名君の連鎖:慕容一族の覇業②
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かつて叔父の慕容耐に位を奪われ、命からがら逃げ延びた慕容廆は、部族の民に迎えられ、再び部族長を表す大人の座に就いた。あれからおよそ九年。慕容廆は部族の発展に尽力し、その勢力は日増しに拡大していた。
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新たな本拠地を求めて
「劉賛よ、この地に本拠地を移す、と決めたが、これで良いのであろうな?」
慕容廆は、自らが率いる鮮卑慕容部の新たな拠点となるべき場所、昌黎郡棘城の地を、信頼する漢人の儒学者・劉賛と共に視察していた。広大な平野にそびえる山々を背景に、流れる大河。ここは、確かに戦略的にも、生活の場としても申し分ない場所だった。
劉賛は、静かに頷いた。「はい、慕容廆様(ぼよう かい さま)。この棘城は、遼西の要衝であり、肥沃な土地でもございます。ここに新たな本拠地を築けば、部族はさらに発展することでしょう。漢人の文化を取り入れる上でも、最適な場所かと存じます」
慕容廆は、満足げに髭を撫でた。「うむ、そなたの目に狂いはないと信じておるぞ。これより、本格的に遷都の準備を進める。部族の皆にも、新たな生活への期待を抱かせるよう、大々的に告知せよ!」
「かしこまりました!」
劉賛は、深々と頭を下げた。慕容廆は、漢人の知恵と文化を積極的に取り入れることで、部族の統治をより強固なものにしようと考えていた。この棘城への移転は、その大きな一歩となるはずだった。
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新たな命の誕生
棘城への遷都は、大変な労力を要した。しかし、慕容廆の的確な指示と、部族民の結束により、作業は着々と進んでいった。新しい住居が建てられ、畑が耕され、水路が整備されていく。活気に満ちた日々が続いていた。
そんなある日のこと。
「慕容廆様(ぼよう かい さま)! 奥方様がご出産なされました!」
興奮した侍女の声が、執務室に響き渡った。慕容廆は、手にしていた書類を投げ出し、勢いよく立ち上がった。
「おお! ついにか! 男の子か、女の子か!?」
慕容廆は、喜びを隠しきれない様子で、侍女に詰め寄った。
「男の子でございます! 健やか(すこやか)な、それはそれは立派なお子様でございます!」
「おおお! 天が我に与えし、新たなる宝か!」
慕容廆は、満面の笑みを浮かべ、すぐさま奥方の元へと駆けつけた。産室の戸を開けると、そこには、まだ幼い赤子が、力強い産声を上げている。その小さな命は、まさに部族の、そして慕容廆自身の未来を象徴しているかのようだった。
「わしの子よ…」
慕容廆は、赤子を抱き上げた。その小さな手に、自分の指がぎゅっと握られる。その瞬間、慕容廆の心には、これまで感じたことのない、温かい感情が込み上げてきた。
「この子は、きっと大物になるぞ! 名は…名は慕容皝と名付けよう! 太陽のように、この部族を、そしてこの世界を照らす存在になるのだ!」
慕容廆の声は、産室中に響き渡った。この日、慕容部に生まれた三男・慕容皝は、父の期待を一身に背負い、後に前燕という大国を築き上げる、偉大な君主となることを、この時はまだ誰も知る由もなかった。
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慕容廆は、自らの手で部族を導き、新たな本拠地を築き、そして新たな命の誕生を喜んだ。彼の目は、常に未来を見据え、その心には、部族の繁栄への確固たる信念が宿っていた。
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荒れ果てた大地に、人のざわめきが響いていた。西晋の国は、「八王の乱」と呼ばれる大いなる争いの渦中にあり、その支配力は地に堕ち、各地で飢えと混乱が広がっていた。
「八王の乱」とは、今からおよそ1700年くらい前の中国で起こった、とんでもない内乱だ。当時の「西晋」という国で、皇帝が亡くなった後、その家族や親戚(「八王」と呼ばれる有力な者たち)が、誰が偉くなるか、誰が政治を動かすかを巡って大ゲンカを始めた。このケンカは16年間も続き、戦力を増やすため、国の外にいたモンゴル系やトルコ系などの強い民族(異民族)を味方につけて戦った。その結果、中国の北の地方は荒れ果て、国はボロボロになり、最終的にこの異民族たちが中国に攻め込んできて、西晋という国が滅びる原因となった。
そんな中、慕容廆が治める遼東の地は、まるで別世界のように秩序を保っていた。
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混沌の中の光
「慕容廆様(ぼよう かい さま)! また漢人の流民たちが、多数、我々の領地に流れ着いております!」
劉賛が、緊急の報告に駆けつけた。その顔には、一抹の不安がよぎっている。いくら慕容部の統治が安定しているとはいえ、際限なく流入する流民をすべて受け入れるのは、容易なことではない。
慕容廆は、地図を広げ、真剣な眼差しでそれを見つめていた。
「うむ…やはりこの乱は、そう簡単には収まらぬか」
彼は深く息を吐き、毅然とした声で言った。「劉賛よ、彼らを保護せよ。飢えている者には食料を、病の者には手厚い看護を。そして、住む場所を与え、農地を分け与えるのだ」
劉賛は驚いたように目を見開いた。「しかし、慕容廆様(ぼよう かい さま)! 彼らの数は、日ごとに増えております。このままでは、我々の食料も、土地も、底を尽いてしまいますぞ!」
「何を言っておるのだ! 人が困っておる時に、見て見ぬふりをするのが、この慕容部のやり方か!?」
慕容廆は、強い口調で劉賛の言葉を遮った。彼の瞳には、民を思う深い慈愛と、揺るぎない信念が宿っていた。
「流民たちは、西晋の混乱から逃れてきた、言わば希望を失った者たちじゃ。彼らを助けることは、この遼東の地を豊かにすることに繋がるのだ。彼らの持つ知恵と労力は、必ずや我々の力になる!」
劉賛は、慕容廆の言葉に、ハッとさせられた。目の前の困難にとらわれ、その先にある可能性を見落としていたのだ。
「かしこまりました、慕容廆様(ぼよう かい さま)! 私の不明を恥じます。早速、彼らの受け入れ態勢を整えましょう!」
劉賛は、すぐに手配に取り掛かった。慕容廆の寛容な政策は、混乱する中原からの流民にとって、まさに砂漠の中のオアシス(oasis)だった。彼らは慕容部の元に集まり、その勢力はさらに拡大していった。
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大単于の誕生
三年後、遼東の地は、流民たちの流入によって、かつてない活気に満ち溢れていた。新たな農地が切り開かれ、漢人の技術が導入され、生産力は飛躍的に向上した。慕容部は、もはや単なる鮮卑の一部族ではなく、この遼東における確固たる一大勢力となっていた。
ある日の評定の場。重臣たちが集まる中、慕容廆は静かに口を開いた。
「皆の者よ、西晋の乱は一向に収まる気配がない。この遼東の地は、もはや我々慕容部が守り、発展させていく他ない」
重臣たちは、皆うなずいた。彼らの目には、慕容廆への揺るぎない信頼が宿っていた。
「そこでじゃ。わしは、自身を『大単于』と称することにした」
慕容廆の言葉に、場がどよめいた。「大単于」とは、北方民族における部族連合の盟主を意味する、極めて権威ある称号だ。それは、慕容部が、遼東における絶対的な支配者となることを宣言するに等しい。
慕容翰が、力強く立ち上がった。「おお、慕容廆様(ぼよう かい さま)! それこそが、この慕容部が目指すべき道! 我々は、あなた様を盟主として、この遼東を、揺るぎない王国とするのだ!」
劉賛も、興奮を隠せない様子で続いた。「大単于の御名は、きっと混乱する中原にも轟き、さらなる希望を求める人々(ひとびと)を、この地へと導くことでしょう!」
「うむ! その通りじゃ! この遼東を、乱世の光とするのだ!」
慕容廆の声は、堂々(どうどう)としていた。彼は、ただ力で民を従えるのではなく、その寛容な心と、未来を見据える眼しで、周囲の部族や漢人の流民たちを魅了していった。
こうして、慕容廆は「大単于」として、遼東の地に確固たる基盤を築き上げた。彼の理想は、やがて息子たちへと受け継がれ、この地の歴史を大きく動かしていくことになるのだ。
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遼東の地は、もはや西晋の支配が及ばぬ独立した王国のようだった。慕容廆が「大単于」を称えてから二年。彼の統治は安定し、棘城は活気に満ちていた。しかし、中原の混乱はさらに深まり、その波は遼東にも押し寄せようとしていた。
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太守の内紛
「慕容廆様(ぼよう かい さま)! 遼東太守の李寿が、配下の崔毖に反旗を翻されたとのこと!」
劉賛が慌ただしく評定の場に飛び込んできた。彼は日夜、中原の情勢に目を光らせていた。
慕容廆は、腕を組み、静かにその報告を聞いた。「ほう、ついに始まったか。西晋の支配が弱まるにつれ、あのような事態が起こるのは必然じゃろう」
「李寿と崔毖の間で、兵が衝突し、遼東郡内は混乱の極みにあります。民は恐怖に震え、治安は著しく悪化しております!」
劉賛は、眉間に深い皺を寄せた。西晋の役人が争えば、最も被害を受けるのはいつも罪なき民だ。
慕容廆は立ち上がり、その堂々(どうどう)たる体躯で劉賛を見下ろした。「ならば、我々が動く時じゃ! 劉賛よ、軍の準備をせよ! 慕容翰! お主は精鋭を率いて、直ちに遼東郡へ向かえ!」
慕容翰は、五胡十六国時代の鮮卑慕容部(後の前燕)の武将。慕容廆の庶長子である。(側室の子)で、異母弟に慕容皝がいる。
雄壮で豪放な性格で、優れた計略と並外れた腕力を持つ武勇に優れた人物だった。特に射術に秀で、重い弓を使いこなした。父の慕容廆の代から軍事面で活躍した。
慕容翰は、血気盛んな若者らしい覇気に満ちた声で応えた。「はっ! 父上! 暴れる者どもを鎮圧し、民を救い出すこと、この慕容翰にお任せください!」
「うむ! 決して私欲で争いに介入するのではない。あくまで、この遼東の治安と、民の命を守るためじゃ!」
慕容廆の言葉は、集まった重臣たちの心に強く響いた。彼らは、自らが慕容廆の寛容な統治の下でどれほど恩恵を受けてきたかを理解していたからだ。慕容翰率いる鮮卑慕容部の軍は、迅速に遼東郡へと進軍し、太守の内紛に巻き込まれていた民を保護しながら、秩序を回復させていった。
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永嘉の乱と新たな希望
その二年のち、さらに衝撃的な報せが遼東の地に届いた。西晋の都・洛陽が、異民族の手によって陥落したというのだ。「永嘉の乱」と呼ばれるこの大事件は、中原に住む漢人にとって、絶望の始まりだった。
「慕容廆様(ぼよう かい さま)! 洛陽が…! 洛陽が陥落しました!」
報告に駆けつけた兵士の顔は、蒼白だった。歴史上稀に見る大事件に、誰もが言葉を失った。
慕容廆は、静かに目を閉じた。彼の心には、西晋の衰退に対する深い悲しみと、来るべき大混乱への覚悟が去来していた。
「ついに…来たか」
彼はゆっくりと目を開け、そこに集まっていた重臣たち、そして劉賛に告げた。「中原は、地獄と化すじゃろう。多くの人々が、この遼東を目指して押し寄せるはずじゃ」
劉賛が不安げに尋ねた。「彼らを、全て受け入れるのですか? この地の資源には限りがございますが…」
慕容廆は、迷うことなく言い放った。「当然じゃ! 我々慕容部は、乱から逃れてきた者たちの、最後の希望となるのだ! 飢え死にさせるわけにはいかん!」
その言葉に、重臣たちは感銘を受けた。
「だが、ただ受け入れるだけではないぞ」
慕容廆は、続けて言った。「彼らの中には、多くの知恵を持った者、技術に長けた者もいるはずじゃ。特に、漢人の知識人たちを積極的に登用せよ。彼らの力を借りれば、この慕容部は、さらに強大な勢力となることができる!」
慕容翰が、力強く拳を握りしめた。「ははっ! その通りです、父上! 強いだけでは国は築けませぬ! 知恵と力、その両輪があってこそ、真の強国が生まれるですね!」
劉賛もまた、その言葉に深く感動した。「慕容廆様(ぼよう かい さま)の御英断、この劉賛、心より敬服いたします! 私が責任をもって、優秀な人材を発掘し、慕容部の発展に尽力いたします!」
こうして、西晋の滅亡という未曾有の危機は、慕容廆にとって、さらなる勢力拡大の好機となった。彼は、混乱の中、流民たちを温かく迎え入れ、その中から才能ある者を積極的に登用することで、慕容部を北方における揺るぎない大国へと成長させていったのだ。