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戦時下のセレブ生活

作者: 滝 城太郎

現在のセレブ生活を自慢げに語る人はいても、セレブ家庭ならではの戦争中の優遇措置となると、後ろめたさもあるのか、口をつぐんでしまうのが常で、いまだにブラックボックスの中にある。懲罰的な意味合いではなく、そういう怪しげな構造を解明することこそ、戦争利益を貪ろうとしている輩の野心を暴き、平和を乱す者の社会進出の歯止めになるのではないだろうか。


 “戦時下のセレブ生活”というタイトルから皆さんは何を想像するだろうか。

 戦争には飢餓と死の恐怖がつきものであり、敗者は無論のこと、勝者でさえも醜い争いに巻き込まれたことに対する怒りや不安、罪悪感に起因するストレスがつきまとうのが常である。

 だからこそ第二次世界大戦に勝利した国の人々も、戦争が終わったことに歓喜こそしても、勝ち戦ならもう一度やりたいなどとは思わなかった。

 戦時体制に入ると物資は政府によって統制され、窮乏生活が余儀なくされるのだから、好き好んで戦争をしたがる者などいるはずがないのだが、物欲や権力欲がそれに勝る連中がいるおかげで、懲りずに戦争は起こり続ける。このような人々にとって、戦争は所詮モノポリーゲームであり、たとえ痛い目に遭ったところで、一攫千金を狙い続けるギャンブル狂のように足を洗うことなどできないのだろう。

 こういう病的な連中はさておき、戦争に巻き込まれた方の一般人の中で、戦時下の生活に充実感や満足感をおぼえたというのはかなりのレアケースだと思われる。戦中の軍功によって英雄視されたことのある元兵士であっても、それは危険な任務を果たした結果であり、再び命を削るような思いをするのはもう御免被りたいというのが本音のはずだ。

 しかし世の中には「戦時中の生活こそが人生の中で最も輝ける日々だった」と目を細めて回顧する人もいるのだ。私が学生時代に寝台特急で相席した老紳士は、戦時下の生活を楽しそうに語ってくれた唯一人の人物である。


 その紳士(仮にBさんとする)はすらっとして身なりも良く、大手企業の重役のような貫禄があったが、非常にフレンドリーで話好きだったので、世間話から始まり、やがて戦争中の思い出へと話が進んでいった。

 Bさんは元陸軍航空兵で戦時中は上海で任務に就いていたと言う。

 航空兵はエリートではあっても消耗率が高いので、さぞかし激務だったのではないかと思いきや、偵察機の搭乗員だったので交戦経験はなく、危ない橋も渡ったことはなかったらしい。

 それもそのはず、偵察機は機体を軽くするために武装をしていないから、速度も重武装の戦闘機よりはずっと速い。仮に最前線に出たとしても、視察と記録のために戦況を見下ろすような高度に位置している関係で、運悪く流れ弾にでも当たらない限りは安全なのである。

 また交戦経験がないということは、敵機撃墜や地上掃射、爆弾投下経験もないわけだから、戦争中ゆえに勝つためには敵を殺さなければならないという理不尽な使命感とも無縁だった。それでいて航空兵ならではの食生活の優遇措置もあるのだから、職場環境としては申し分がなかったはずだ。

 そもそも航空兵は体力勝負である。増槽まで積んだゼロ戦の作戦活動域は往復3300kmくらいまでは可能なのだから、一度離陸すれば5~6時間は操縦しっぱなしということも少なくない。だからこそ食糧事情は良く、作戦行動中も手巻き寿司の弁当やサイダーなどの清涼飲料も配給されていたのだ。

 特攻前夜の晩餐によく出てくるすき焼きなどはさすがに例外にしても、食糧不足になってもカロリーの高い食事が配給されていたのは航空兵の特権といってよかった。

 内地でさえこれだけの待遇である。Bさんのいた上海は終戦によって強制的に帰国させられるまでは大きな戦闘もなく、物資も豊富だった。しかも主戦場と離れているので、日本の租界で暮らす人々の間には差し迫った危機感もなく、戦前は“魔都”と呼ばれた街での退廃と享楽に溢れたエキゾティックでスリリングな生活が満喫できた。

 任務が終われば、クラブやサロンで食事をし、映画やレビューに出かけるなどという贅沢は、戦争前の日本ですら富裕層以外には無縁だった。それが戦争のおかげで上海に赴任させられたBさんは、日本にいる時は想像もつかなかった“酒と薔薇の日々”を手にすることができたのだ。

 今日でも財力さえあれば、上海、香港、マニラ、バンコクといった巨大都市の歓楽街で豪快に遊ぶことは可能かもしれない。しかし、世界的大富豪かハリウッドスターでもない限り、高級店やセレブ御用達の社交場で特別扱いされるはずもなければ、好き勝手なことができるわけでもない。

 それが軍人の社会的地位が絶対的なものであった戦時中に、その地を支配している民族となると扱いは別格で、接待側もそれなりに気を遣わざるを得なくなる。ましてやBさんのような航空兵は駐留中の陸軍将兵の中では階級も上の方だったはずなので、ある程度行動に融通が利いたのではないかと想像する(警察沙汰になるほどの問題を起こしても、合法的に軍がもみ消してくれるのは、戦時下ならではである)。


 魔都上海で過ごしたゴージャスな日々は、Bさんにとって忘れ難き人生最高の日々だったという。だからこそ、終戦で内地に帰還することになった時は、不謹慎ながら、もっと戦争が続けばいいのにとまで思ったそうだ。

 戦争を賛美し終戦を残念がるするなんて常識的にはありえないことだ。しかし、平凡でうだつの上がらない日々を過ごしていた人が、戦争によって人生観が変わるほどのときめきに満ちた日々を与えられたとしたらどうだろう。人はそれでも自分の幸運より他人の不幸に心を砕き、戦争によってのみ得られうる満ち足りた生活を否定できるのだろうか。

 私はBさんの上海時代の話が非日常的であったぶん、有難く拝聴したが、人によっては途中で嫌悪感を示したかもしれない。ただ、人の考え方というのは千差万別で、法律に違反するもの以外は偏向的な正義感で一方的に否定されるべきではないと思う。

 私は凡人であるから、日本軍に上海を支配されていた中国人に対する共感よりもBさんの体験談への興味関心が勝った。おかげで戦争経験者でありながら、戦争というものを肯定する理由に触れることができ、いい意味で勉強になったとさえ感じている。つまり、政治的、経済的欲求に基づいて戦争を主導しうる一部の権力者とは異なる一般人でさえも、自発的に共犯者になりうるという事実を確認できたというわけだ。

 だからこそ留意すべきである。戦争は食わず嫌いの反戦論者を一口で魅了する危険な味と食感を持っていることに。


 日本は貧しかったから物価統制せざるを得ず、国民には堅忍持久を強制したため、敗戦後の国民は戦争責任を軍に転嫁し、自分たちは被害者であると思いこむことで戦争に同調した罪悪感を払拭しようとしたが、ナチスドイツは戦争によって豊かさをもたらすことで、国民を自発的共犯者へと仕立て上げた。

 ナチスは戦争に備えて食糧の大量生産に力を入れ、オランダ、ベルギー、フランス降伏後には大量の略奪物資を国内に供出したため、かえって人々の暮らしは豊かになった。ワインの産地も軍が管理したおかげで、国民は良質のワインを安価で手に入れられるようになったばかりか前線の兵士にまで浴びるほどのワインが配給された。

 やっていることは略奪行為に過ぎないにしても、関税もかからず原価もただ同然であればこそ、それまではセレブしか口にできなかったような高級ワインまで巷に出回るのだから、ナチスさまさまである。ナチスが中間マージンやブランド化による不当な価格吊り上げを排除してくれたのだと考えれば、第一次大戦後のハイパーインフレを経験したことのある庶民の立場からすれば、大した罪悪感は持たなかったとしても不思議ではない。だからこそドイツ国民は戦争によってフランスを占領したナチスの軍事活動を熱狂的に支持、歓迎したのである。

 戦時下にあえて美食を供給することで、戦争非難の声を封じたばかりか、豊かな食生活という媚薬によって国民がさらなる生活の向上を切望するよう促したナチスの戦略は、人間の弱さをうまくついているといえよう。最終的には戦局が逆転し、倍返しともいえる貧困と飢餓に襲われたにせよ、とりあえず前線の兵士が後戻りできないよう銃後が戦争を肯定する段階まで戦局を進展させた効果は否定できない。食糧難に苦しむどこかの国家指導者がナチスのやり方をお手本にしないよう祈りたいものだ。


 前述のBさんは戦争によってセレブな世界に片足を突っ込んだ一般人の実例だが、本物のセレブはどうだったのかということについては、当該者もその子孫も後ろめたさがあってその実態について公にすることはほとんどない。

 テレビ番組で紹介されることがあるセレブな旧家の方は、血筋や財力を自慢げに披露することはあっても、戦時中あるいは占領下での世間とはかけ離れた暮らしぶりについては触れようとはしない(もちろんコメンテーターも突っ込まない)。そこまで言ってしまうと、いくら平和主義者的な発言でフォローを試みても、所詮は戦犯たちとつるんでいい思いをしていた連中の末裔と見なされかねないからだ。

 ところが私の長年の知り合いである往年のセレブ家系の子女は、どうせ子供の頃のことだからといってわりと如才なく当時の話をしてくれた。長男である弟が家督を継いで自身は他家に嫁いだので、もうセレブではない(自分でセレブなどとは言わないが)という気安さもあったのかもしれないが、自分の同僚の中では超お嬢様だと思っていた方(結婚式の来賓が首相だった)をも上回るセレブエピソードに仰天したのと同時に、知らない世界を垣間見たという奇妙な満足感さえ覚えてしまった。


 その方(仮にCさんとする)は、博多随一の輸入雑貨商の娘で、中洲の一等地にあった洋風三階建ての店舗兼自宅の庭には線路が敷かれ、物品搬入用のトロッコが走っていたそうだ。

 確かに地方の資産家の中には門から玄関まで車で5分などという広大な敷地を所有する者もいるが、多くは交通アクセスの劣悪な地所で、建物がそこそこ立派でもそんな不便なところに住みたいと思う人はそうはいないだろう。そういう意味では幼少時のCさんは、人もうらやむハイパーセレブ子女だったということになる。


 昭和十二年に始まった日中戦争から太平洋戦争の終結まで、日本は8年にも渡る戦時下の生活を経験した。それでも昭和十三年頃までは連戦連勝の知らせに国全体が浮かれ、戦死者数もマイカー時代の年間の交通事故死数にも満たないほど少数だったせいか、多くの国民にとって戦時下であるという実感は乏しかった。

 欧州で第二次世界大戦が始まった昭和十四年からは、言論や出版の統制が行われるようになり、ようやく人々も非常時であることを痛感し始めた。

 ところが早く片付くと思われていた日中戦争が泥沼化し、膠着状態が続くと、物資が乏しい本国では国家総動員令に基づく生活必需物資統制令が施行(十六年三月)され、主食である米や砂糖、燃料などが配給制となった。配給制とは家族の人数や職業によって割り当てられた分量の食糧や燃料、衣類などの生活必需品を、定期的に配布された配給切符を使って購入する制度である。

 当初は少なかった対象品目も戦局が悪化するにつれて増えていったため、高級軍人専用のクラブや料亭以外の外食店は材料が手に入らず、次々と閉店に追い込まれた。したがって今日創業100年や150年を売り物にしている老舗店も、ずっと継続していたのはごくわずかで、大半は一旦閉店に追い込まれ、戦後に再開したと考えて差し支えないだろう。

 漁船が徴用され燃料が配給となれば、漁獲量は激減するし、人間が食糧不足の折りに家畜用の穀物を確保するのは至難の業であるから、畜産業も立ちゆかない。したがって肉と魚介類は入手困難となり、これらを食材として扱っていた店舗はうどん、そば、すいとんなどをメインした簡易食堂に切り替えるか、閉店しか道はなかった。(戦前以来の長い伝統をウリにしている高級寿司店やスイーツ店はこんな食糧難の時期も営業を続けられたのだろうか)

 ただし、川魚はある程度の漁獲量が確保できたので、輸送費がかからない鮎や岩魚、鰻、蜆の原産地であれば、多少なりとも終戦間際まで魚介類を食すことが可能だった。

 また配給はカロリー計算に基づいているとはいえ、戦争末期には配給の遅延や規定量に届かないことが常態化したため、家庭菜園で芋や根菜類を賄う人が増加した。


 太平洋戦争が始まった時、Cさんはまだ小学校に上がる前で、終戦の年に尋常小学校の二年生だったが、昭和二十年六月の福岡大空襲で焼け出されるまで、戦時下の窮屈さを感じたことはなかったという。というのも、自宅には食糧がふんだんにあったからだ。

 配給制なのになぜ食糧に困らなかったかというと、店が宮内省御用達だったため、海外からの輸入品に対する規制がなく、舶来の肉や魚の缶詰類が倉庫に山積みになっていたらしい。

 缶詰は日持ちするから日本が制海権を失って入荷が途絶えたとしても、3年は保存がきく。小学校に上がったばかりのCさんくらいの年齢の子たちは、そうそう夕御飯の買い物についてゆくこともないため(衣類も外商、オーダーメイドである)、商店の棚から缶詰類が消えていることにも気付かず、食べても食べても減らない缶詰の山から世間の飢餓状態が想像できるわけもなかった。

 現在の我々の感覚だと、さすがに毎日缶詰は飽きが来て辛いが、セレブ家庭には配給制など紙に書いた餅だった。なんと毎朝漁協関係者が博多港で上がったばかりの鮮魚をトラックで搬入していたというのだ。それも順番があって、Cさん宅に一番最初に運ばれ、購入されなかったものが次に回されていというから驚く。

 昭和二十九年、ジョー・ディマジオ、マリリン・モンロー夫妻が新婚旅行で福岡に立ち寄った際、福岡帝国ホテルの支配人から夫妻に紹介された両親が、この世紀のスーパーカップルからの誘いで昼食を同伴させてもらったというくらいの家族である。各方面に何らかの伝手があったのかもしれないが、この待遇は破格であろう。もちろん牛肉もふんだんに手に入るから、父と弟は毎日ステーキを食べていたそうだ。逆にCさんは毎日食卓に上がる牛肉と生魚で胃がもたれてしまい、この時代に育った人とは思えないほどの偏食になったというから、庶民とは感覚がずれ過ぎていた。


 また街中ということもあって庭に防空壕を掘る家が増えてきた時も、Cさん宅は鉄筋コンクリート作りの地下シェルターまで備えていたので、空襲の不安もどこ吹く風だった。戦争中というのにそこだけはまるで竜宮城の浦島太郎状態だったのだ。

 玉手箱から出た煙とともにCさんが現実の昭和二十年に戻ったのは、福岡大空襲の夜だった。

 空襲警報で目を覚ましたCさん一家が、地下シェルターへの避難準備を始めるやいなや、庭先でドスンと大きな音が聞こえたので、父親が確認に行ってみると、シェルターのすぐ傍の地面に深々と不発弾が突き刺さっていたのだそうだ。不発弾とはいえ、焼夷弾の束である。何かのきっかけで発火しないとも限らないので、自宅のシェルターは危険だと判断し、外に避難することにした。

 通りに出てみると近くの十五銀行の地下シェルターに人々が入ってゆくのが見えたが、父親はよりによって自分の敷地に一発目の焼夷弾が落ちたくらいだから、この辺は標的になって防空壕に入っても蒸し焼きになるのがオチだといって、一家は大通りから離れた冷泉公園に向った。

 一夜明けると、果たして父親の予想通り、自宅は丸焼け、十五銀行のシェルターは停電でシャッターが故障し、避難住民は全員窒息死していた。

 さすがに焼け出された後は、地方に疎開して、毎日果物や野菜ばかりの生活を余儀なくされ、かつてのセレブも形無しだったようだが、いくら飢餓と恐怖が社会に蔓延していても、こういう別世界があり、それをセットアップしてくれる誰かがいるということを忘れてはならない。そのあたりのいびつな構造を事細かに証言してくれる人がいれば、我々も戦争で得をする人間がいることを認識したうえで、ナチスドイツの二の舞にならないよう、権力者や指導者に対する警戒心を強められるのだが・・・。


言い訳がましいかもしれませんが、Cさんの実家はセレブではあっても篤志家の一面もあり、貧しくで学校に通えないような子供たちの教育環境を整えるために、当時家が一軒建つくらいの支援をしています。

残念ながら腐食の構造までは明らかにできませんでしたが、現在のウクライナでも戦争を喜々として受け入れている人たちがいると思うとやりきれませんね。

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