矯正もしてもらえなかったんだ、ってそんな表情が審査員の顔に浮かんだんです・・・大叔父は、両親を事故で亡くした私を引きとって、できるだけのことをしてくれました! でも、上流階級ってわけでもないし、歯並びなんて大したことじゃないと思ってたから、矯正なんて夢にも思わなかっただけで・・・けして、あたしのことをほったらかしにしていたわけじゃないんです。だから・・・歯のせいで・・・歯の治療をしてもらえなかったせいで、夢を叶えられなかったなんて、誰にもそんなこと言わせたくないんです! あたしの歯がひん曲っているのは大叔父のせいじゃないし、それくらいあたしが自分で何とかして、審査員には歌と踊りだけであたしを判断してほしいんです。実力で勝負して、それで負ければ諦めもつくし!」

 サンディーの目は涙と興奮でキラキラ輝いていた。

 歯科業界には長らく・・・いえ、あくまでも嫁入り前の腰かけ仕事として、ほんの数年、身を置かせていただいてるけど、芸能関係者の治療に関わったことは一度もない。テレビや映画に出たい人がこの歯並びじゃまずいだろうけど、エキストラレベルの舞台俳優でもやっぱりそうなのかしら? よく冗談のネタにされるように、この国の人たちがみんな歯並びに無神経なわけではないけれど、アメリカ人ほど神経質ではないのはたしかだろう。大叔父さんがサンディーの歯を放置していたのも、悪気があってのことじゃないと、あたしも思う。歌や踊りが本当にうまけりゃ、歯並びの悪さだけで門前払いを食らったりはしないだろうってのは素人考えかしら。あたし、これでも、歯に関しては、素人じゃないんだけどもね。

「・・・分かったよ、サンディー。僕でよかったら、力になるよ」

 ちょちょちょちょ、ちょっと、先生っ?! 自分こそ、目に涙なんか溜めて、サンディーの演説に感動したのはいいけど、そんなに簡単に安請け合いしていいの? そりゃ、さっき先生の言った通り、突貫工事は可能よ。でも、歯の健康のためにはお勧めできないし、それに何よりさ。

「先生、あんた、矯正も審美も専門外でしょっ?」

 つうか、あんたの専門は壁の穴埋めじゃないの! 歯科医を目指すことになったのも、「お宅のお坊ちゃまは授業中に机の穴を消しゴムのカスで埋めてばかりいます」とパブリック・スクールの先生に苦情を言われたパパが、「うちのエドワードには穴埋めの才能がある!」と、超ポジティブシンキングで勘違いしたのが、そもそものきっかけじゃないのさ。机の穴埋めが得意なら、虫歯の穴埋めも得意に違いない、ってね。前向きにもほどがあるわよ。そんなエディーちゃんに、矯正なんかできるわけ?

「専門外の分野に関しても、学会誌やなんかから最新情報を仕入れるようにしてるよ」

「でも、実戦経験はないじゃないのっ?」

「やだなあ、ザビエラ。忘れたの? 去年、ストッドルマイアーさんちのくるみ割り人形の歯を矯正してあげたじゃないか?」

「あれは、ストッドルマイアーさんちのくそガキが、くるみじゃなくて鉛のペーパーウェイトを人形に噛み砕かせようとして、ぼろぼろになった歯を直してやっただけじゃないの! しかも、ひん曲った金属部品を、ペンチで力任せに伸ばしたのは先生じゃなくて、乙女のあたし!!」

「やだなあ、そのことは言わない約束じゃないか。僕、自分が非力なこと、気にしてるんだから」

「いやなのは、非力なことじゃなくて、人形の歯の矯正経験しかないことでしょっ。しかも、一番大変な作業をやっつけたのは、あ・た・し!」

「でも、診断を下したのは僕・・・」

「ペンチを使うのに、診断も処方箋もいるもんかーっ!」

「あ、あの・・・」

 と、あたしが、ついレディーのたしなみを忘れてわめきまくっていると、サンディーの遠慮がちな声に遮られた。

「あの、それで、結局、あたしの前歯は・・・」

「大丈夫、僕が力になるよ。二人で・・・いや、君と僕とザビエラの三人で力を合わせて、君の夢を叶えようよ!」

「ちょ、ちょっと、あたしも入ってるの、先生?!」

「もちろんだよ、ザビエラ! 僕たちチームじゃないか」

「ありがとうございます、先生! それにザビエラさん!」

「ちょ、ちょっと、あんたたち・・・」

「がんばろうね、サンディー!」

「はい! でも、お金っていくらぐらいかかるんでしょうか? 私、この間、ロンドンに泊まりがけでオーディションを受けに行くために、バイトを辞めたばかりだから・・・ローンで払っても大丈夫ですか?」

「いいよ、うちで持つから」

 ちょっと先生!

「で、でも、それじゃあんまり申し訳なくて・・・」

 そうよ、その通りよ! 「アマチュア精神」はパパのモットーで、「目指せ、自立」があんたのモットーでしょうが、先生!

「いいよ、気にしなくて。僕も、矯正歯科の経験を積ませてもらうことができるしさ」

「でも、それじゃあ、なんだか・・・」

 そうよ、まずいわよ、先生。おもちゃの修理はともかく、矯正までただで引き受けてたら、永遠に自立なんかできやしないわよ!

「じゃあ、その分、ここで働いてもらおうかな? ザビエラのアシスタントってことで。それでちゃらってことにすればいいんじゃない?」

「いいんですか?! ありがとうございます!」

 よくないわよ! いくらただ働きとはいえ、アシスタントのアシスタントなんて雇う必要、このクリニックのどこにあるのよ? 患者なんて、めったに来ないんだからさ! それより金よ、金! 一ペニーでもいいから、ちゃんと治療代をもらいなさいよ。それがプロ精神よ、お坊ちゃま!

「じゃ、明日から、早速、来てもらおうかなっ。楽しみだね、サンディー?」

「はい!」

 しかも、先生、なんだかやけに嬉しそうじゃないの! あ、もしかして、まさか、この乱杭歯のみなしごがタイプとか?! 冗談でしょ? やせっぽちで、ぜい肉もなけりゃ、筋肉も濃いめのうぶ毛もない、こんな貧弱な娘のどこがいいのよっ? 背も座高も低いし、顎も割れてないじゃないの! 重いキャビネットも持ち上げられないし、間違っても、あんたをジャイアントスウィングでぐるぐる回して、キャーキャー喜ばしてくれたりはしないわよ?! そんな女のどこがいいのよっ。ちょっと、ちょっと! 女はやっぱり、でかくて怪力なのが一番よ!

 が、二人はすっかり自分たちだけで盛り上がって、新しい白衣を注文する相談まで始めていた。何よ、三人で頑張るんじゃなかったのよ? あんたたちだけで、勝手に話を進めちゃってさ! 

 なんだか、いやな感じだわ。すごーく、いやな感じだわ・・・


四.看板娘

「うわー、サンディー、とっても似合ってるよ、その白衣!」

「ありがとう、先生。でも、ちょっと恥ずかしいわ。私、普段、ジーパンばっかり履いてるから」

 小娘は、ブカブカの白衣の下からのぞく鶏がらみたいな足を、もじもじとくねらせた。

「恥ずかしいのは、ピチピチの白衣を着させられてる僕のほうだよ! それと、膝上八インチの改造ミニスカ白衣を着てる、あのおじさん」

「あたしは、おじさんじゃなくて、おばっ・・・お姉さんよ!」

 失礼ね! でも、奴らはあたしを無視して話し続けた。

「でも、君はすごく似合ってるよ、サンディー。涙が出そうだな。ここで普通に白衣を着こなしてる人を見られるなんて。・・・大丈夫。君の白衣は、絶対、ザビエラに改造させないから!」

 頼まれたって、しませんよーだ! 貧弱小娘の白衣なんか、ブカブカだろうがキツキツだろうが、知るもんですか。

「君の白衣も、君のことも、僕が守るから安心して!」

「ありがとうございます、先生!」

 ちょちょちょちょ、ちょっと、白衣だけじゃなく、君のことも守るですって?! 聞き捨てならないわ! あんたも遠慮しなさいよ、小娘め。あんたを守ってくださるという、ひ弱な坊ちゃまの重い荷物を持ち運んだり、いざというとき暴漢からお守りしたりするのは誰の役目だと思ってるのよ? 過保護なパパにガタイのよさを見こまれて、身辺警護もできる歯科衛生士として雇われたのは、どこの誰だと思ってるのよ?! い、いえ・・・先生があんたなんかの身辺警護にうつつをぬかしていたら、超スーパーモデル級のスタイルと美貌を見こまれて雇われたか弱いあたしを、誰が守ってくれるというのよ? そうよ、守ってほしいのは、ひげのそり過ぎで最近、すっかり敏感肌になってしまったあたしのお肌よ! いえ・・・人よりちょっとうぶ毛が濃くて、ガラスのように繊細なあたしのお肌よ・・・

「歯の治療を始めるのはもう少しだけ、待ってね。前にも言ったけど、僕の専門は一般歯科診療だから、矯正や審美歯科に関して、もうちょっと調べてから取りかかりたいんだよ。だって、君に最高の笑顔をプレゼントしたいから!」

「はい、先生!」

 な、なによ?! 先生ってば、デレデレしちゃって! ただで治療してやる上に、白衣とサンダルまで無料貸し出し中なんだから、プレゼントはもう十分じゃないのさっ。

 あんたの前歯なんか、あたしが石膏をたっぷりなすりつけて、土壁みたいにまったいらにしてあげるから、早く診察椅子に乗りなさいよっ! あたしは小娘をとっ捕まえるため前に進み出たが、 

「僕の気持ちを分かってくれてうれしいよ、サンディー。なるべく早く治療を始めるからね・・・」

 おっ・・・?! 先生の小鼻がひくひくしてる。心にもないことを言ってるときのサインだ。僕ちゃん、嘘をつくのが苦手だからね。ポーカーフェイスを気取ってるつもりでも、心の動揺がすぐさま表情に出てしまう。

「なるべく、無駄な抜歯や抜髄は避けたいし・・・」

 先生は小娘に背を向けると、小さくつけ足した。ははーん、これが坊ちゃまの本音ね。突貫工事も可能だって安請け合いした手前、約束を守らないわけにはいかないけど、やっぱり、あの子の前歯をアマゾンの熱帯雨林みたいにバサバサ切り倒すのには抵抗があるらしい。今さらなによ、このエセ・エコロジストめ! あんたの専門知識の範囲内で処理するなら、上の前歯も下の前歯もずらりと抜いて、ブリッジを入れるしかないでしょうが? にわかじこみの審美歯科技術を使うにしても、捻転のひどい右上2番と左の側切歯は抜かなきゃならないだろうし、他の歯だって大々的に削ることになるだろうから、何本、神経を残せるか見ものだわよ。そうやってあの子の前歯をなぎ倒した後は、とりあえず急場しのぎの仮歯を入れてごまかすにしても、さっさととりかからないと、ひと月後のオーディションには間に合わないわよ。

 どうする気よ、先生? 美容整形医みたいな仕事を引き受けちゃってさ。ぐずぐず先延ばしにしてごまかすつもりかもしれないけど、そんなのうまく行くと思ってるの? オーディションがかかってるんだもの、貧弱小娘だって、本気でかかってくるわよ。本気になった女ほど怖いものはないんですからね。男の卑怯な言い逃れなんかに、一歩だって後ずさりすると思ってるの? 甘いわよ、坊ちゃん! 知らないわよ、何があっても。助けてなんかあげないわよ。キャビネットもどかしてあげないし、トイレに落とした携帯だって、もう拾ってあげないからね。絶対に、絶対に知らないからね、もう! 

「じゃ、印象のとり方から、練習してみよっか? あ、印象っていうのは、歯の型をとることね。オレンジ色やブルーの柔らかくてヒヤッとするものを、口ん中にオエッとするまでつっこんで、型をとられたことあるでしょ? あれのことだよ。まずは印象材の練り方から教えるね。このシリコン製のカップにオレンジ色の粉と水を入れたら、ヘラでよく練って・・・そうそう、あ、もうちょっと手首のスナップを利かせて・・・ほら、こんな風に・・・うん、うん・・・」

 と、あたしが本気で心配している間に、先生は小娘の背中に覆いかぶさって、奴の手をつかみ、文字通り手取り足とり、印象の練り方を教え始めた! そんなの、シャカシャカかき回せばいいだけじゃないようっ! テニスのコーチじゃあるまいし、そんなに体を密着させる必要がどこにあるってのよ。小娘め、あんたなんか、印象練るのは十年早いわよっ。そこの隅で壁に向かって、ヘラの右回しを百回、左回しを千回素振りしてから、出直してきなっ。うちは体育会系クリニックなのよ! 男だろうと、女だろうと、オカマだろうと、身長五フィート九インチ以下の奴は出入り禁止よっ。坊ちゃんはぎりぎりセーフだけど、あんたは書類で不合格!

 あたしは鼻息も荒く先生に飛びかかると、小娘から引き離してやった。

「ザ、ザビエラ、何するんだよっ?! 痛いじゃないか」

 先生はあたしに首根っこをつかまれながら喘いだ。

「何よじゃないわよ。歯科衛生士の免許も持ってない、こんな小娘に患者の印象とらせようなんて、先生、気はたしか? 法に触れるわよ!」

 小娘はヘラを片手に後ずさると、おどおどと首をすくめた。そうよ、あんたなんか、そのブカブカ白衣の中に頭をひっこめて、泥亀よろしくすっこんでな!

「うーん、たしかにまずいかもね・・・。じゃ、サンディーには受付を担当してもらおうかな。それなら資格もいらないし」

「ちょっとぉっ! 受付嬢もあたしの仕事よ!」

 このクリニックの看板娘の座は渡さないわよ!! が、先生はにやりと笑って、あたしの肩に手を置いた。

「君は立派な免状を持ってるからね。もっと大事なことをしてもらうよ。キャビネットをどかしたり、くるみ割り人形の金属部品をペンチでまっすぐにしたり、ゴキブリが出たら殺したり、トイレが詰まったら配管を直したり・・・」

「全部、力仕事か、汚れ仕事じゃないのようっ!」

「患者さんが来たら、そのときはちゃんとした仕事をしてもらうよ」

 このクリニックには、ちゃんとした仕事がないってことが分かってるんなら、もっと真面目に働きなさいよっ! 例えば、そこの小娘から、ガッポリ治療費とってさぁ! あたしはマノロ・ブラニクの靴の踵を打ち鳴らして、地団駄を踏んだが、

「こんにちはー! 先生あてに小包が来てるよ」

 待合室から、いつもの郵便屋さんの声がした。はいはい。どうせ医療器具メーカーから送りつけられたサンプルかなんかでしょ。今、行くわよ。

 が、小娘がちゃっかり先回りして、受け取りにサインをしていた! 抜け目がないったらありゃしない。

「あれー、新しい衛生士さん? 初めて見る顔だね」

「いいえ、ただの受付係です」

「受付嬢かぁ! いいねえ、若くてかわいくて。前の受付おじさんはどうしたの? やめちゃった?」

「ここにいるわよっ!」

「あ、悪い、悪い! まだいたんだ」

 あたしが診察室の戸口から睨みつけると、郵便屋のオヤジはたいして悪びれもせずに頭を掻いた。と、何かがあたしの脇の下をちょろちょろ通り抜けたと思ったら、

「そうなんだ、彼女が、うちの新しい看板娘のサンディーだよ。看板おじさんのザビエラともども、よろしくね!」

 先生が前に進み出て、けらけら笑い声を立てていた。それにつられるように、オヤジと小娘も笑い出した・・・許さないわよっ、あんたたち! このクリニックに看板娘は一人で沢山なのよ! そして、それは誰なのか、すぐに分からしてやるから、見てらっしゃいっ。


五.追い出し大作戦

「サンディーお姉ちゃん! また面白いお話、聞かせてー」

「いいわよ。でも、みんなで仲良く、いい子にしてるって約束できるならね?」

「するするー!」

「わーい!」

 今日もうちのクリニックに、まともな患者は一人も来ていなかったが、待合室はサンディーのおとぎ話を聞きにきたくそガキどもでいっぱいだった。あいつらめ、あたしにジャイアントスウィングをさせるときとは、態度が大違いじゃないのよっ。なぜ、あの小娘のチリチリ頭をひっつかんで、背中でフリークライミングを始めないのよ? なぜ、小指で腕立てして見せろとおねだりしないのよ? なぜ、ガキを三人肩に担ぎあげながら、スクワットをしてくれとうるさく頼まないのよ。なぜ・・・

 と、あたしが哲学的思索にふけっている間に、いつのまにか先生までがガキどもと一緒に待合室の床に体育座りして、サンディーを取り囲んでいた。なんなのよ、これは!

 あたしは一人、診察室の戸口から奴らをにらみつけた。

「昔、昔、あるところに貧しいけれど、とても心の美しい娘が住んでおりました・・・」

 何よ、その娘は貧乏で乱杭歯だけど、心がきれいだから、歯医者で貴族の王子様に見染められたとでも言うつもり? 世の中、そんなに甘くないわよ!

「ちょっと、ちょっと、子供たち! そんなきれいごとばっかのおとぎ話より、あたしが知ってる、本当にあったゲイの怖い話のほうがずっと面白いわよ!」

 あたしの親友のジョージア姐さんが東南アジアの無認可クリニックで受けた性転換手術の話とかさあ! くそガキどもの目がきらりと光ったが、

「だめだめ! ザビエラの怖い話は本当に怖いから。泣くまで脅かすから、絶対に聞いちゃダメだよ。さあ、さあ、みんな、サンディーお姉さんの楽しいおとぎ話を聞こうよ!」

 先生が余計なことを言って邪魔をした。なによ、いくじなし。今どきのくそガキは、もぐりの医者に麻酔が半効きのまま、タマをもぎりとられたぐらいの話で泣き出したりしないわよ。あんたじゃあるまいしさ、坊ちゃん。

「娘の仕事は糸を紡ぐことでした・・・」

 と、サンディーがおとぎ話の続きを語り出した。女優志望だけあって、身振り手振りを交えながら、一人何役もの声を使い分けるから、あたしもついそっちに気をとられてしまったが、そのとき受付カウンターで電話が鳴った。いけない、いけない、あいつの演技に見とれてる場合じゃないわよ。あいつが来てからもう一週間は経ってるんだから、さっさと追い出すことに集中しないと。小娘はすっかり自分の一人芝居に没頭していたから、あたしが受話器をとると、

「もしもし、キャラガーですが、今からうちのジョーを診察してもらえますか?」

 久しぶりの患者だ! まともな患者とは言えないけど、キャラガーさんちのジョーは、歯を治療するためにくる数少ない患者の一人だ。

「ええ、もちろん。いつでも大丈夫ですよ」

「じゃあ、三十分後くらいに伺います」

「お待ちしております」

 あたしは受話器を置くと、ひひひ、とこみあげてくる笑いをこらえた。ジョーにはいつも困らされてきたけど、今日ばかりはいいときに来てくれるじゃないの! さあ、今日こそ、あの小娘を追い出すチャンスよ!


「じゃあ、あたし、リップクリームを切らしちゃったから、駅前のドラッグストアまで買いに行ってもいいかしら?」

「いいよ、暇だし」

「サンキュー、先生!」

「ゆっくりしてきなよ。どうせ患者さんなんか来ないし、もし来ても、サンディーが手伝ってくれるしさ」

 ひひひ! 言われなくってもそのつもりよ! あたしは白衣の上にコートを羽織って、ミニトートを手に下げると、もうすぐジョーが来るってことは誰にも言わずにクリニックを後にした。そして、最初の角を曲がるとすぐに建物の裏手に回って、窓からこっそり診察室の中を覗きこんだ。今こそ、あんたの身の破滅のときよ、小娘! くそガキにおとぎ話を聞かせるだけで歯医者のアシスタントが務まるなんて思われちゃ困るのよ。歯科医院の本当の怖さを今こそ、思い知るがいいわ。そして、がたがた前歯のまんま、泣きながら白衣を脱いで、永遠にここから去りな! 

 と、表の通りに車が止まる音がして、泣き叫ぶ子供とそれを叱るお母さんの金切り声が聞こえ始めた。ジョーとお母さんだ! クリニックに入る前から、もう、この騒ぎとは頼もしい限りよ、ジョー! もっと泣いて、わめいて、暴れて、蹴って、ひっ掻いて、仰向けにひっくりかえって、ママと、先生と、そしてあの思いあがった小娘を困らせてやってちょうだい!! 

 あたしは腰高窓の下にしゃがみこみながら、笑いをこらえた。頼んだわよ、ジョー!

 普通の患者は、待合室に「アマチュア精神」なんて額の飾られてるクリニックに大事な子供を連れてきたりはしない。でも、ジョーのママには選択の余地がない。あまりの聞き分けのなさに半径二十マイル以内のすべての歯科医院から出入り禁止を言い渡された子供を持つお母さんには、歯医者をえり好みしている余裕などないのだ。二回目以降もジョーを受けつけてくれる医院はうちしかないし、殴られても、蹴られても、ひっかかれても、ミッキーマウスの声真似をしながら、たっぷり三時間かけて診察してくれるおつむの弱い医者もエドワード坊ちゃましかいない。そして、それでもガキが言うことを聞かないときは、ガキを膝の上に乗せて、人間チャイルドシートよろしく羽交い絞めにできる鋼鉄の筋肉を持った美人歯科衛生士もあたししかいない。

 そうよ、これが歯科医院の真実の姿よ! 思い知るがいい、小娘よ! 先生と一緒に、鼻の頭をくそガキにひっかかれまくればいい! 鳩尾にくそガキの足をくいこませればいい! 指に思いきり噛みつかれればいい! うがいの水をぶっかけられればいい! 最終兵器であるあたしがいないクリニックが、ジョーの攻撃をどう耐え抜けるか、ここでたっぷり見物させてもらおうじゃないのっ!

 あたしは高笑いを上げそうになるのをかろうじてこらえたが、すでにジョーが突撃したはずの診察室から、悲鳴や泣き声が聞こえてこないことに気づいた。あれ・・・? いつもなら、とっくに大騒ぎになっているはずなのに。

 あたしはしゃがみこんだまま背筋を伸ばすと、注意深く中を覗きこんだ。そこには、いつもとうって変わって大人しく診察椅子に座っているジョーの姿があった・・・なぜ? ガキめ、ママに麻酔銃でも撃たれたのかしらん? ナイスアイディアだけど、ママったら余計なお世話よ。今日はたっぷり迷惑かけてほしかったのに! が。

「ジョー、今日はいい子で、本当に偉いねー。なんかいいことでもあったのかな?」

 先生にミッキーマウスの裏声で話しかけられると、くそガキは澄まし顔で答えた。

「世界同時不況の嵐が吹きまくってるのに、いいことなんかあるわけないよ、先生。でも、今日は、スカートを履いた怖いおじさんがいないから」

 何っ?! あ、あたしがいないから、大人しくしているですって?! い、今まで、ずっと、あたしが怖くて暴れていたとでも言うつもり? じゃ、じゃあ、この近隣二十マイル以内の歯科医院すべてで暴れてきたのも、全部、あたしのせいなわけ? 冗談じゃないわ!

「あのお姉さんは、優しそうだから好き」

 が、ガキは診察室の隅に遠慮がちに立っていたサンディーを指さしてのたまった。

「そうか、ジョーはかわいいお姉さんの方が好きかぁ。僕もだよ!」

「先生、声がいつものに戻ってる」

「ミ、ミッキーもかわいいお姉さんが大好きだよ!」

 先生が慌てて裏声で繰り返すと、ガキはよろしいとばかりに重々しく頷いて、

「あのお姉さんが手を握っててくれるなら、先生に好きなように治療させてあげるよ」

 と、サンディーをまた指さした。ガキめ、さては受付でサンディーに一目ぼれして、それで突然、いい子に変身したってわけね?! なにさ、今まで暴れてたのは何もかもあたしのせいだったようなこと言っちゃって、本当は、ただ貧弱小娘相手に色気づいただけじゃないのさ。ふんだ、鼻たれ小僧には小娘がよくお似合いよ! でも・・・でも!

 許せないわ! ベテラン衛生士のあたしを差し置いて、あんな小娘が、しかも衛生士の免許ものど仏もない小娘が、このクリニックでのあたしの地位を脅かすなんて! 何よ、くそガキの手を握りながら、ちゃっかり先生とほほ笑みを交わしあったりして! 見てらっしゃい、今度こそ、絶対にあんたを追い出して見せるから!

 あたしは、あたしとジョージア姐さんののど仏にかけて誓った。


六.尾行大作戦

 しかし、あの小娘は、詰め物の中で進行していく虫歯のように、着々とあたしと先生のクリニックを侵食し続けていた。

 あいつが来てから早二週間。聖なるのど仏の誓いにかけても、一刻も早く追い出してやらなければならないのだが、クリニックの中にいる限り、先生があいつの肩を持って邪魔をするから、何を企んでも裏目に出るばかり。だから、あたしは先生のいないところで、勝負をかけることに決めた。そう。仕事が終わった後にあいつを尾行して、あいつの本性を暴いてやるのよ。

 子供好きで、老人にも優しくて、おつむの弱い歯科医にももちろん優しくて、まじめで、いつもにこにこしてて、みんなに好かれるいい子ちゃんだなんて、話ができ過ぎてるわよ! おまけに歌と踊りが得意ですって? 生言ってんじゃないわよ! 何か裏の顔があるに決まってるわよ!  こっそり抜いてるから分からないだけで、本当は顎に剛毛の一本や二本、生えてるに違いないわよ!歌が得意だなんて言ってるけど、それだって本当かどうか分かんないわよ。だって、この二週間、子供たちの前で散々、一人芝居をしてるけど、歌は一度も歌ってやらないじゃないの? きっと何か裏があるに違いないわ。ミュージカル女優になりたいなんてのは真っ赤な大ウソで、じつはアダルトビデオのオーディションでも受けに行くだけかもしれないわよ。ええ、きっと何かあるわよ、あの女には。絶対に、あたしが真実を暴いてみせる! そして、このクリニックからはもちろん、健全なる市民社会からも永久に追放してやるわ!

「じゃ、お先に失礼しまーす」

「お疲れ、ザビエラ!」

「お疲れ様です、ザビエラさん!」

 あたしはハンドバックを握る手の小指を立てながら、誰よりも早くクリニックを出ると、すぐ隣の建物との間に身をひそめた。よし、あいつも早速、出て来たわ・・・!

 ぼろっちいコートの襟をかき合わせながら、短い足をせわしなく交差させて小娘が通り過ぎるのを確認すると、あたしは隙間から飛び出て奴の跡を追った。


 しめしめ。あいつめ、家とは反対の方角に歩いていくじゃないの。みなしごのあんたを親身に育ててくれた大叔父さん夫婦のところにさっさと帰らないで、どこに寄り道しようってわけ? 何か悪いことをしに行くに決まってるわよね!

 あたしはうきうきスキップしたくなるのをこらえながら尾行を続けた。

 どうやら駅前の繁華街にでも行くつもりみたいね・・・あ、ドラッグストアに入った。マニキュアでも万引きするつもりかしら?! あたしは現場をすかさず撮影するため、ハンドバックからデジカメを取り出して電源を入れた。シャッターチャンスは逃さないわよ!

 が、あいつはまっすぐ薬剤師のところに行くと、大叔母さんの胸やけに効く薬をよこせとかなんとか、愚にもつかないゴロを巻き始めただけだった。なによ、つまんない! どうせなら「オカマさんの胸を大きくする薬をください」くらいの言いがかりはつけなさいよ、いくじなしめ。あたしが代わりにやったろか?!

 が、小娘は胃薬一つ買っただけであっさり店を出たので、あたしも慌てて跡を追った。まさか、この後、まっすぐ家に帰るわけじゃないでしょうね? せめて、自販機の下に手をつっこんで、小銭をかき集めるくらいのことはしてからにしてちょうだいよ! よしよし・・・また家とは反対のほうに歩き始めた。胸やけと戦いながら、あんたの帰りと胃薬を待ってる大叔母さんを置いて、どこに行くのかしらね、赤ずきんちゃん?

 と、小娘は急に細い横道を曲がり、路地の行き止まりでウンコ座りしているジャンキー二人組に近づいて行った。やった! 奴らからドラッグでも買うつもりね?! これは絶対、見逃せないわ! あたしは慌ててデジカメの電源を入れ直したが、

「ハーイ、ピーターにスティーブ! 久しぶりね。元気にしてた?」

 かつてのクラスメートかなんかを偶然、見かけただけらしかった・・・。なーんだ。奴らはひとしきり近況を報告しあったが、

「じゃあ、とりあえずはその歯医者で頑張れよな」

「うん。あなたたちも早くお仕事、みつかるといいわね」

「まあな。お前も大叔父さん孝行なのはいいけど、まずは自分の夢を優先しろよ?」

「レスタースクウェアで、お前のミュージカルを見れる日を楽しみにしてるからな!」

「ありがとう、二人とも!」

 聞き耳を立てる価値のある会話は何一つ、交わされなかった。ほんと、つまんない女ね! どこに行っても、じじばば思いでミュージカル一筋の夢見る孝行娘の顔しか見せないんだから。あたしは、路地から戻ってくる小娘に気づかれないように物陰に潜みながら、うんざりため息をついた。

 十一月の夜は寒いし、小娘はちっともしっぽを出さないし、ハイヒールに押しこんだ足はすっかりむくんできたし、あー、もう、こんなことなら、家に帰ってテレビを見ながら、うぶ毛のお手入れでもしてるほうがよっぽどよかったわ。でも、乗りかかった船を途中で降りるわけにはいかない。あと五十ヤード跡をつければ、あいつも本性を現すかもしれないし・・・!

 気を取り直して貧弱な後ろ姿を追っていくと、小娘は駅前のショッピングモールの中に入って行った。今度こそ、万引きやポン引きの一つはしてくれないと、許さないわよっ。

「こんばんは。ガーナーですけど、お預けしていた時計の修理が完了したって、連絡をいただいたんですが」

「あら、サンディーじゃない! 元気そうね。大叔父さんの時計を取りに来たの? あなたはいつも偉いわね。はい、これが時計。あ、それから、あなたの大叔母さんにお借りしてた編み物の本も預けていいかしら?」

「もちろん」

 またおつかい?! 何なのよ、あんた。十九にもなって、アフターファイブにそれしかすることないの? あきれちゃうわね。女なら、他にもっとすることがあるでしょうが。うぶ毛を剃ったり、腋毛を剃ったり、すね毛を剃ったり、胸毛を剃ったり、乳毛を剃ったり・・・って、乙女の夜はいつだって大忙しじゃないのさ! なのに、この貧弱馬鹿女ときたら・・・

「あの、この辺にトイレってありますか?」

 今度はおしっこ?! そんなの、クリニックを出る前に、済ませときなさいよ!

「ええ、そこのつきあたりを右に曲ったところにあるわよ」

「ありがとうございます」

 と、小娘はそろそろ店じまいの時計屋を出て、トイレに向かって歩き始めた。ちくしょうっ、もう、こうなったら、どこまでもついていくわよ! 何か一枚くらい、今日の記念に撮影して帰らなければ。

 あたしは、女子トイレの入り口の前で立ち止まると、改めてカメラを手に取りなおした。あいつが用を足した後、手も洗わずに出ていくところを、毎秒三十枚のコマ送りで連写してやろうじゃないの! 予備のペーパーをしこたまカバンに詰めこむところでもいいわ。カモン、小娘! なんだって受けて立つわよ。念写だってお任せあれ! あたしはおでこにカメラを当ててポーズを決めると、あいつがトイレの個室に入った頃合いを見計らって扉に手をかけた。

「ちょっと、あんた、女子トイレなんかに入って、何をするつもりだね?」

 が、ふいに誰かに肩をつかまれて振り返ると、ショッピングモールの警備員が警棒片手に立っていた。ヒールを履いてるあたしと同じくらいの背の大男で、べとべとした黄色い髪の下には、フケだらけの頭皮が透けて見えていた。

「女の子が女子トイレに入って何をするか聞くなんて、ずいぶん失礼ね!」

 あたしはおっさんの手を振り払って、扉に再び手をかけたが、

「あんた、その手に持ってるものはなんだね? さては盗撮でもする気か?!」

 おっさんにデジカメを持った方の手首をつかまれた。

「失礼ね! あたしは正々堂々と物陰から、あの女の劇的瞬間をスクープ・・・」

「やっぱり隠し撮りする気だな、この女装の変態男め。そのカメラを寄こせ!」

 おっさんはあたしの手首をひねりあげようとしたが、こっちだって負けちゃいない。

「離しなさいよ、あたしは変態男なんかじゃないわ!」

「離すもんか、警察を呼ぶ前に、俺がお前を叩きのめしてやる、この変態!」

「変態はあんたよ! キャー、誰か助けてー、いやらしい中年男が美人を襲ってるー!」

「黙れ、変態! おーい、誰か、警察に電話してくれー! 女装した変態が女子トイレに侵入しようとしたんだー!」

 おっさんとあたしはふんづもつれつ取っ組みあって、叫び声をあげあったが、そのとき、

「ちょちょちょちょ、ちょっと、その人、女装した変態なんかじゃありません! れっきとした女性です。女性が女子トイレに入ろうとするのは当たり前じゃないですか。だから、今すぐ、その人を離してあげてください!」

 聞き慣れた声がして、あたしの腕に食いこむおっさんの指の力がわずかに緩んだ。

「お嬢さん、こいつのどこがれっきとした女性なんだ? どう見ても、女装の変態男だろ。誰か、早く警察に電話してくれ!」

 おっさんはまた指に力をこめると、いつの間にか集まっていたヤジ馬どもに向かって呼びかけたが、

「この人は女性です! だって、この人、私の友達だもの、そんなことくらい、よく知ってるわ。警察なんか必要ありません」

 小娘が薄べったい胸を精いっぱい張って、あたしの前に立ちはだかった。

「本当に、君はこの変態の友達なのか・・・?」

 サンディーが険しい表情で頷くと、おっさんはしぶしぶとあたしをつかんでいた手を離した。

「さ、早く行きましょ、ザビエラさん! 不愉快だわ、こんなところ!」

 ちょ、ちょっと、あたしは変態でもなけりゃ、あんたの友達でもないわよ・・・そう言い返してやりたかったのだが、あたしは釣り針みたいに細くてちっこい小娘の手にひかれて、ショッピングモールを後にした。



七.夢の舞台

「本当に、本当に不愉快だわ! あなたにあんな失礼なことを言う人が、この街にいるなんて!・・・でも、あたしこそ、いいかげん、こんな不愉快な話はもうやめなくっちゃね。いやなことは忘れて、何か楽しい話でもしましょうよ。私、あなたと一度、ゆっくりおしゃべりがしたいなってずっと思ってたの。だって、あなたはいつもおしゃれで素敵だから。ねえ、もしよかったら、今から、うちに来ない? 狭い家だけど、大叔母が何か料理を作って待ってくれてるから、夕飯くらいはご馳走できるわ。もちろん、ただの家庭料理だけど、大叔母は名コックなの。それに、あなたを連れて帰ったら、大叔母も大叔父も喜ぶわ。二人とも話好きだから、二時間はあなたを質問攻めにして離さないでしょうけど、我慢してね。でも、その後は私の屋根裏部屋でお茶を飲みましょうよ。あ、屋根裏部屋に住んでるって言っても、大叔父さんたちがいじわるだから、そんな部屋しかくれなかったわけじゃないのよ。あたしが屋根裏を自分の部屋にしたいって頼みこんだからなの。だって、家の中で一番高くて、空に近い場所なんだもの! 二階建てバスに乗ったら、二階の最前列に座りたいって思うでしょ? それと同じよ。ここに来る前は、両親と小さなアパートに住んでたから、屋根裏部屋の窓から星を見上げて眠りたいって憧れてたのよね。残念ながら、うちの屋根裏の窓の視界は隣の家の屋根でふさがれてるけど、でも、とっても居心地がいいのよ。だから、食事の後は、あたしたちだけで屋根裏でおしゃべりしましょうよ、女の子同士二人だけでね・・・あ、ごめんなさい、ザビエラさん。あたし、一人でしゃべり過ぎてるわね。気をつけてるんだけど、興奮すると、ついやっちゃうのよ。だって、あんなところでばったりあなたに会えて、とても嬉しいんですもの。ザビエラさんは、あそこで何かお買いものでもしてたの?」

「そ、それは・・・」

 ショッピングモールを出た後、憤慨しきった小娘が怒りにまかせて闇雲に歩きまわったもんだから、あたしたちは街のはずれの人気のない公園のベンチに腰をかけていた。

「とくに用がなくても、ウィンドーショッピングをしたくなる日もあるわよね?」

「え、ええ、まあ・・・」

 サンディーは、エドワード坊ちゃま並に脳天気で、人を疑うことを知らない笑みを、あたしに向けた。前歯はまだがたがただけど、その笑顔は何だかまぶしくて、あたしは目をそらしてうつむいた。

「あの・・・、一つだけお願いがあるの」

 へ? 思わず顔をあげると、今度は小娘があたしから目をそらすように、もじもじとうつむいた。

「大叔父さんと大叔母さんの前では、今度のオーディションのことは黙っててくれる? 二人には内緒なの・・・」

「あんた、女優になりたいってこと、大叔父さんたちには内緒にしてるの?」

 まー、年寄りにそんなこと言っても、心配して反対されるだけだから、隠しときたいのはよく分かるけど・・・でもサンディーは静かに首を振った。

「それは知ってるわ。二人とも応援してくれてる。でも、今までに何度も何度も失敗してきたから、今度もまた失敗したら、がっかりさせちゃうでしょ・・・それに、今度のオーディションで終わりにしようと思ってるなんて言ったら、二人とも自分たちのために、あたしが夢に見切りをつけることにしたんだって勘違いするかもしれないし・・・」

「ずいぶん、弱気じゃないのさ?! まだ落ちるって決まったわけでもないのに」

 前歯をめちゃくちゃに抜いても削ってもかまわないから、万全の態勢で最後のオーディションに臨みたいって意気込んでたくせにさ!

「そうよね・・・歯のことを指摘されてから、じつはちょっと自信喪失気味で・・・人前で歌うのが何となく怖くなってたんだけど、今から、こんな弱気じゃダメよね。頑張らないと!」

 サンディーはきまり悪そうに肩をすくめて笑って見せたが、力ない目の光から察するに、弱気の虫がすっかり吹き飛んだわけではないようだった。さっきモールで、小さな体を目いっぱい伸ばして、あたしの前に立ちはだかった素敵なカウ・ガールはどこに行ったのよ? が、

「ねえ、あんた、なんでミュージカル女優になりたいって思ったの?」

 あたしが質問の矛先を変えると、奴はとたんに目を輝かせて語り出した。

「文化祭で、ミュージカルの主役に抜擢されたことがきっかけよ! 子供のころから歌や踊りが大好きだったけど、人前に立つのは苦手だったから、舞台に立つなんて夢のまた夢だと思ってた。でも、十七のとき、学生生活の思い出に、何か一つ、ずっとやりたかったことを思い切ってやってみようと思ったの。それで、文化祭のミュージカルのオーディションに参加してみたら、見事、主役に抜擢されたってわけ。それがきっかけで、絶対女優になるって決めたの!」

「ふーん。ミュージカルって、どんなの?」

 あんたが主役をやるんだから、どうせサウンド・オブ・ミュージックみたいな、お子様向けの健康的な演目でしょ。が。

「ガンジー」

 え・・・? ずいぶん、渋い劇をやる学校ね。しかも、あんた、主役って言ったわよね? ってことは、ガンジーの役よね? それ、本当に抜擢されたの? なんかの罰ゲームじゃなくて?

 が、奴はあたしの驚きをよそに、自分勝手に話し続けた。

「初めて立った舞台は素晴らしかった・・・スポットライトを浴びて、みんながあたしの歌に耳を傾けてくれた・・・本当に素晴らしかった。私が私じゃなくなったみたいで・・・」

 って、私は私じゃなくて、ガンジーになってたんでしょ・・・? それって、そんなに素晴らしいことなの・・・?

「ちびでやせっぽちの私じゃなくて、私がもっと大きな私に溶けいったような瞬間・・・うまく言えないんだけど、あの感覚をもう一度、味わいたいの。そして、みんなにあたしの歌を聞いてほしい。私の踊りを見てほしい。スターになりたい・・・」

 奴は外灯のあかりに目をキラキラ輝かせながら、どことも知れぬ闇に向かってほほ笑みかけた。まるで、スポットライトの輝きの中から、暗闇に沈む観客席に向かってほほ笑みかけるように。

「恥ずかしいわね・・・私みたいな子が、スターになりたいなんて、そんな大それたことを口にしたりして・・・」

 奴はふと我に帰ると、鼻の下をこすって照れ笑いを浮かべた。いつのまにかすっかり冷えこんでいたようで、奴の口から洩れる息が白く濁っていた。あたしは黙ってうつむいたけど、その白い蒸気の中に、懐かしい幻を見たような気がした。男だった頃の・・・いえ、ボーイッシュだった頃のあたしの姿を。あの頃、あたしも、この小娘のように、うっとりと夢見ていたっけ。女になりたい・・・いえ、もっと素敵な女性になりたいって。こんな風に目を輝かせ、明日をも知れぬ果てしない闇に向かってほほ笑みかけていたっけ。ただ、夢と希望だけを胸にして・・・

「寒くなってきたわね。帰りましょ」

 小娘がしゅんしゅん鼻をすすりはじめたのに気づいて、あたしは立ちあがった。女優に風邪をひかせたら大変だ。

「そうね、早くうちに行って、大叔母さんのキッチンであったまりましょ!」

 え? 小娘はあたしが奴の家に行くと決めつけて、腕をからめてきた。・・・でも、今から話好きの年寄りに会いに行くなんて、なんだかめんどくさそうね。あたしが携帯を開いて時間を確認すると、

「遅くなったら、泊まってけばいいわ。寝ないで、ガールズトークしましょうよ?」

 小娘は自分勝手に人の携帯の蓋をパチンと閉じて、にやりと笑った。まったく、いけずうずうしいったら! あたしは断る口実を探そうとしたけど、人気のない公園を見回すとため息をついた。やっぱり奴の家に行くしかないか・・・こんな寂しい夜道で、乙女が単独行動するわけにいかないもんね。今夜だけは、か弱い者同士、寄り添いあって、奴の家に向かうとするか。でも、助け合うのは今夜だけよ? 明日になったら、また敵同士。あんたなんかに先生と看板娘の座は絶対、渡さないからね! 


八.ミッション完了

 結局、あたしはその晩、小娘のところにお泊まりした。肌色のゴムのスイミング・キャップをかぶってガンジーを熱演する奴の写真が壁中に貼られた不気味な屋根裏部屋に。あんなところで眠ったら悪夢でうなされること間違いなしだから、あたしたちは当初の予定通り、夜通しガールズトークにふけったが、翌朝の太陽が昇る前に、あたしはお肌のお手入れをするため、一度自分のフラットに戻ることにした。小娘はせめて夜が明けるまで待ってはどうかと甘っちょろいことを言ったが、乙女がスッピンでおひさまの下を歩けるわけなどないではないか。ほんとにお子様なんだから! 一日五回のむだ毛のお手入れはレディーの必修科目だというのに、そんなことも知らないとは、あいつめ、尻毛もまだ生えそろっていないに違いない。

 そんな乳臭いガキのお相手はさっさと済ますことにすると、あたしは自宅で身支度を整え、いつもより早くクリニックに向かった。

「・・・あれ? おはよう、ザビエラ。今日はずいぶん早いね。どうしたの?」

 中に入ると、先生がすでに待合室のソファーで出来合のサンドイッチをぱくついていた。貴族だけど、今は一応、自立を目指して一人暮らししてるからね。フラットの家賃はパパ持ちだけど。

「僕は院長だから早目に出勤して、いろいろ準備しなきゃいけないことがあるけど、君はそんなに無理しなくていいんだよ、ザビエラ?」

 うっとりするような優しいお言葉ね。でも、あんたが早目に来てるのは、自宅のテレビの調子が最近悪いから、ここで早起きアニメを見るためだろうがっ。

「ああっ、何をするんだ、ザビエラ?!」

 あたしがテレビの電源を切ると、先生はブラウン管の中に消えていくスポンジボブに向かって悲痛な叫び声を上げた。

「ちょっと話があるのよ、先生」

 こう言って、あたしが隣に腰を下ろすと、先生はごくりと唾を飲みこみ、ソファーの上でお尻をずらして後ずさった。そうよ、もっと怖がりなさい! 女に話があるって言われたときは、大事なものを股に挟んで、地下鉄のホームの端までよちよち後ずさっていくのが大正解よ! そして、後ろも見ずに、地獄の底までまっさかさまに落ちていきな!

 と、心の中で叫びつつも、顔には聖母マリアのような慈悲深いほほ笑みを湛えて、あたしは切り出した。

「ねえ、先生。あの小娘がここに来てから、もう二週間になるわよね?」

「え・・・? サンディのこと? う、うん、そうだね、それくらいになるかな。でも、それが何か?」

「何かじゃないわよ! かわいい顔してしらばっくれれば、何でも許されると思ったら、大間違いよっ。ほら、もう一っぺん、言ってみな! あいつが来てから、もうどれくらいになるのかって」

「に、二週間だよ! なんで、朝からそんなに怒ってるんだよ、ザビエラ?」

 あたしがソファーに片膝立てて凄むと、先生は早速、泣きの入った声をあげた。

「とぼけるんじゃないわよ、このムク鳥! あいつが来てから、二週間経つのに、あんたは何をした? 何もしてやしないじゃないの! 力になってあげるんじゃなかったの? ひと月後のオーディションまでに、あいつのがたがた前歯を何とかしてやるんじゃなかったの? 突貫工事も可能なんじゃなかったの?!」

 先生はサンドイッチを取り落としながら立ち上がると、診察室のほうに後ずさった。逃がさないわよ、坊や!

「か、可能だとは言ったよ! だって、実際、やってやれないことはないもん・・・」

「じゃあ、なんでさっさとやらないのよ? オーディションまで、あと半月しかないのよ。歯を抜いたり削りまくった後は仮歯を入れれば、何とかごまかせる。でも、神経を取れば根幹治療をしなきゃならないし、抜歯すればしばらく傷口が痛むから、歌を歌うのに差し支えが出るでしょうが! ぼやぼやしてる暇はないのよ、今日にでも早速、治療に取りかからなきゃ、オーディションに間に合わないじゃないの!」

 先生が診察椅子のヘッドレストにぶつかってよろけると、あたしは襟首つかんで立たせてやった。

「そ、そうだけど・・・でも、君だって衛生士なら分かるだろう? そんな突貫工事みたいな治療はすべきじゃないって。二年くらいかけて、じっくり矯正すべきだよ。君だってそう思うだろう、ザビエラ?」

「でも、あんたは何とかするって約束したじゃないの!」

「だって、あの子がかわいそうだったから! でも、あの子も早く治療を始めてくれって催促しないじゃないか。自分でもやっぱり怖くなったんだよ」

「素人なんだから、怖さも何も分かっちゃいないわよっ!」

 じゃなきゃ、そもそもこんなクリニックに来やしない。「アマチュア精神」がモットーの歯科医院なんかに。

「だったら、なおさら、あの子にそんなひどいことできないよ! とらなくていい歯や神経を抜きまくるなんて」

「じゃあ、なんで、そのことをあいつにはっきり言ってやらないのよ?!」

 あたしは、五フィート九インチの僕ちゃんの襟首をつかんで、六フィート三インチ+五インチのピンヒールの高みまで持ち上げると、かわいい青い目をまっすぐのぞきこんでやった。

「い、痛いよ。離してよ、ザビエラ!」

 先生は宙であんよをバタバタしながら、ぴよぴよ声を出した。

「話し合いは目と目をまっすぐ見つめあってするもんでしょ、先生?」

「こ、怖くて話し合いなんかできないよ」

「しかたないわよ、先生。女は怒ると怖い生き物なんだから」

「君の怖さと力強さは、どう考えても女のレベルを超えているよ!」

「だから、レディーを怒らせるなと言っておるだろうがっ?!」

「わ、分かったよ! サンディーには、今日、はっきり言うよ! 普通の矯正ならしてあげるけど、突貫工事はやっぱり無理だって」

 あたしが手を離すと、先生はどさりと床に尻餅をついた。

「ひ、ひどいよ、ザビエラ! 君にこんな乱暴をされなくても、僕だって、近いうちにサンディーと話し合わなきゃって思ってたんだ。そりゃ、言いにくいから、先延ばしにしたいと思ってたのは事実だけど、でも、あの子だって、話せばきっと分かってくれるはずだよ。いくら夢を叶えるためとはいえ、自分の体を切り刻むような真似をするのは馬鹿げてるって!」

 馬鹿げてるですって? あたしが片方の眉をギュッと吊り上げると、先生は黙りこんだが、むすっと口を尖らせた顔つきから察するに、自分のほうが正しいと思っているようだった。でも、それはあたしだって同じよ。確かにあの小娘がやろうとしてることは馬鹿げてる。百人中九十九人は、そうだって言うだろう。でも、あたしには分かる。あたしだって、もしも麻酔アレルギーでさえなかったら、ジョージア姐さんと一緒に東南アジアで自分の体を切り刻んでたに違いないし、こんなに敏感肌でなかったら、レーザーで体中のうぶ毛を焼きまくってたに違いない。

 馬鹿げてるかもしれない。でも、あたしにはあいつの気持ちが分かる。だから。

「でも、あいつがあんたの話を分かってくれなかったら、そのときは、潔く約束を守りなさいよ、先生?」

「・・・でも、僕にはやっぱりできない」

 坊ちゃんは珍しく、頑固に言い張った。

「何言ってるのよ、先生? あんた、約束したのよ。それを今になって!」

 あたしになじられると、先生もキッとなって立ち上がった。

「でも、考えが変わるってことはあるだろう? 自分が正しいと思えないことは、やっぱりできないよ!それに、あの子は・・・たしかに乱杭歯だけど、それがなんだ? そんなの気にならないくらい、いい笑顔の持ち主じゃないか! なのに、そんなあの子の前歯を・・・」

「うるさいわねっ! あたしは許さないわよ。あんたのせいで、あいつの夢が・・・」

「やめてください、二人ともっ!」

 と、いつの間にか診察室の入口に小娘が立ちはだかって、小さな拳を震わせていた。

「サンディー・・・いつからそこに?」

「たった今、来たばかりです。でも、私の歯のことでケンカしてたんでしょう? 全部聞いたわけじゃないけど、分かります・・・お二人のケンカの原因を作ってごめんなさい。でも、もう、そんな必要はありません。だって、やっぱり、申し訳なさすぎるもの。ここに来て、毎日、子供たちと遊んでるだけなのに、高額な治療をただでやってもらうなんて。それに、先生にご自分の信条に反した治療をさせるわけにもいきません。先生みたいないい人に」

「サンディー!」

 先生は感激したような上ずった声を出したが、あたしは納得できなかった。

「ちょっと、小娘! そしたら、あんたのオーディションはどうなるのよ? 万全の態勢で臨みたいんじゃなかった?」

 奴はきゅっと下唇を噛んでうつむいたが、すぐに顔あげてきっぱり言い切った。

「もう、いいんです。最後の記念に一応、受けてみるつもりだけど、万全の態勢まで整える必要なんか・・・だって、今まで、散々オーディションを受けて来たのに、端役の一つももらえなかったんですもの。きっと才能がないんです。ガンジーを演じたことで、いい気になってたけど、とんだ思いあがりだったわ・・・」

 ねえ、ガンジーを演ることって、そんなに思いあがれるようなこと? だって、あのスイミング・キャップは・・・が、奴はあたしの戸惑いをよそに、しゃべり続けた。

「スターになれる人は、生まれたときから、もともとそうなんだと思います。あたしみたいなちびでも、やせっぽちでもなくて、ましてや乱杭歯なんかでもなくて・・・それに、この街で働いたほうが、大叔父さんたちだって喜ぶだろうし・・・だから、歯のことはもういいんです。ごめんなさい、お騒がせして」

「サンディー・・・」

 小娘は、しょんぼり坊ちゃんに向かって、にっこり肩をすくめてみせたが、

「いくじなしっ!」

 あたしはハイヒールをガチンと踏み鳴らしながら叫んだ。小娘はびくっと背筋を正した。もちろん、弱虫坊ちゃんも。

「あんたなんか、最後だろうが最初だろうが、金輪際、オーディションを受ける必要なんかないわよ!そうよ、歯を治す必要もないわよ。だって、あんたなんかいくら歯を直したって、受かるわけないもの!」

「ザビエラ!」

 肩に取りすがる先生を振り払いながら、あたしは叫んだ。

「そうよ、あんたなんか、一生、前歯と年寄りの大叔父さんを言い訳にして、屋根裏部屋の隅っこでくすぶってりゃいいのよ! ちびでなかったら、胸があったら、前歯が平らだったら、のど仏も平らだったら、上腕二頭筋も平らだったら、ひげが生えてなかったら、へそ毛も生えてなかったら、って一生ずっと、ほざいてなさいよ! 屋根裏は確かに、家の中で一番、空に近いわよね? 星に手が届きそうよね? でも、そこは空に近いだけで、空じゃないし、あんたもスターじゃない!」

 小娘はぽかんと半開きにしていた唇をゆっくりかみしめた。

「だって、あんたはただの弱虫だもの! あんたはスターでも、歌手でも踊り子でもない。いい? もしも歌が好きで、どんなときも歌い続けているなら、誰が何と言おうと、そいつは絶対に歌手なのよ。そいつの立っている場所がステージだろうと屋根裏だろうと、絶対に。ダンサーもそう、役者もそう、女もそう。心が乙女なら、タマがついてても女なのよ! いつかタイで手術を受けて女になるんじゃない。今、この瞬間、女になれない奴は、いつか女になることなんか絶対、できない。輝く笑顔があれば、どこに立ってても、あんたはスポットライトを浴びてスターになれる。今、この瞬間、にっこり笑って、一歩前に足を踏み出す勇気さえあれば。でも、あんたには無理! もちろん、オーディションなんか受けても無駄よ。今すぐ屋根裏に帰って、大叔母さんの手作りクッションに頭をつっこんで泣きながら、前歯をがたがた震わせてな!」

 小娘はハシバミ色の瞳を瞬きもせずに唇をかんでいたが、あたしが叫び終えると、大叔母さんのクッションに頭をつっこむため、永久に立ち去った。


 こうして、あたしの小娘追い出し大作戦は成功した。思いもかけない形で。

 ジョージア姐さんののど仏にかけた誓いを守り通したというのに、なぜか、あたしの気分はあまり晴れなかった。二人目の親友ができたと思ったら、次の朝にはそれを失ってしまったからかな。多分。そうかもしれない。もしかしたら。ひょっとして。

 姐さんにも言われたっけ。本物の女・・・あたしたちのようないい女じゃなくて、どこにでもいる平凡な一般女性と友達になりたいなら、辛口トークは少し控えたほうがいいって。すごく癪だけど、姐さんの言うことって、いつも正しいのよね。

 でも、あたしには、このクリニックがある。衛生士の免状もある。ひげもある。・・・いえ、うぶ毛もある。

 それに何より愛する先生がいる。

「ねー、ザビエラ。ちょっと、こっちに来てよ・・・ねえ、ちょっとだけでいいからさ・・・聞こえないの? ひどいよ、無視したりして。ちょっと顎を貸してくれって言ってるだけじゃないか。よし、君がその気なら、僕も君の雇用主として命令する! 今すぐここに来て顎を貸すんだ、ザビエル・ロドリゲ・・・」

「だから、あたしはザビエラ・ロドリゲスよ! 男みたいな名前で呼ぶのはやめてちょうだいって、何回言ったら分かるの?」

「やっと、こっち向いてくれたね、ザビエラ!」

 ああん、もう! 反則だわ。そのかわいい笑顔。その顔でお願いされたら、なんだって言うこと聞いちゃうじゃないの。ずるいんだから、先生ってば。

 あたしは、にこにこと手招きする先生に従って、レントゲン室に入った。

「はーい、じゃあレントゲン撮影する間、ちょっとだけ、じっとして我慢しててねー」

 先生は営業用の猫なで声を出しながら、あたしの顎にレントゲン機器を当てがった。まったく、あたしのケツ顎X線写真を何枚、撮れば気が済むのよ。でも、この笑顔で撮らせてほしいって頼まれたら、下のおケツだって出しちゃうわよねえ。もちろん大喜びで。

「ねー、ザビエラ、君のケツ顎、また一段と毛深くなった?」

 と、先生は、ふいに機械をどけると、人差し指で、あたしの顎をさすり始めた。

「失礼ね! さっき剃ったばかりよ。先生、毛並みに逆らって撫でてるでしょ? ちゃんと毛の流れに沿って撫でれば・・・って、もしも本当にあたしのケツ顎が毛深くなったんだとしたら、それはあんたにしょっちゅう、放射能を浴びせられてるからじゃないのっ?!」

「これで最後にするからさー。だって、こないだ撮ったやつ、子供たちに持ってかれちゃったんだもん」

 はいはい・・・もう好きにしてよ。あたしが大人しくなると、先生も機械を当て直したが、

「速達だよー、先生!」

 いつもの郵便屋のオヤジの声がして、あたしたちはそろってレントゲン室を出た。冊子小包やなんかはよく来るけど、速達は珍しい。

「はい、お二人さん宛てだよ」

 あたしたちを見ると、オヤジはその間に郵便物を突き出した。お二人さん宛て? キャー、夫婦みたいじゃない、まるで? あたしは、封筒に並ぶあたしたちの名前を見ながら、わくわくと胸を高鳴らせた。名字は別々だけど、今どきはそういうカップルも結構多いしね! 誰かしら、こんな素敵な郵便物を送ってくれたのは?

「サンディーからだ!」

 先生が封筒と一緒に声も裏返しながら叫ぶと、オヤジもわけ知り顔に頷いた。あたしらより先に、差出人の名を見てたわけね? ちゃっかりしてるんだから。

「それ、前に、ここで受付嬢してた子だろ? あの子、かわいかったよなあ。なんで急に辞めちゃったの? わざわざ手紙をよこすなんて、どっか遠くに引っ越しちゃったとか?」

 先生は、ちらっとあたしを見上げたが、黙って肩をすくめると封筒のすき間にペーパーナイフを差しこんだ。封筒には、サンディーの名前しか書かれていなかったし、消印もよく見えなかった。

「ザビエラ、これ・・・!」

 先生が便せんを開いて叫び声をあげると同時に、細長い紙切れが二枚、ひらひら床に落ちた。あたしはオヤジと一緒に一枚ずつ、それを拾い上げた。それはミュージカルのチケットだった。レスタースクウェアの劇場で公開されるミュージカルのチケット。

「サンディー、ちゃんとオーディションを受けに行ったんだって!・・・乱杭歯のまま。乱杭歯でも胸を張って、歌を歌いに行って来たんだって。自分は歌手で、ダンサーで、スターで、ザビエラみたいなとびきりのいい女だって思いながら、歌ってきたんだって。そしたら、今度の土曜が初日の『ダライラマ!』の子坊主役に欠員が出たから、急遽、採用されたんだって! 今はロンドンに住んでるんだって。暮らし向きが落ち着いたら、僕のアドバイス通り、普通に矯正してくれる歯医者さんを向こうでみつけるつもりだって・・・でも、ここは書き間違いじゃないかな? ザビエラみたいないい女ってとこは・・・」

 目に便せんを近づけている先生の手から、それをひったくると、あたしも一行目から読んだ。なによ、どこも書き間違ってなんかないじゃないの!

「あの子、女優さんだったの?! すごいなあ!」

 はげヅラ専門女優だけどね。オヤジが感動しながら差し出すチケットを受け取ると、

「ただいまぁ、先生、ザビエラ!」

 ガキどもがどやどや入りこんできた。

「ねえ、何それ? ちょうだい」

 と、ガキは、それが何か確認し終わる前にねだり始めたが、あたしはチケットを持った手を高くあげて、べーっと舌を出した。

「やだよーだ! これは絶対、あげないもんねー!」

「大人げないぞ、ザビエラ!」

「オカマげなくて結構! だって、あたしはレディーですもん」

「嘘泣きするぞ!」

 ガキどもは騒ぎ出したが、

「ケツ顎グッズはあげても、こればっかりはあげられないなー!」

 いつも気前のいい坊ちゃまも、今日ばかりはにやにやと首を振った。

「ずるいぞ、ずるいぞ! どうしてもくれないなら、ジャイアントスウィングしてよ!」

「そうだよ、一人、三セットずつだよ!」

 しかたないわねー、もう。あたしは受付カウンターから画鋲を一つとってくると、ちょっと背伸びをして、天井にチケットを刺し留めた。よし。これでガキどもの手は届くまい。僕ちゃんの手も。

「さあ、じゃあ、一人、一セットずつよ!」

「ずるいよ、三セットだよ!」

「一.五セット」

「二.五セット!」

「一.七五セット」

「二.三セット!」

「取引成立!」

 あたしがオークションハンマーを打ち鳴らす真似をすると、奴らはずるいずるいと騒ぎ出したが、外に出るあたしの後について、順番の列を作り始めた。あ、最後尾に先生が・・・と思ったら、その後ろに郵便屋のオヤジまで!

「なんかよく分かんないけど、俺も頼むよ!」

 ほんと、この国の奴らは行列好きなんだから・・・! あたしは、帽子の縁に指をあててウィンクしているオヤジをにらみつけながら、ため息をついた。

 でも、なぜか気分は、さっきよりずっと晴れていた。

 だって、あたしにはこのクリニックがある。衛生士の免状もある。うざいガキどももいる。郵便屋のオヤジまでいる。それに愛しの先生と、徹夜でガールズトークできる親友が二人もいる。のど仏もあるけど、それが何か?

 今日は十二月だってのに春みたいに天気がよくて、しかも、あたしにはこんなに沢山、大切なものがあるのに、ふさぎこんでなんかいられない。乙女の毎日に、そんなことしてる暇はないのよ! あたしはくそガキの脇の下に手を差しこんで高く持ち上げながら、笑った。(おわり)

読んでいただき、ありがとうございます!

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