名君の連鎖:慕容一族の覇業⑪
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前燕を滅ぼした慕容垂は、前秦の将軍として各地の戦に従軍し、その才覚を遺憾なく発揮していた。彼の武功は、前秦の皇帝苻堅の統一事業に大きく貢献し、慕容垂自身も、新たな地で得た信頼と名声に充実感を覚えていた。
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皇帝苻堅の壮大な夢
372年、東晋の寧康元年、前秦の建元8年。ある晴れた日の午後、慕容垂は長安の宮殿に招かれた。皇帝苻堅が、慕容垂と二人きりで話したい、と申し出たのだ。
「慕容垂よ、今日は堅の夢を聞いてほしい」
苻堅は、いつになく真剣な眼差しで慕容垂を見つめた。慕容垂は、姿勢を正して耳を傾けた。
「陛下の夢にございますか? この慕容垂、謹んで拝聴いたします」
苻堅は、広大な地図を広げ、指でゆっくりとそこをなぞった。
「見てくれ、この天下を。漢の時代から、幾度となく争いが繰り返されてきた。民族が互い(たがい)に憎み合い、血を流し続けてきたのだ。だが、堅はそうはしたくない」
彼の言葉には、単なる征服欲ではない、深い思いが込められていた。
「この地に住まう全ての民、漢人も、我々(われわれ)氐族も、羌も、匈奴も、そしてそなたの鮮卑も、皆が兄弟として手を取り合い、一つの国を築き上げる。それが、堅の理想なのだ!」
苻堅の声は、情熱に満ちていた。彼は立ち上がり、窓の外の広がる長安の街を指差した。
「それぞれの民族が持つ優れた文化や知恵を一つに合わせ、誰もが安心して暮らせる世を創る。互いに認め合い、助け合い、高め合う。そんな、かつて誰も成し遂げられなかった真の中華統一を、堅は夢見ているのだ!」
苻堅は、慕容垂の顔を真っ直ぐに見つめた。
「そなたは、武勇に優れ、軍を率いる才は天下一品。だが、それだけではない。そなたには、人を惹きつける魅力がある。だからこそ、前燕の連中はそなたを恐れ、排斥したのだ。だが、堅は違う。そなたの力を、この理想の実現のために使ってほしい!」
苻堅の言葉は、慕容垂の心に、これまで感じたことのない衝撃を与えた。彼の目には、かつての慕容恪が持っていた、純粋で高邁な理想の輝き(かがやき)が宿っていた。
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慕容垂の胸中
慕容垂は、しばし沈黙した。自尊心が強く、好戦的な彼にとって、苻堅の理想主義は、一見すると甘いものに思えた。だが、その甘さの中には、計り知れないスケールと、人を動かす力があった。
「…陛下」
慕容垂は、ゆっくりと口を開いた。
「率直に申し上げれば、陛下のお考えは、あまりにも理想的で、夢物語のように聞こえます」
苻堅は、静かに慕容垂の言葉を聞いていた。
「この乱世にあって、民族が手を取り合うなど、これまで誰も成し得なかったこと。血と争いが繰り返されるのが、人の常だと思っておりました」
慕容垂は、顔を上げて苻堅を見た。彼の目は、揺らぎながらも、どこか期待を宿していた。
「ですが…陛下のお言葉には、確かな響きがあります。これほどまでに壮大な夢を語るお方は、他に知りません。もし、陛下のその理想が現実のものとなれば、それは歴史を塗り替える偉業となるでしょう」
そして、慕容垂の口から、本音が漏れた。
「正直なところ…俺には、陛下は『理想主義の甘ちゃん皇帝だな』と、そう思えましたよ」
慕容垂の言葉に、苻堅は思わず笑った。
「はっはっは! 流石は慕容垂! 偽りのない言葉、実に心地よいわ!」
慕容垂も、小さく笑みを浮かべた。彼の胸中には、新たな感情が芽生えていた。
「しかし…その甘い夢を、この慕容垂の武力で叶えてみるのも、悪くねえな。いや、むしろ、俺の人生を賭けるに値する、最高の夢かもしれねえ…!」
慕容垂の心に、苻堅の壮大な夢が、静かに、だが確実に、根を張り始めていた。彼は、この理想主義の皇帝のために、自らの全てを捧げる決意を固めたのである。
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皇帝苻堅の壮大な理想に触れた慕容垂は、彼の「甘い夢」に、かつてないほど胸を躍らせていた。自尊心が強く、好戦的な彼にとって、天下を武力で統一するだけでなく、その先に諸民族の融和を目指すという理念は、新たな挑戦の火を灯した。
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蜀への侵攻
373年、東晋の寧康2年、前秦の建元9年。前秦は、南に位置する東晋領への攻勢を強めていた。次なる標的は、豊かな土地と険しい山々(やまやま)に守られた要衝、蜀であった。この戦い(いくさ)には、皇帝苻堅の命により、慕容垂もまた、前秦の主力として従軍した。
しかし、この南伐には、宰相の王猛が慎重な姿勢を見せていた。戦場へ向かう道中、慕容垂は、馬を並べた王猛に問いかけた。
「王猛殿、今回の蜀攻め、陛下は大変お乗り気のようですが、どうも貴殿は浮かない顔をしておられる。何か(なにか)気に病むことでも?」
王猛は、深い溜息をついた。彼の顔には、疲労と懸念の色が滲んでいた。
「慕容垂将軍。確かに(たしかに)陛下の理想は壮大で、私もそれに惹かれ、この前秦に全て(すべて)を捧げてきました。しかし、今はまだ、東晋との本格的な全面対決の時ではないと、私は考えております」
慕容垂は眉をひそめた。
「なぜだ? 陛下は中華統一を夢見ておられる。ならば、敵は早く叩くべきではないのか?」
王猛は首を横に振った。
「焦ってはなりません。国力は飛躍的に増大しましたが、まだ内政の基礎は盤石ではありません。そして何より、蜀の地は、険阻で、攻め入るには多大な犠牲を伴います。東晋は手強い相手。今ここで、無用な損害を出すべきではないのです」
王猛は、苦渋に満ちた表情で続けた。
「陛下は、あまりにも理想に駆られすぎている。そのお気持ちは痛いほどわかる。だが、宰相たる者、時に(ときに)は苦言を呈し、冷静な判断を促すのも役目。しかし、私の言葉は、なかなか陛下の耳には届かない…」
慕容垂は、王猛の言葉に内心で頷いた。確かに(たしかに)、苻堅は純粋すぎるほどに理想を追い求めていた。それが彼の魅力でもあったが、同時に危うさも孕んでいた。
「なるほどな。だが、俺は陛下の夢に乗ってみるぜ。この慕容垂の剣が、陛下の道を切り拓くのならば、喜んで血を流そう」
慕容垂の言葉には、好戦的な彼らしさが滲み出ていた。王猛は、その言葉に複雑な表情を浮かべた。
「将軍の武勇は、この王猛も認めるところ。しかし、それがかえって陛下を突き動かしてしまうことにならねばよいが…」
王猛の懸念を他所に、慕容垂の心は、すでに燃え盛る炎のように、新たな戦へと向かっていた。
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蜀の併呑と版図の拡大
前秦軍は、難攻不落と思われた蜀の要塞を、慕容垂の卓越した指揮のもと、次々と攻略していった。険しい山道を進み、東晋軍の頑強な抵抗を打ち破り、ついに蜀全土をその手に収めた。
この勝利により、前秦の版図は飛躍的に拡大し、東晋との国境はさらに接近した。これにより、中華統一への道は、一見すると着々(ちゃくちゃく)と進んでいるように見えた。しかし、この戦い(いくさ)は、王猛が懸念した通り、前秦と東晋との間で、本格的な対立の火種を明確にすることになったのである。
慕容垂は、勝利の興奮冷めやらぬまま、戦地の報告を苻堅に送った。そこには、彼の自尊心と好戦的な性格が遺憾なく表れていた。
「陛下! 蜀は完全に(かんぜんに)我々(われわれ)の手中に落ちましたぞ! 東晋の軟弱な兵など、我ら(われら)前秦の敵ではありません! この勢いで南へ攻め下り、一気に中華を統一してしまいましょうぞ!」
慕容垂の報告を受けた苻堅は、大いに喜んだ。彼の理想の実現が、着実に進んでいることを確信したからだ。しかし、その喜びの裏で、王猛はただ静かに、未来を見据えていた。彼の胸中には、一抹の不安が去来していた。
この勝利が、果たして(はたして)前秦にとって、真の幸福をもたらすのか。それとも、避けられぬ悲劇の序章となるのか。歴史の歯車は、止まることなく回り続けていた。
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風が砂塵を巻き上げ、乾燥した大地を撫でる。西暦374年、華北を統一し、中華統一の夢を抱く前秦の皇帝、苻堅は、その日も政務に追われていた。彼の傍らには、前燕の皇族でありながら前秦に帰順した将軍、慕容垂の夫人が侍っていた。
苻堅は、時に夫人と軽やかな戯れを交すこともあった。その光景を、一角で控えていた諫言者の趙整はじっと見つめていた。趙整は、かつて王猛がその才を認めたという人物だ。
374年、趙整は前秦の著作郎、後に黄門侍郎・武威郡太守に昇進していた。
「陛下、少々(しょうしょう)お耳を拝借してもよろしいでしょうか?」
趙整は静かに進み出た。苻堅はにこやかに頷いた。
「どうした、趙整? まさかまた堅の不徳を諫めるつもりか?」
苻堅は冗談めかして言った。趙整は真摯な眼差しで答えた。
「まさにその通りでございます、陛下。しかし、今回は言葉ではなく、歌に託しました」
そう言って、趙整は澄んだ声で歌い始めた。その歌は、夫婦の道、君臣の義を説く内容であった。平易な言葉で紡がれた歌は、しかし、苻堅の心に深く響いた。慕容垂の夫人も、その歌に込められた意味を悟り、顔を伏せた。
歌が終わると、苻堅は深く息を吐いた。
「見事だ、趙整。堅は恥いるばかりだ。お前の歌は、堅の心の澱を洗い流してくれた。今日より、堅は行いを改める」
苻堅は即座に行動に移した。政務にさらに励み、夫人との戯れは控えるようになった。皇帝の行いが改まったことに、周囲の者たちは安堵し、その姿勢を称賛した。
一方、その一部始終を聞いていた慕容垂は、複雑な感情に囚われていた。
「ほう、陛下も随分と殊勝なご様子じゃねえか」
慕容垂は、ひとりごとのように呟いた。傍らにいた側近が、恐る恐る尋ねた。
「何か(なにか)ございましたでしょうか、将軍?」
「いや、何でもねえよ。ただ、少々(しょうしょう)感心しただけさ」
慕容垂は、乾いた笑いを漏らした。
「感心、でございますか?」
「ああ、感心さ。あのお方は、誰の言葉にも耳を傾ける。まさしく理想主義の体現者ってやつだぜ」
慕容垂の脳裏には、かつて前秦に亡命した際、苻堅が熱く語った「諸民族融和と統一国家の建設」という理念が蘇っていた。その時は「甘ちゃんな皇帝だな」と思いつつも、「その夢を叶えてみたい」と少しばかり心を揺さぶられたものだ。
しかし、今回の出来事は、慕容垂にとって、少しばかり違う感情を抱かせた。
「あの人は、いつでも真っ直ぐだ。だからこそ、周りもついていく。だが……」
慕容垂は言葉を区切った。
「だが、あの真っ直ぐ(まっすぐ)さが、時に俺には眩しすぎる時がある。敬意は持っている。それは変わらねえ。だが、なんだか、あの人の前だと、俺の濁った部分が際立っちまうようでな……」
慕容垂は、好戦的で自尊心の強い自分と、理想を追い求める苻堅との間にある、埋められない溝を感じていた。敬意は変わらない。だが、その敬意と同じくらい、説明のつかない複雑な感情が、彼の心の奥底に渦巻いていた。それは、憧れにも似た、しかし決して言葉にすることのできない、かすかな葛藤であった。