名君の連鎖:慕容一族の覇業⑬
〇
華北を統一した前秦の皇帝、苻堅は、中華全土の統一という壮大な夢の実現に邁進していた。しかし、その道は平坦ではなかった。名宰相王猛が残した「異民族を排除せよ」という遺言に反し、苻堅は多民族国家の建設を目指していたのだ。
このため、前秦の構成は多様な民族から成っていた。主要な民族は以下の通りである。
________________________________
氐族
前秦の建国者である苻氏は氐族であり、前秦の中心をなす民族であった。彼らはチベット系の北方民族とされている。
________________________________
漢族
華北には多くの漢人が居住しており、前秦の支配下に入ると、彼らも重要な構成要素となった。王猛のような漢人の宰相を重用したことからも、漢族の存在が不可欠であったことが窺える。
________________________________
匈奴族
古代中国の北方遊牧民族で、「五胡」の一つに数えられる。前秦の支配下に入った匈奴も、その住民の一部分として組み込まれていた。
________________________________
鮮卑族
北方系の遊牧民族で、「五胡」の一つである。前秦は華北統一の過程で、鮮卑族が建てた前燕などを滅ぼしており、多くの鮮卑族が前秦の支配下に入った。
________________________________
羌族
チベット系の北方民族で、「五胡」の一つである。彼らもまた、前秦の勢力拡大に伴い、その統治下に入った。
________________________________
苻堅は、これらの多様な民族を融和させ、差別なく登用することで、新たな「中華世界」を築こうとした。彼は征服した民族の君主や有力者を厚遇し、都の周辺に移住させて重用する一方で、自身の民族である氐族を新たに支配領域となった地域に移住させるなど、意図的な民族融合政策を推進した。しかし、この政策は、淝水の戦いでの大敗後、各民族の自立の動きを再燃させ、前秦の急速な崩壊へと繋がることとなった。
________________________________
強制移住の波
西暦380年。華北統一を成し遂げた苻堅は、その支配をより盤石なものにするため、大胆な政策を打ち出した。それは、各民族を強制的に移住させるというものだった。広大な国土の隅々から、さまざまな民族の人々が故郷を追われ、新しい土地へと送られていった。
長安の宮殿では、苻堅が群臣を集め、自らの理想を熱弁していた。
「朕の夢は、あらゆる民族が手を取り合い、共に栄える統一国家を築き上げることだ! そのためには、一時的な混乱は避けられぬ。だが、これこそが、未来への礎となるのだ!」
しかし、その場に居た慕容垂は、複雑な面持ちでその言葉を聞いていた。彼自身が属する鮮卑族もまた、強制移住の対象となっていたのだ。慕容垂の耳には、故郷を追われた民の悲鳴が届いているようだった。
ある日、慕容垂は、同族の将と酒を酌み交していた。
「慕容垂様、我々(われわれ)鮮卑の民が、まさか故郷を追われることになろうとは……」
将は、苦しげに顔を歪めた。
慕容垂は、静かに杯を置いた。
「これも、陛下の理想のため……。だが、自尊心の強い我々(われわれ)にとって、この扱いは看過できるものではない」
「しかし、陛下は慕容垂様を厚遇しておられます。それがしらには、口を挟む術もございません」
将の言葉に、慕容垂は鋭い視線を向けた。
「ふむ……だが、陛下の理想は、果たして(はたして)この中華の地に根付くものなのか。王猛の遺言を軽んじた報いは、いつか必ず(かならず)訪れるだろう」
________________________________
反乱の萌芽
各地で進められる強制移住は、民の不満を募らせていった。同年、苻堅の親族である苻洛が反乱を起こした。
「苻堅の理想など、絵空事に過ぎぬ! 民は疲弊し、不満が渦巻いているのだ! 我々(われわれ)が、この混乱を収めてみせる!」
苻洛の叫びは、瞬く間に各地に広がった。しかし、苻堅は素早く軍を派遣し、この反乱を鎮圧した。
反乱鎮圧後、苻堅は慕容垂を呼び出した。
「慕容垂よ。見たか、この愚かなる反逆者どもを! 朕の理想を理解できぬ者が多すぎる!」
苻堅の声には、いらだちが滲んでいた。
慕容垂は、深々(ふかぶか)と頭を下げた。
「陛下の御高邁なる理想は、凡庸な民には届きにくいのでしょう。しかし、ご安心ください。私が、陛下の剣となり、邪魔者はすべて斬り捨てましょう」
慕容垂の言葉は、苻堅を安心させた。しかし、彼の心の中では、故郷を追われた同胞への同情と、苻堅の理想主義への疑念が渦巻いていた。
「陛下の理想は、あまりにも純粋すぎる。この乱世にあって、力なくして何が成し得ようか……。いつか、この力を、私が欲するままに振う時が来るだろう」
慕容垂は、静かにそう呟いた。彼の心の中で、前秦への忠誠と、自らの野望が、複雑に絡み合い始めていた。
この強制移住政策と、それによって生まれた不満の種は、やがて前秦を大きな混乱へと導くことになる。そして、その混乱の中で、慕容垂は、自らの道を歩み始めるのだ。
〇
前秦の皇帝、苻堅の心は、中華の統一という大きな夢で満ちていた。華北をその手に収めた今、次なる目標はただ一つ。南に割拠する東晋を打ち破り、天下を一つにすることだ。しかし、その壮大な計画には、多くの反対者がいた。
________________________________
中華統一への号令
西暦381年。苻堅は、宮殿の広間に全ての重臣たちを集めていた。彼の目は輝き、その声には揺るぎない決意が宿っていた。
「諸君! 朕の夢は、この天下に真の平和をもたらすことである! そのためには、東晋を打ち、中華を統一せねばならぬ! 今日より、大規模な兵力の動員を開始する! 東晋への遠征準備を、速やかに進めよ!」
しかし、広間の空気は重かった。多くの臣下が、不安と懸念の表情を浮かべている。彼らは、かつて名宰相王猛が遺した「東晋を攻めてはならぬ」という遺言を思い出していたのだ。
そんな中、ひときわ異彩を放つ男がいた。かつて前燕の皇族であり、今は前秦の将軍として、苻堅に仕える慕容垂である。彼は、不敵な笑みを浮かべ、前へと進み出た。
「陛下! 誠に畏れながら、私は陛下の御決断に、心より賛成いたします!」
慕容垂の声は、広間に響き渡った。反対派の臣下たちが、驚きの目で彼を見つめる。
「慕容垂よ! 貴様は、朕の心をよく理解している!」
苻堅は、満足げに慕容垂を見た。
________________________________
好戦的な扇動者
会議の後、何人かの重臣が慕容垂のもとに集まってきた。
「慕容垂殿! なぜ陛下の南伐に賛成なされるのですか? 王猛様の遺言に背くことになりましょう!」
ある文官が、心配そうに尋ねた。
慕容垂は、フッと笑った。その目には、好戦的な光が宿っている。
「王猛殿の遺言は、彼の時代には正しかったかもしれません。しかし、時代は移ろい、状況も変わる。今や、この華北は我々(われわれ)の支配下にある。東晋など、もはや恐るるに足りません!」
「しかし、無理な遠征は、国力を疲弊させ、民を苦しめますぞ!」
別の武将が、熱く訴えた。
慕容垂は、肩をすくめた。
「ふん。何を(なにを)言うか! 国の力は、戦によってこそ示されるもの! 怯える将など、戦場で何の役にも立たぬ!」
彼の言葉は、周囲の者たちを圧倒する。
「この天下に、武力なくして、誰が真の王となれるのか? 陛下の理想は、力があってこそ実現するのだ! 東晋の軟弱な連中に、我々の強大さを見せつけてやる絶好の機会ではないか!」
慕容垂は、まるで苻堅を煽るかのように、さらに言葉を続けた。彼の好戦的な態度は、苻堅の決意を一層強固なものにするかのように見えた。
________________________________
渦巻く思惑
苻堅の号令の下、前秦の各地で大規模な兵力の動員が始まった。膨大な物資と人手が投入され、東晋への遠征が着々と進められる。反対の声も根強かったが、苻堅の決意は揺るがず、慕容垂のような好戦派の意見が彼をさらに煽り立てた。
しかし、慕容垂の心の中には、単なる忠誠心だけではない、複雑な思惑が渦巻いていた。彼は、理想主義に傾倒する苻堅の政策に、少なからぬ不満を抱いていた。特に、彼の属する鮮卑族が強制移住の対象となったことは、彼の自尊心を深く(ふかく)傷つけ(きずつけ)ていた。
(このままでは、前秦は、いつか破綻する。陛下の理想は、あまりにも脆い。ならば、この大戦が、私の次なる一手を打つ機会となるだろう……)
慕容垂は、心の中で密かに呟いた。彼は、前秦の強大な軍事力を利用し、その中で自らの地位を確立しようと目論んでいたのだ。
中華統一という壮大な目標に向かって突き進む苻堅。その傍らで、虎視眈々(こしたんたん)と機を伺う慕容垂。大戦の幕が、まさに開かれようとしていた。
〇
前秦の皇帝、苻堅が全中華の統一を夢見て、百万とも言われる大軍を率い、東晋へ南下したのは、西暦383年のことだった。しかし、その結果は、誰もが予想しなかった大敗、「淝水の戦い(たたかい)」として歴史に刻まれることになる。
________________________________
淝水の悪夢
静かな冬の夜。前秦の大軍が陣を張る淝水の畔は、異様な静寂に包まれていた。しかし、その静寂は、やがて地獄の幕開けを告げることになる。
「敵は弱兵ぞ! 一気に攻め立て(たて)よ!」
苻堅の声が、夜空に響き渡る。しかし、大軍ゆえの混乱と、東晋の巧みな心理戦によって、前秦軍は総崩れとなった。敗走する兵たちは、味方同士で踏みつけ合い、河は血で赤く染まった。
その混乱の中、慕容垂は冷静だった。彼は自軍の兵をまと(まと)め、追撃してくる東晋軍を巧みにかわしながら、戦場を離脱していった。
「慕容垂様! 我々は、一体どうすれば……」
疲れ果てた将兵の一人が、慕容垂に縋るように言った。
慕容垂は、冷たい視線で、広大な戦場を見下していた。
「見ろ! これが、理想主義に溺れた者の末路だ! 陛下の夢は、この濁流に飲み込まれたのだ!」
彼の声には、怒りと、そしてどこか冷ややかな計算が混り合っていた。
「今は、ただ無事に帰還することのみを考えよ! 東晋の追撃は熾烈だ。しかし、この慕容垂がいる限り、お前たちを死なせはしない!」
慕容垂の言葉は、兵たちの心に、僅かながら希望の光を灯した。彼は、見事に東晋軍の追撃をかわし、無事に部隊を帰還させたのだった。
________________________________
新たな時代の幕開け
翌384年。淝水の戦い(たたかい)の大敗は、前秦に大きな混乱をもたらした。各地で反乱が勃発し、かつての強大な帝国は、まるで砂でできた城のように崩れ去ろうとしていた。
この機を逃す慕容垂ではなかった。彼は河北の地で、自立を宣言した。
「諸君! 長きに渡り、我々(われわれ)鮮卑族は、他の民族の支配の下で耐え忍んできた! しかし、もうそれも終わりだ! 苻堅の理想は潰え、この地は混迷の淵にある!」
慕容垂は、集まった将兵たちに、力強く語りかけた。彼の言葉には、彼が長年培ってきた自尊心と、新たな時代を築き上げようとする熱意が満ちていた。
「今こそ、我々(われわれ)鮮卑が天下に覇を唱える時だ! 我々(われわれ)は、この地に新たな国を建てる! その名は、後燕! 中山を都とし、ここから中華の再統一を目指すのだ!」
将兵たちは、慕容垂の力強い言葉に呼応し、雄叫びを上げた。
「後燕万歳! 慕容垂様万歳!」
彼らの声は、河北の空に響き渡り、新たな王朝の誕生を告げていた。慕容垂の目には、好戦的な光が宿り、次なる戦への渇望が垣間見えた。
彼は、自らの手で、時代を動かそうとしていた。そして、その道は、血と炎に彩られるであろうことを、彼自身もよく知っていたのだ。
淝水の戦い(たたかい)での敗北は、前秦にとって致命的な打撃となりました。しかし、それは慕容垂にとって、長年温めてきた野望を実現する絶好の機会となったのです。彼の建国した後燕は、これからどのような歴史を歩んでいくのでしょうか?