名君の連鎖:慕容一族の覇業⑰
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夕闇が迫る中、後燕の大軍は、北魏に対する雪辱を果たすべく、勝利の余韻に浸りながら帰路についていた。しかし、その勝利の立役者である皇帝:慕容垂の容体は、日に日に悪化していた。先の激戦での無理が祟り、彼の老体は限界を迎えていたのだ。
輿に乗せられた慕容垂は、顔色を失い、呼吸も荒い。それでも、その瞳には、なおもかつての覇気が宿っていた。
「陛下! もう少しの辛抱でございます! 都の中山はもうすぐそこに!」
側近の一人が、心配そうに声をかけた。
慕容垂は、か細い声で答えた。
「うむ……この勝利は、後燕の、そして慕容の誇りを守るためのものだ。拓跋珪め、まさかこの慕容垂が、まだこれほどの力を秘めているとは思うまい。ざまあみろ、小僧め……」
彼はかすかに笑みを浮かべたが、その表情はすぐに苦痛に歪んだ。
「しかし……これほどとは……」
慕容垂は、深く息を吐き出した。その胸には、やり遂げたという満足感と、志半ばで倒れる悔しさがない交ぜになっていた。
「わしは……わしは、まだやるべきことが山ほどあるのだ……この華北を真に統一し、太平の世を築く。そして、あの苻堅殿の夢の続きを……この手で叶えるのだ……」
彼の言葉は途切れ途切れになり、意識が遠のいていくのがわかる。脳裏には、若き日の記憶が駆け巡る。父:慕容廆の寛容なまなざし、兄:慕容皝の野心、そして、共に戦場を駆け抜けた:慕容恪の豪快な笑い声。そして、自分を厚遇してくれた前秦の皇帝:苻堅の理想主義的な姿が……。
「ああ、慕容恪兄上!戻ってきたのですか。俺と兄上が組めば負けませぬぞ。さあ、北魏に攻め込みましょうぞ……」
「慕容垂様! しっかりなさいませ!」
「苻堅殿の……あの甘ちゃん皇帝の夢を叶えるのだ……」
慕容垂の息子であり、後燕の太子である:慕容宝が、輿の傍らに駆け寄り、その手を握った。慕容宝は、先の参合陂の敗戦で自らの不甲斐なさを痛感しており、父の勝利と病状悪化に、複雑な感情を抱いていた。
「宝よ……お前は……わしの意志を継ぎ、後燕を……」
慕容垂は、力を振り絞って語りかけようとするが、言葉が続かない。
「父上! どうか、ご無理をなさらないでください! 父上のことは、私が、私が必ずや……!」
慕容宝は、涙をこらえながら叫んだ。しかし、彼の気弱な性格を知る慕容垂は、その言葉に安堵することはない。
「いや……わしが望むのは……お前が……真の覇者となることだ……」
慕容垂の意識は、次第に薄れていく。彼の生涯は、戦乱の時代を駆け抜け、多くの血と涙を流してきた。前燕の皇族として生まれ、一時は亡命の身となりながらも、自らの手で後燕を建国し、華北に一大勢力を築き上げた。その自尊心と好戦的な性格が、彼を幾多の困難から救い、勝利へと導いてきた。
しかし、どんな強者にも、終わりは来る。
「老いぼれた……わけではない……」
慕容垂は、最後の力を振り絞ってつぶやいた。それは、拓跋珪への、そして自らへの、最期の意地だったのかもしれない。
そして、その言葉を最後に、慕容垂は静かに息を引き取った。享年七十一。
後燕の兵士たちは、勝利の喜びから一転、深い悲しみに包まれた。彼らにとって、慕容垂は、単なる皇帝以上の存在だった。彼の死は、後燕という国家の行く末に、暗い影を落とすことになる。
慕容垂の死後、後燕は急速に衰退の一途を辿ることになる。偉大な指導者を失った後燕は、その求心力を失い、周辺勢力との抗争に疲弊していく。そして、拓跋珪率いる北魏が、その勢力を拡大していくことになるのだ。
慕容垂の命をかけた最後の勝利は、後燕の輝かしい歴史の、最後の光芒となった。彼の死と共に、五胡十六国時代の様相は大きく変化していくのである。
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慕容垂の死、そして後燕の激動
396年(東晋・太元21年)の春、老皇帝:慕容垂は、北魏への雪辱を果たしたばかりの戦場から、疲弊しきった体で帰路についていた。勝利の代償はあまりにも大きく、彼の命の灯火は、今にも消えそうに揺らいでいた。彼の死後、後燕の歴史は、激しい下り坂を転がり落ちていくことになる。
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慕容宝の即位と不安な幕開け
慕容垂が帰還中に息を引き取ると、その息子である太子:慕容宝が即位した。しかし、彼の即位は、後燕に新たな混乱をもたらすこととなる。慕容宝は、父のような圧倒的な武勇も、戦略的な才能も持ち合わせていなかった。その気弱な性格は、すでに北魏の皇帝:拓跋珪にも見抜かれており、慕容垂の死によって、その弱点が露呈することになった。
「父上のような偉大な御方の跡を継ぐなど、私には……」
慕容宝は、即位の儀式を終えた後も、不安げな表情でため息をついた。
「太子殿下! いえ、陛下! 今は弱音を吐いている場合ではございませんぞ!」
側近の一人が、焦るように進言した。
「父上が命を懸けて勝ち取ったこの勝利を、無駄にするわけにはいきません! 今は、亡き陛下の意思を継ぎ、後燕を盤石なものとする時でございます!」
だが、慕容宝の心には、父の偉大さゆえの重圧と、自らの能力への自信のなさがのしかかっていた。
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北魏の台頭と後燕の衰退
慕容垂が築き上げた強大な後燕は、彼の死と共にその輝きを失い始める。最大の脅威となったのは、やはり北魏であった。拓跋珪は、慕容垂の死を聞くと、再び後燕への侵攻を開始する。彼は、かつての後燕の強さが慕容垂という個人に依存していたことを見抜いていたのだ。
「フン! 慕容垂め、ようやくくたばったか!」
拓跋珪は、居丈高に言い放った。
「あの老いぼれがいたからこそ、我々は手を焼いたが、これで何も恐れるものはない! 慕容宝など、赤子同然! 今こそ、華北の覇権は、我ら北魏の手に落ちるのだ!」
拓跋珪の言葉通り、北魏の攻勢は苛烈を極めた。慕容宝は、父のような指揮能力を発揮できず、後燕軍は連戦連敗を喫する。かつての大帝国は、瞬く間に領土を失い、国力は疲弊していく。
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内乱と分裂:慕容徳の独立
追い打ちをかけるように、後燕では内部での争いも勃発する。慕容垂の弟であり、慕容宝の叔父にあたる慕容徳は、後燕の混迷を見限り、自らの勢力を築くべく独立を決意する。彼は398年(東晋・隆安2年)に南燕を建国し、後燕の領土はさらに縮小された。
「兄上の築き上げた後燕が、これほどまでに脆いとは……宝め、やはり器ではない!」
慕容徳は、苛立ちを隠せない。
「このままでは、慕容一族の血が途絶えてしまう! わしが、わしが新たな国を興し、慕容の血統を守ってみせる!」
彼の決断は、後燕をさらに窮地へと追い込むことになった。
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後燕の滅亡
慕容垂の死からわずか数年で、後燕はかつての面影を失い、弱体化の一途を辿った。内憂と外患に苦しめられ、最終的には407年(東晋・義熙3年)に、北魏の猛攻と内部の反乱によって滅亡する。慕容垂が命を懸けて築き上げた後燕の栄華は、彼の死と共に、あっという間に幕を閉じたのである。
慕容垂の死は、まさに後燕の運命を決定づける転換点だったと言えるだろう。彼の並外れた統率力と軍才が失われたことで、後燕は、五胡十六国時代という激動の時代を乗り越えることができず、歴史の舞台から姿を消していくことになった。
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ここは、黄泉という場所
黄泉とは、古代中国で最も古くから信じられていた死者の世界。地下にあると考えられ、死者の魂が安らかに眠る場所とされていた。
黄泉の中につくられた、龍城と名付けられた広間。慕容氏系の王朝の都としても使われた龍城とそっくりな場所だった。
そこには、慕容一族の長たちが集まっていた。彼らの顔には、この地に確固たる礎を築き上げてきた誇り(ほこり)と、未来への希望が満ち溢れていた。
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「まさか、ここまで来るとはな」と、最長老の慕容廆が、感慨深げに目を細めた。その声には、遠い昔、鮮卑慕容部の部族長として、流浪の日々を送っていた頃の記憶が滲んでいるようだった。
「父上が混乱する中国から漢人たちを保護し、彼らの知識と文化を導入してくださったおかげじゃ」と、慕容皝が力強く(ちからづよく)応えた。「あの内政の整備があってこそ、今の我々があるのだぜ!」
その言葉に、慕容廆は満足げに頷いた。「うむ、お前はよくやってくれた。宇文部や高句麗との戦いでは、幾度となく窮地を救ってくれたものじゃ。そして、燕王を称し、前燕を建国した功績は、誰にも否定できまい」
広間の奥で、冷静沈着な眼差しを向けていた慕容儁が口を開いた。「父上の偉業があってこそ、我々(われわれ)は中原に進出し、皇帝を称することができたのである。後趙の混乱を衝き、冉閔を滅ぼした戦いは、まさに天の時を得たものであった」
「そうですよ、兄上!」と、豪快な笑い声を響かせたのは、前燕の守護神とも呼ばれた名将、慕容恪だ。「冉閔との『廉台の戦い』では、連環馬の奇策が図に当たりましたね!あの勝利こそが、前燕の覇権を確立したのです!」
その隣で、自尊心の強い顔つきの慕容垂が頷いた。「思えば、わしが前秦に亡命した時はどうなることかと思ったが、淝水の戦い(たたかい)の混乱に乗じて後燕を建国できたのは、天の助け(たすけ)としか言いようがない」
「あの時の父上は、本当に(ほんとうに)すごかった!」と、慕容宝が瞳を輝かせた。「北魏の拓跋珪をコテンパンにやっつけた戦いは、語り草になることでしょう!」
慕容垂は、息子の言葉に満足げ(まんぞくげ)な笑みを浮かべた。「うむ、あの拓跋珪め、わしが老いぼれたと侮っていたようだが、まだまだわしの力は衰えておらぬわ!」
広間に笑い声が響き渡る中、慕容廆は再び(ふたたび)口を開いた。「わしは流民を保護し、劉賛のような漢人の知識人を登用した。そして、お前たちは、その基盤の上に、それぞれの才覚を存分に発揮し、この慕容一族を大いなる高み(たかみ)へと導いてくれた」
慕容皝が腕を組みながら言った。「慕容翰の武勇も、慕容仁の遼東での奮闘も、全て(すべて)がこの覇業に繋がっているのだぜ」
「そうであるな」と慕容儁が続けた。「我々(われわれ)は、ただ力で支配するだけでなく、文化を取り入れ、秩序を重ん(おもん)じてきた。それが、この慕容一族の強みである」
慕容恪が熱い眼差しで皆を見渡した。「どんな困難にも立ち向かい(むかい)、決して(けっして)諦めなかった。それが、慕容の血なのだ!」
そして、慕容垂が静かに言葉を継いだ。「わしは前秦の苻堅に一度は仕えたが、最終的には自立の道を選んだ。それは、慕容一族の血が、いつの時代も自由と独立を求めていたからであろう」
慕容徳が静かに(しずかに)言葉を継いだ。「南燕はわずかな期間で滅亡したけれど、その志は、きっとこの一族の誇りとして語り継がれていくことだろう」
広間に集まった慕容一族の面々(めんめん)は、それぞれの時代に生き、それぞれの戦いを繰り広げた。だが、彼らの胸には、共通の信念が宿っていた。それは、慕容の血に流れる、大いなる覇業への熱い想い(おもい)だった。
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この一族の物語は、混迷の時代を力強く(ちからづよく)生き抜いた、名君たちの連鎖そのものだった。彼らが築き(きずき)上げた歴史は、未来永劫、語り継がれていくことだろう。