名君の連鎖:慕容一族の覇業⑫
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嵐が吹き荒れるような時代、中華の大地は群雄が割拠し、血と硝煙の匂いが満ちていた。そんな中、前秦の皇帝、苻堅は、中華統一という壮大な夢を抱いていた。彼の傍には、その夢を支える名宰相、王猛がいた。
王猛は前秦の宰相として、類稀なる政治・軍事の手腕を発揮した。彼は綱紀粛正を徹底し、貴族や官僚の不正を厳しく取り締まることで、腐敗した政治を刷新した。また、農耕を奨励し、道路を整備するなど内政を充実させ、民衆の生活を安定させた。
軍事面では、苻堅の華北統一事業を強力に推進し、376年には前涼を滅ぼし、さらに代を滅ぼすことで、五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した。これにより前秦は全盛期を迎え、その威光は高句麗や新羅にまで及んだ。王猛の功績は、苻堅が中国統一を夢見る礎となった。
しかし、歴史の歯車は残酷に回る。西暦375年、前秦の宮城に、重い空気が垂れ込めていた。季節は冬、雪が音もなく降り積もる中、病に伏していた王猛は、その命の灯火を消そうとしていた。
「陛下……どうか、この老骨の最後の言葉を……」
王猛の声は、か細く、しかし確かな響きを持っていた。枕元に座る苻堅は、痛ましげにその手を握った。
「王よ、何を言うか。そなたはまだ、わしと共に中華の世を見るのだぞ」
苻堅の目には、涙がにじんでいた。王猛は静かに首を振った。
「もはや、時間がありませぬ……。私が逝けば、陛下はきっと、中華統一の道を急がれるでしょう……。しかし、決して、焦ってはなりませぬ」
王猛は、深く息を吸い込み、遺言を紡ぎ出した。
「東晋を攻めてはなりませぬ。彼らはまだ力を持っております。それに……鮮卑や羌などの異民族は……排除するべきでございます……」
その言葉に、苻堅は微かに眉根を寄せた。苻堅は、異民族をも含めた大いなる中華の統一を夢見ていたからだ。しかし、王猛は止まらなかった。
「そして……慕容垂を……殺しなさい……」
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。慕容垂は、前燕の皇族でありながら前秦に亡命してきた男だ。その武勇と人望は群を抜いていた。苻堅は彼を厚遇し、大いなる期待を寄せていた。
「な、何を言うのだ、王! 慕容垂は、わしが信頼する将ではないか!」
苻堅は思わず声を荒げた。
「陛下! 彼は強すぎます! 人望も高すぎる! いずれ、陛下の脅威となるでしょう……! どうか……どうか、私の言葉を……お聞き入れ下さい……」
王猛の目は、すでに遠くを見つめていた。その手から、すっと力が抜けていく。
「王! 王猛!」
苻堅の悲痛な叫びが、静かな宮城に響き渡った。しかし、王猛の命は、静かに消えていった。
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王猛が亡くなり、数日後。雪は止み、冷たい風が吹き荒れる廊下を、慕容垂と苻堅が歩いていた。
「宰相の王猛殿が亡くなられ、陛下の悲しみは如何ばかりかと、お察しいたします」
慕容垂が、穏やかな口調で言った。
「うむ……王猛は、わしにとってかけがえのない存在であった……」
苻堅は、遠い目をして答えた。その言葉の裏には、王猛の遺言をどうするべきか、という葛藤が隠されていた。
「しかし、嘆いてばかりもいられませんな。中華統一の夢は、まだ道半ば。我々が、陛下の夢を実現せねばなりますまい!」
慕容垂の声には、力強さと熱がこもっていた。その言葉は、苻堅の心に響いた。
「そうだ……そうだ! 王猛の遺志を継ぎ、わしは中華統一の夢を果たさねばならぬ!」
苻堅の顔に、決意の光が宿った。王猛の遺言――東晋を攻めるな、異民族を排除せよ、慕容垂を殺せ――その全て(すべて)に逆らうかのように、苻堅は中華統一への道を急ぐ決意を固めていく。
慕容垂は、そんな苻堅の姿を満足げに見ていた。彼の瞳の奥には、自らの野望の炎が静かに燃え盛っていた。
王猛の死は、前秦と苻堅の運命を大きく変える転換点となった。理想を追い求める皇帝と、野心を秘めた将軍。二人の思惑が交錯する中、中華の歴史は、新たな章へと突入していくのだった。
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かつて名宰相王猛を失った前秦の皇帝、苻堅は、その悲しみを乗り越え、中華統一という大いなる夢へと駆り立てられていた。彼の傍には、前燕から亡命してきた稀代の将軍、慕容垂がいた。彼の才と人望は、時に苻堅を悩ませるほどだったが、その強さは何物にも代えがたい力でもあった。
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華北統一への道
西暦376年、中華の広大な大地は、前秦の勢力によって次々と呑み込まれていった。残すところは、西の果て、涼州に位置する前涼のみとなっていた。
前涼とは、漢の血を引く張氏によって建てられた国だ。乱世の中にあって、彼らは周辺の異民族を従え、独自の文化を育んでいた。儒教の教えを重んじ、学問を奨励し、まるで別世界のように安定した統治を誇っていたのだ。しかし、その平和も、苻堅の中華統一の夢の前には、立ち塞がる壁でしかなかった。
苻堅の命を受け、慕容垂は前涼征伐の軍を率いた。荒々しい戦が続く中、ある日、慕容垂は麾下の将たちを集め、檄を飛ばした。
「おい、お前たち! いいか、ここは西の果てだ! 前涼なぞ、さっさと平定してやるぞ!」
慕容垂の声は、軍営に響き渡った。将軍の一人が、興奮した様子で答える。
「へい! 慕容垂様の指揮があれば、どんな敵も恐るるに足りません!」
別の将も続く。
「前涼の奴ら、漢の伝統を重んじてるらしいじゃねぇか! 俺たちの力を見せてやるぜ!」
慕容垂は満足げに頷いた。
「そうだ! 愚かな王猛は、異民族を排除せよなどと言い残したが、この世は力こそがすべて! 弱い奴は潰されるだけだ!」
彼の目には、好戦的な光が宿っていた。
「前涼の民は、まっとうな漢人と聞きますが、彼らをどう扱うのですか?」
若い将が、恐る恐る尋ねた。慕容垂はにやりと笑った。
「怯むな、若造! 陛下の理想は、すべての民族を包摂する中華だ。だが、そのためには、まず統一が必要だ。大人しく従えば、温情もかけよう。だが、逆えば、容赦はせん!」
慕容垂の言葉は、将たちの心に火をつけた。
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華北統一の達成
慕容垂率いる前秦軍の猛攻の前に、前涼は為す術もなく崩壊した。わずか数ヶ月で、前涼の地は前秦の版図に組み込まれた。
この瞬間、北の地には、前秦以外に独立した勢力は存在しなくなった。西暦376年、苻堅はついに華北の統一を成し遂げたのだ。
長安の宮殿では、凱旋した慕容垂を苻堅が大きな笑顔で迎えた。
「慕容垂よ! よくやってくれた! そなたのおかげで、ついに華北は一つになったぞ!」
苻堅は慕容垂の手を力強く握りしめた。
「陛下の偉大なる御力あってこそです。これからは、真の中華統一へ向けて、更なる飛躍を致しましょう!」
慕容垂の瞳は、野心の炎を燃やしていた。王猛の遺言を退け、理想を追い求める苻堅。そして、その理想を巧みに利用しながら、自らの存在感を高めていく慕容垂。
華北を統一した前秦は、次なる目標、東晋との全面対決へと向かうことになる。しかし、この統一の裏で、既に次なる動乱の種が蒔かれていたことを、彼らはまだ知る由もなかった。
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華北を統一した前秦の皇帝、苻堅は、中華全土の統一という大きな夢に燃えていた。その視線は、南に位置する東晋へと向けられていた。しかし、焦りは禁物。大戦の前には、まず敵の力量を測る必要がある。
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襄陽攻防
西暦378年、苻堅は庶長子である苻丕に命じ、東晋の重要拠点である襄陽を攻撃させた。この戦は、東晋の防衛力を探るための「前哨戦」だ。もし、ここを落とせれば、次なる大規模な侵攻への足がかりとなる。
当然のように、稀代の将軍、慕容垂もこの遠征に同行していた。襄陽の城壁を前に、苻丕と慕容垂が陣中で言葉を交していた。
「父上は、この襄陽が、東晋の心臓に近い要衝だと仰った。だが、まさかこれほどの堅城とはな!」
苻丕が、険しい顔で城を見上げた。
慕容垂は、フッと笑った。
「堅城であればこそ、攻め甲斐があるというもの。それに、我々の真の狙いは、この城だけではない。東晋の底力を見極めること。それこそが、陛下の御意図でしょう?」
「うむ……」
苻丕は頷いた。慕容垂の言葉には、常に深い洞察力があった。
「あの東晋の将どもは、我々(われわれ)を軽んじている。ならば、力でその鼻を明してやるまでだ!」
慕容垂の目には、好戦的な光が宿っていた。
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襄陽陥落、そして……
襄陽は、中華人民共和国湖北省北西部に位置する歴史ある都市である。漢水(かんすい、長江最大の支流である漢江)の南岸に位置し、対岸の樊城と合わせて「襄樊」とも呼ばれていたが、2010年に現在の襄陽市に改称された。
襄陽は、漢水の重要な内陸河川港であり、華北から揚子江中流域へ抜ける交通の要衝に位置する。三方を水に囲まれ、一方は山に面しているため、古来より防御が容易であり、戦略的に極めて重要な拠点であった。このため、中国史において数々(かずかず)の激しい争奪戦が繰り広げられてきた。特に南北が分断されていた時代には、中国統一を巡る争いの要衝として「天下第一城池」とも称された。
襄陽の歴史は古く、紀元前201年には城の建築が開始されている。三国志の時代には、魏、呉、蜀のいずれにとっても重要な拠点となり、多くの有名な戦いの舞台となった。例えば、孫堅と劉表が戦った「襄陽の戦い」や、関羽が魏の曹仁と戦った「樊城の戦い」などが著名である。また、諸葛亮が隠棲していた「隆中」も襄陽に位置し、劉備が彼を三顧の礼で迎えた地としても知られている。
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襄陽包囲戦は一年にも及んだ。東晋の将軍、朱序はよく戦ったが、前秦の圧倒的な物量と、慕容垂の巧みな戦術の前に、ついに襄陽は陥落した。
西暦379年、朱序は捕虜となり、前秦の兵士たちが歓声を上げた。その報告は、遠く離れた長安の苻堅のもとにも届き、彼を喜ばせた。
「やったぞ! ついに襄陽を落としたか! これで東晋も手玉に取れる!」
苻堅は高らかに笑った。
しかし、喜び(よろこび)も束の間。苻丕率いる前秦軍は、襄陽陥落の勢いを駆って、東晋の都、建康へ向けて進撃を開始した。だが、そこで彼らを待っていたのは、東晋の若き(わかき)将軍、謝玄の激しい反撃だった。
謝玄の軍は、前秦の圧倒的な兵力にも怯まず、巧みな戦術でこれを迎え撃った。苻丕の軍は思わぬ苦戦を強いられ、ついには撤退を余儀なくされたのだ。慕容垂もまた、この敗戦を経験することになった。
長安の宮殿に、敗戦の報が届いた時、苻堅は怒りに震えた。
「な、なんだと! 襄陽は落としたというのに、建康へは届かなかっただと!?」
報告に来た(きた)将軍は、震える声で答えた。
「は、ははっ! 東晋の謝玄め、予想外の奮戦で……」
「言い訳は聞かぬ! 慕容垂はどうした! 彼がいたというのに、なぜ敗れたのだ!」
苻堅の声が響き渡る。その時、部屋の外から慕容垂の声がした。
「陛下、私も至らぬ点がございました」
慕容垂が部屋に入ってきた。その顔には、悔しさが滲んでいた。
「慕容垂よ……! そなたほどの将がいて、なぜ建康を落とせなんだ!」
苻堅は慕容垂に迫った。
「陛下。東晋は、我々(われわれ)が思うより、強固な国でございました。彼らの防衛は堅く、将の士気も高い。しかし、それゆえに、私の武人としての血が滾るのです!」
慕容垂の言葉には、敗戦の悔しさの中にも、次なる戦への意欲が漲っていた。
「くっ……だが、このままでは済まぬぞ! いずれ、東晋を力でねじ伏せて、真の中華統一を成し遂げてやる!」
苻堅は、固く拳を握りしめた。王猛の遺言を退け、理想を追い求める苻堅の決意は、この敗戦によって、一層強固なものとなった。
襄陽での戦は、前秦にとって、東晋の底力を知る厳しい経験となった。しかし、その経験が、逆に苻堅の中華統一への執念を燃え上が(あが)らせることになったのだ。