表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/17

名君の連鎖:慕容一族の覇業⑪

前燕ぜんえんを滅ぼした慕容垂ぼようすいは、前秦ぜんしんの将軍として各地の戦に従軍し、その才覚さいかく遺憾いかんなく発揮していた。彼の武功ぶこうは、前秦ぜんしん皇帝こうてい苻堅ふけん統一とういつ事業じぎょうに大きく貢献し、慕容垂ぼようすい自身も、新たな地で得た信頼と名声に充実感を覚えていた。

________________________________


皇帝苻堅ふけん壮大そうだいゆめ


372年、東晋とうしん寧康ねいこう元年、前秦ぜんしん建元けんげん8年。ある晴れた日の午後、慕容垂ぼようすい長安ちょうあん宮殿きゅうでんに招かれた。皇帝苻堅ふけんが、慕容垂ぼようすいと二人きりで話したい、と申し出たのだ。


慕容垂ぼようすいよ、今日はけんゆめを聞いてほしい」


苻堅ふけんは、いつになく真剣しんけん眼差まなざしで慕容垂ぼようすいを見つめた。慕容垂ぼようすいは、姿勢しせいを正して耳を傾けた。


陛下へいかの夢にございますか? この慕容垂ぼようすいつつしんで拝聴はいちょういたします」


苻堅ふけんは、広大な地図を広げ、指でゆっくりとそこをなぞった。


「見てくれ、この天下てんかを。かん時代じだいから、幾度いくどとなく争いが繰り返されてきた。民族みんぞくが互い(たがい)ににくみ合い、を流し続けてきたのだ。だが、けんはそうはしたくない」


彼の言葉には、単なる征服欲せいふくよくではない、深い思いが込められていた。


「この地に住まう全てのたみ漢人かんじんも、我々(われわれ)氐族ていぞくも、きょうも、匈奴きょうども、そしてそなたの鮮卑せんぴも、みな兄弟きょうだいとして手を取り合い、一つの国を築き上げる。それが、けん理想りそうなのだ!」


苻堅ふけんの声は、情熱じょうねつに満ちていた。彼は立ち上がり、窓の外の広がる長安の街を指差した。


「それぞれの民族が持つ優れた文化ぶんか知恵ちえを一つに合わせ、誰もが安心して暮らせるつくる。互いに認め合い、助け合い、高め合う。そんな、かつて誰も成しげられなかったまこと中華ちゅうか統一とういつを、けんは夢見ているのだ!」


苻堅ふけんは、慕容垂ぼようすいの顔を真っ直ぐに見つめた。


「そなたは、武勇ぶゆうすぐれ、ぐんひきいるさい天下一品てんかいっぴん。だが、それだけではない。そなたには、人を惹きつける魅力みりょくがある。だからこそ、前燕ぜんえん連中れんちゅうはそなたを恐れ、排斥はいせきしたのだ。だが、けんは違う。そなたのちからを、この理想りそう実現じつげんのために使ってほしい!」


苻堅ふけんの言葉は、慕容垂ぼようすいの心に、これまで感じたことのない衝撃しょうげきを与えた。彼の目には、かつての慕容恪ぼようかくが持っていた、純粋じゅんすい高邁こうまい理想りそうの輝き(かがやき)が宿っていた。


________________________________


慕容垂ぼようすい胸中きょうちゅう


慕容垂ぼようすいは、しばし沈黙ちんもくした。自尊心じそんしんが強く、好戦的こうせんてきな彼にとって、苻堅ふけん理想主義りそうしゅぎは、一見いっけんするとあまいものに思えた。だが、その甘さの中には、計り知れないスケールと、人を動かすちからがあった。


「…陛下へいか


慕容垂ぼようすいは、ゆっくりと口を開いた。


率直そっちょくに申し上げれば、陛下へいかのお考えは、あまりにも理想的りそうてきで、夢物語ゆめものがたりのように聞こえます」


苻堅ふけんは、静かに慕容垂ぼようすいの言葉を聞いていた。


「この乱世らんせいにあって、民族みんぞくが手を取り合うなど、これまで誰も成しなかったこと。あらそいが繰り返されるのが、人のつねだと思っておりました」


慕容垂ぼようすいは、顔を上げて苻堅ふけんを見た。彼の目は、ゆららぎながらも、どこか期待きたいを宿していた。


「ですが…陛下へいかのお言葉には、確かなひびきがあります。これほどまでに壮大そうだいゆめを語るお方は、他に知りません。もし、陛下へいかのその理想りそう現実げんじつのものとなれば、それは歴史れきしを塗り替える偉業いぎょうとなるでしょう」


そして、慕容垂ぼようすいの口から、本音ほんねれた。


正直しょうじきなところ…おれには、陛下へいかは『理想主義りそうしゅぎあまちゃん皇帝こうていだな』と、そう思えましたよ」


慕容垂ぼようすいの言葉に、苻堅ふけんは思わずわらった。


「はっはっは! 流石さすが慕容垂ぼようすい! いつわりのない言葉ことば、実に心地よいわ!」


慕容垂ぼようすいも、小さく笑みを浮かべた。彼の胸中には、新たな感情が芽生えていた。


「しかし…そのあまゆめを、この慕容垂ぼようすい武力ぶりょくかなえてみるのも、悪くねえな。いや、むしろ、俺の人生じんせいけるにあたいする、最高の夢かもしれねえ…!」


慕容垂ぼようすいの心に、苻堅ふけん壮大そうだいゆめが、静かに、だが確実かくじつに、り始めていた。彼は、この理想主義の皇帝のために、自らの全てをささげる決意を固めたのである。



皇帝こうてい苻堅ふけん壮大そうだい理想りそうれた慕容垂ぼようすいは、かれの「あまゆめ」に、かつてないほどむねおどらせていた。自尊心じそんしんが強く、好戦的こうせんてきかれにとって、天下てんか武力ぶりょく統一とういつするだけでなく、そのさき諸民族しょみんぞく融和ゆうわ目指めざすという理念りねんは、新たな挑戦ちょうせんともした。

________________________________


しょくへの侵攻しんこう


373年、東晋とうしん寧康ねいこう2年、前秦ぜんしん建元けんげん9年。前秦ぜんしんは、みなみ位置いちする東晋とうしんりょうへの攻勢こうせいつよめていた。次なる標的ひょうてきは、豊かな土地とちけわしい山々(やまやま)にまもられた要衝ようしょうしょくであった。この戦い(いくさ)には、皇帝こうてい苻堅ふけんめいにより、慕容垂ぼようすいもまた、前秦ぜんしん主力しゅりょくとして従軍じゅうぐんした。


しかし、この南伐なんばつには、宰相さいしょう王猛おうもう慎重しんちょう姿勢しせいを見せていた。戦場せんじょうへ向かう道中どうちゅう慕容垂ぼようすいは、うまならべた王猛おうもうに問いかけた。


王猛おうもう殿どの、今回のしょくめ、陛下へいか大変たいへんお乗り気のようですが、どうも貴殿きでんかないかおをしておられる。何か(なにか)気にむことでも?」


王猛おうもうは、ふか溜息ためいきをついた。彼の顔には、疲労ひろう懸念けねんいろにじんでいた。


慕容垂ぼようすい将軍しょうぐん。確かに(たしかに)陛下へいか理想りそう壮大そうだいで、私もそれにかれ、この前秦ぜんしんに全て(すべて)をささげてきました。しかし、今はまだ、東晋とうしんとの本格的ほんかくてき全面対決ぜんめんたいけつときではないと、私は考えております」


慕容垂ぼようすいまゆをひそめた。


「なぜだ? 陛下へいか中華ちゅうか統一とういつ夢見ゆめみておられる。ならば、てきはやたたくべきではないのか?」


王猛おうもうくびよこった。


あせってはなりません。国力こくりょく飛躍的ひやくてき増大ぞうだいしましたが、まだ内政ないせい基礎きそ盤石ばんじゃくではありません。そして何より、しょくは、険阻けんそで、攻め入るには多大ただい犠牲ぎせいともないます。東晋とうしん手強てごわ相手あいていまここで、無用むよう損害そんがいを出すべきではないのです」


王猛おうもうは、苦渋くじゅうに満ちた表情ひょうじょうで続けた。


陛下へいかは、あまりにも理想りそうられすぎている。そのお気持ちはいたいほどわかる。だが、宰相さいしょうたるもの、時に(ときに)は苦言くげんていし、冷静れいせい判断はんだんうながすのも役目やくめ。しかし、私の言葉ことばは、なかなか陛下へいかみみにはとどかない…」


慕容垂ぼようすいは、王猛おうもう言葉ことば内心ないしんうなずいた。確かに(たしかに)、苻堅ふけん純粋じゅんすいすぎるほどに理想を追い求めていた。それが彼の魅力みりょくでもあったが、同時に危うさもはらんでいた。


「なるほどな。だが、俺は陛下の夢に乗ってみるぜ。この慕容垂ぼようすいけんが、陛下の道を切りひらくのならば、喜んでを流そう」


慕容垂ぼようすいの言葉には、好戦的こうせんてきかれらしさがにじみ出ていた。王猛おうもうは、その言葉に複雑ふくざつ表情ひょうじょうを浮かべた。


将軍しょうぐん武勇ぶゆうは、この王猛おうもうみとめるところ。しかし、それがかえって陛下へいかを突きつきうごかしてしまうことにならねばよいが…」


王猛おうもう懸念けねん他所よそに、慕容垂ぼようすいの心は、すでに燃えもえさかほのおのように、新たないくさへと向かっていた。


________________________________


しょく併呑へいどん版図はんと拡大かくだい


前秦ぜんしん軍は、難攻不落なんこうふらくと思われたしょく要塞ようさいを、慕容垂ぼようすい卓越たくえつした指揮しきのもと、次々と攻略こうりゃくしていった。けわしい山道やまみちを進み、東晋とうしん軍の頑強がんきょう抵抗ていこうを打ちやぶり、ついにしょく全土ぜんどをそのおさめた。


この勝利しょうりにより、前秦ぜんしん版図はんと飛躍的ひやくてき拡大かくだいし、東晋とうしんとの国境こっきょうはさらに接近せっきんした。これにより、中華ちゅうか統一とういつへの道は、一見いっけんすると着々(ちゃくちゃく)と進んでいるように見えた。しかし、この戦い(いくさ)は、王猛おうもう懸念けねんした通り、前秦ぜんしん東晋とうしんとのあいだで、本格的ほんかくてき対立たいりつ火種ひだね明確めいかくにすることになったのである。


慕容垂ぼようすいは、勝利しょうり興奮こうふん冷めやらぬまま、戦地せんち報告ほうこく苻堅ふけんに送った。そこには、彼の自尊心じそんしん好戦的こうせんてき性格せいかく遺憾いかんなくあらわれていた。


陛下へいか! しょくは完全に(かんぜんに)我々(われわれ)の手中しゅちゅうに落ちましたぞ! 東晋とうしん軟弱なんじゃくへいなど、我ら(われら)前秦ぜんしんてきではありません! このいきおいでみなみへ攻めくだり、一気いっき中華ちゅうか統一とういつしてしまいましょうぞ!」


慕容垂ぼようすい報告ほうこくけた苻堅ふけんは、おおいによろこんだ。彼の理想りそう実現じつげんが、着実ちゃくじつに進んでいることを確信かくしんしたからだ。しかし、その喜びのうらで、王猛おうもうはただ静かに、未来みらい見据みすえていた。彼の胸中きょうちゅうには、一抹いちまつ不安ふあん去来きょらいしていた。


この勝利しょうりが、果たして(はたして)前秦ぜんしんにとって、まこと幸福こうふくをもたらすのか。それとも、避けられぬ悲劇ひげき序章じょしょうとなるのか。歴史れきし歯車はぐるまは、止まることなく回り続けていた。



かぜ砂塵さじんを巻き上げ、乾燥かんそうした大地をでる。西暦せいれき374年、華北かほく統一とういつし、中華統一ちゅうかとういつゆめいだ前秦ぜんしん皇帝こうてい苻堅ふけんは、その日も政務せいむわれていた。かれかたわらには、前燕ぜんえん皇族こうぞくでありながら前秦ぜんしん帰順きじゅんした将軍しょうぐん慕容垂ぼようすい夫人ふじんはべっていた。


苻堅ふけんは、とき夫人ふじんかろやかなたわむれをかわすこともあった。その光景こうけいを、一角いっかくひかえていた諫言者かんげんしゃ趙整ちょうせいはじっとつめていた。趙整ちょうせいは、かつて王猛おうもうがそのさいみとめたという人物じんぶつだ。


374年、趙整ちょうせいは前秦の著作郎、後に黄門侍郎・武威郡太守に昇進していた。


陛下へいか、少々(しょうしょう)おみみ拝借はいしゃくしてもよろしいでしょうか?」


趙整ちょうせいしずかにすすた。苻堅ふけんはにこやかにうなずいた。


「どうした、趙整ちょうせい? まさかまたけん不徳ふとくいさめるつもりか?」


苻堅ふけん冗談じょうだんめかしてった。趙整ちょうせい真摯しんし眼差まなざしでこたえた。


「まさにそのとおりでございます、陛下へいか。しかし、今回こんかい言葉ことばではなく、うたたくしました」


そうって、趙整ちょうせいんだこえうたはじめた。そのうたは、夫婦ふうふみち君臣くんしん内容ないようであった。平易へいい言葉ことばつむがれたうたは、しかし、苻堅ふけんこころふかひびいた。慕容垂ぼようすい夫人ふじんも、そのうためられた意味いみさとり、かおせた。


うたわると、苻堅ふけんふかいきいた。


見事みごとだ、趙整ちょうせいけんはじいるばかりだ。おまえうたは、けんこころおりを洗いながしてくれた。今日きょうより、けんおこないをあらためる」


苻堅ふけん即座そくざ行動こうどううつした。政務せいむにさらにはげみ、夫人ふじんとのたわむれはひかえるようになった。皇帝こうていおこないがあらたまったことに、周囲しゅういものたちは安堵あんどし、その姿勢しせい称賛しょうさんした。


一方いっぽう、その一部始終いちぶしじゅういていた慕容垂ぼようすいは、複雑ふくざつ感情かんじょうとらわれていた。


「ほう、陛下へいか随分ずいぶん殊勝しゅしょうなご様子ようすじゃねえか」


慕容垂ぼようすいは、ひとりごとのようにつぶやいた。かたわらにいた側近そっきんが、おそおそたずねた。


「何か(なにか)ございましたでしょうか、将軍しょうぐん?」


「いや、なんでもねえよ。ただ、少々(しょうしょう)感心かんしんしただけさ」


慕容垂ぼようすいは、かわいたわらいをらした。


感心かんしん、でございますか?」


「ああ、感心かんしんさ。あのおかたは、だれ言葉ことばにもみみかたむける。まさしく理想主義りそうしゅぎ体現者たいげんしゃってやつだぜ」


慕容垂ぼようすい脳裏のうりには、かつて前秦ぜんしん亡命ぼうめいしたさい苻堅ふけんあつかたった「諸民族融和しょみんぞくゆうわ統一国家とういつこっか建設けんせつ」という理念りねんよみがえっていた。そのときは「あまちゃんな皇帝こうていだな」とおもいつつも、「そのゆめかなえてみたい」とすこしばかりこころさぶられたものだ。


しかし、今回こんかい出来事できごとは、慕容垂ぼようすいにとって、すこしばかりちが感情かんじょういだかせた。


「あの人は、いつでも真っ直ぐだ。だからこそ、まわりもついていく。だが……」


慕容垂ぼようすい言葉ことば区切くぎった。


「だが、あの真っ直ぐ(まっすぐ)さが、ときおれにはまぶしすぎるときがある。敬意けいいっている。それはわらねえ。だが、なんだか、あの人のまえだと、おれにごった部分ぶぶん際立きわだっちまうようでな……」


慕容垂ぼようすいは、好戦的こうせんてき自尊心じそんしんつよ自分じぶんと、理想りそうもとめる苻堅ふけんとのあいだにある、められないみぞかんじていた。敬意けいいわらない。だが、その敬意けいいおなじくらい、説明せつめいのつかない複雑ふくざつ感情かんじょうが、かれこころ奥底おくそこ渦巻うずまいていた。それは、あこがれにもた、しかしけっして言葉ことばにすることのできない、かすかな葛藤かっとうであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ