静かな侵入
その国では、戦争は警報音から始まらない。
始まるのは、書類の山と、会議の沈黙と、人の顔色の変化からだ。
入国審査場は、いつもと変わらぬ騒がしさに包まれていた。
観光客、技術研修生、留学生、家族連れ。
誰一人として武器を持っていない。
だがその日、保安庁のモニターに映る「流れ」は、わずかに歪んでいた。
「……多いな」
小さく呟いたのは、分析官のミナトだった。
二十代後半。軍服ではなく、灰色のスーツを着ている。
彼の仕事は、敵を見つけることではない。
違和感を見逃さないことだ。
画面に表示されているのは、同一地域出身の入国者データ。
職業はばらばら。
宗教指導者、学生、技能実習生、研究員、翻訳者。
共通点は一つだけ。
「……同じ宗派だ」
同僚が肩越しに画面を覗き込む。
「合法だろ。難民認定も下りてる。問題あるか?」
ミナトは答えなかった。
問題は、常に合法の顔をしてやってくる。
その夜、首都中心部の小さな集会所で、最初の「言葉」が発せられた。
「我々は、争いを望まない」
穏やかな声だった。
柔らかな表情。
聴衆は十数人。ほとんどが若者だ。
「ただ、この国は……信仰を失っている」
誰も反論しなかった。
なぜなら、この国では反論しない自由が尊重されているからだ。
「信じるものを持たない社会は、空虚です。
正しさを混ぜ、曖昧にし、責任を誰にも負わせない」
彼は決して、暴力を肯定しなかった。
むしろ、非暴力を褒めた。
「あなた方の非暴力は、美しい。
しかし弱い」
その言葉が、最初の亀裂だった。
翌朝、国会議事堂。
「宗教国家による組織的浸透の兆候があります」
ミナトは、緊張を押し殺して報告した。
「証拠は?」
政治家たちの表情は、硬い。
しかしそれは危機感ではなく、警戒だった。
「合法入国、合法活動、表現の自由の範囲内です。
ですが、同時期に、同一教義を持つ人物が各分野に散らばっています」
「つまり、違法ではないと」
別の政治家が言った。
声は冷静で、理性的だった。
「はい。現時点では」
会議室に、沈黙が落ちる。
この国では、
違法でないものを排除する理由が存在しない。
「過剰反応だな」
有力政治家が口を開いた。
柔らかい笑み。国民的人気。
後に“調整役”と呼ばれる男。
「宗教の自由を疑うのか?
それは我々の建国理念そのものを傷つける」
誰も否定できなかった。
数日後、街で小さな事件が起きた。
宗教施設の前で、若者同士の口論。
殴り合いにはならなかった。
動画が撮られ、切り取られ、拡散された。
《非信仰者が信徒を侮辱》
《信仰を持つ者への迫害》
事実は、どちらでもあり、どちらでもなかった。
だが世論は、割れた。
「宗教が問題だ」
「差別だ」
「非暴力国家は何も守れない」
言葉が、国を削っていく。
その夜、ミナトは一つの報告書を読んでいた。
〈宗教国家A
戦略指針
敵国の理念を攻撃せよ
武器ではなく、人を送れ
暴力を使わせた時点で勝利〉
彼は息を吐いた。
「……戦争だ」
銃声は鳴らない。
爆撃もない。
だがこれは、間違いなく侵攻だった。
同時刻。
海の向こうの会議室。
宗教国家の指導者は、静かに言った。
「始まったか」
「はい。抵抗はありません」
「当然だ。彼らは撃てない」
彼は微笑んだ。
「撃たせる必要もない。
彼ら自身に、理念を疑わせればいい」
島国では、その夜も街の灯りが消えなかった。
平和だった。
静かだった。
だが見えない場所で、
国家の背骨に、細い亀裂が走っていた。
それが、
この戦争の始まりだった。




