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沈黙の復讐者  作者: 留里
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第1話 憤怒

 現場は、すでに事件になっていた。

 もはや、何も無かった、ということにするのには不可能な状況だった。

 『処理すべき案件』となっているのは明らかであった。


 パトカーの赤色灯の反射光が、狭い路地の壁を規則正しく殴っている。

 赤く光るたびに、夜の闇が千切れて跳んだ。

 捜査員たちは忙しそうに動き回り、声を張り、無線を飛ばし、

 まるでノルマに追われる働き蜂のように動いていた。


 路上にブルーシートがかけられている。

 その下にあるものを、誰も見ようともしない。

 あえて視界の外に置くことで、仕事が捗るからだった。


 勲は少し離れた場所に立っていた。

 十二歳の少年。

 規制線の外。

 誰にも止められず、誰にも声をかけられない位置。


 怒りの感情はある。

 だが、それは煮えたぎり、噴き上がるようなものではなく、ひたひたと、ただ冷たく、体温を奪っていく類のものであった。


 捜査員の一人が、上司に向かって言う。

「現場周辺の状況確認、終わりました」

 勲の耳には、その言葉だけがやけに鮮明に届いた。


 ――確認?


 何を、誰が、どこまで確認したというのか。

 地面に残った足跡か。

 割れたガラスか。

 それとも、失われた時間の重さなのか。


 勲の拳が、無意識に握られる。

 音はしない。

 関節が鳴らないよう、力を制御している。


 泣き声は出ない。

 もう心の中で、さんざん泣き疲れたあとだ。

 淡々と流れる現場の空気は異様であった。

 人間が多いのに、ブルーシートの周りだけ、命の気配が欠けている。


 担架が運ばれる。

 白い布が、わずかにずれる。

 それだけで、勲の視界が一瞬、狭くなる。


 刑事、警官たちは効率的だ。

 誰もが「正しい行動」をしている。

 間違いはない。

 だが、その正しさの総量は、失われたものの理不尽さと釣り合っていない。


 勲は、正義を守ろうとする警察の姿を見ていない。

 見ているのは、何とか帳尻を合わせるために、証拠物件を都合よく回そうとしている警察の姿だった。


 無線が鳴る。

 誰かがメモを取る。

 誰かが時計を見る。


 そのすべてが、勲の中で、

 一本の線に収束する。


 ――憤怒という名の一本の線。


 怒りは、叫びにならない。

 涙にもならない。

 ただ、方向を持った重さになって、胸の奥に沈殿する。


 勲はその場を動かない。


 背を向けることもしない。


 逃げない。


 この光景を、

 この匂いを、

 この雑音を、

 すべて、体に刻むためにだ。


 やがて、警察は去って行く。

 現場は片づけられて、そこでの出来事は忘れ去られたかのように次の朝が来る。


 だが、勲の中では、

 物語はここから始まる。


 刑事たちは、鑑識作業を続けていた。

 感情を置き去りにするのが、凄惨な殺人現場のこの事態をやり過ごす最善の技術だ。


 手袋を替え、ライトを点け、

 美奈子の着衣が、静かに広げられた。

 布は軽い。

 軽すぎる。

 その軽さが、胸に突き刺さる。


「シャツのポケット、確認するぞ」


 声は淡々としている。

 祈りも、ためらいもない。


 指が動く。

 布の縫い目をなぞり、折り目を開き、

 その奥から、小さな異物が摘み出された。


 金属の感触。

 冷たい。

 無機質。


 ドッグタグの欠片。

 チェーンが途中で切れている。

 刻印の一部だけが残り、

 そこに並ぶ文字列は、

 この国のものではなかった。


 一瞬、空気が止まった。


 刑事の一人が、息を吸い直す。


「……米軍、海兵隊、だな」


 その言葉が、勲の脳天に、電撃のように落ちた。


 音はない。

 だが視界が白く弾け、

 次の瞬間、すべてが過剰に鮮明になる。


 赤色灯。

 制服の皺。

 刑事の手袋のラテックスの光沢。

 地面の小石一つ一つ。


 そして、

 美奈子の服の上に置かれた、

 その小さな金属片。


 勲の中で、それらが音を立てて接続された。


 点と点が、また新たな憤怒の線になる。


 悪夢ではない。


 偶然でもない。


 逃げ場のない、方向を持った現実。


 拳が、わずかに震える。


 強く握りしめて拳から、


 湧き上がってくる力が逃げ場を探して暴れている。


 誰が、誰に、何を、どうしたのか。


 その答えが、今、布の上に置かれている。


 刑事たちはメモを取る。


 写真を撮る。


 証拠袋を用意する。


 すべて、正しい手順だ。


 間違いはない。


 だが勲は知っている。


 この瞬間からは、


 物語は個人の不幸では終わらない。


 国家が絡む。


 制度が動く。


 言葉が削られ、


 誰かの責任は薄められ、


 解決に至る時間は引き延ばされる。


 勲の喉が、わずかに鳴る。


 声にはならない。


 ただ一つ、


 はっきりとした感覚だけが残る。


 ――逃げさせない。


 この金属片が、


 何処かに消える前に。


 この夜の出来事が、書庫の中の書類の束の一つに変わる前に。


 勲は、美奈子の骸から目を離さない。


 ここで、すでに、勲の頭の中の想い は、形になっていた。


 勲と美奈子は、二人きりの家族だった。


 それ以前の世界は、三年前に終わっている。


 両親は、演習場に隣接したサトウキビ畑で働いていた。


 土地は痩せていたが、手は抜かなかった。


 米軍の演習場のフェンスの向こうで何が行われていようと、


 畑で黙って作物を育てるしかない。


 その日も「演習」だった。


 使用されるのは空砲だと説明されていた。


 だから、危険はないと、役所は言った。


 だが、その日の夜、家に戻ってきたのは、両親の骸が納められた遺体袋だった。


 公式記録では、流れ弾が当たった事による不幸な事故。


 運が悪かった、そう処理された。


 だが勲は知っていた。


 両親の頭部に空いた穴は、


 前から撃たれたものではない。


 逃げる時でも、身をかがめた時でもなかった。


 後ろから、頭に狙いを定めた高さで、間隔の揃った複数の高速弾が貫いていた。


 おそらく退屈しのぎだ。


 演習の合間に、目に映るものを的にして撃ってみただけだ。


 怒鳴り声も、警告もなかった。


 ただ引き金が引かれ、


 二人は畑に倒れた。


 勲は、その畑の匂いを忘れない。

 甘く、土臭く、人が死ぬには不似合いな匂いだ。


 両親を失ったあと、

 勲と美奈子は「保護」された。


 養護施設、北谷天使苑(エンジェルホーム)

 名前だけは、やけに明るかった。


 白い壁。

 消毒液の匂い。

 職員の作り笑い。


 勲は、泣かなかった。

 泣くと、美奈子が不安になる。

 それだけは、避けた。


 夜になると、

 美奈子は勲の服の裾を掴んで寝た。

「お兄ちゃん、どこにも行かないで」

 そう言って、眠った。


 勲は約束した。

 どこにも行かない。

 必ず守る。


 だからこそ、

 美奈子が殺されたとき、

 勲の心は怒りで震えながらも、折れなかった。


 犯人は捕まる。

 法が裁く。

 今回は違う。

 今回は、きちんと終わる。


 そう、信じた。


 信じることでしか、

 自分を保てなかった。


 家族をすべて失った少年が、

 それでも法を信じたという事実は、

 皮肉ではない。


 それは、最後に残った希望だった。


 そしてその希望が、後にどれほど残酷な形で裏切られるかを、この時の勲は、まだ知らない。


 怒りは、すでに震えて形になっていた。


 だがまだ、刃にはなっていなかった。

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