名君の連鎖:慕容一族の覇業⑩
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北風が、鄴の都に吹き荒れる。367年、東晋の太和2年のことである。前燕の国政を支え、その全盛期を築き上げた名宰相にして、無敗の将軍、慕容恪が病に倒れた。享年49。その報は、瞬く間に前燕全土に広がり、人々は深い悲しみに包まれた。
慕容恪の病床には、幼い皇帝慕容暐が駆けつけた。まだあどけない顔つきの慕容暐は、慕容恪の手を握り、涙を流した。
「叔父上…どうか、どうかご無事でいてください…!」
慕容恪は、かすれた声で慕容暐を諭した。
「陛下…わたくしは、もう長くありません。しかし、心配することはない。陛下には、慕容垂がいます…」
慕容恪の視線は、部屋の片隅に立つ慕容評に向けられた。慕容評は、慕容恪の従兄にあたり、慕容恪に次ぐ実力者として知られていたが、その性格は野心家で、慕容垂とは犬猿の仲であった。
「陛下よ、わたくしが死んだ後も、決して慕容垂を疎かにしてはならぬである。彼は、わたくしに勝るとも劣らぬ才覚を持つ。慕容評ではなく、慕容垂を重用するのだぞ…」
慕容恪の言葉は、まるで最期の力を振り絞るかのようであった。慕容暐は、叔父の言葉の重さを理解し、涙を流しながら頷いた。
慕容評は、その言葉を聞きながら、内心で舌打ちをした。慕容恪が慕容垂を高く評価していることは知っていたが、ここまでとは。彼の胸中には、慕容垂に対する嫉妬と警戒心が渦巻いていた。
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そして、367年5月、慕容恪は静かに息を引き取った。
彼の死は、前燕にとってあまりにも大きな損失であった。まるで、前燕という巨木を支える太い幹が一本折れたかのように、国全体に不安の影が差し始めた。
慕容恪の死後、国政の実権は、慕容評が握ることになった。彼は、慕容恪の遺言をよそに、慕容垂を危険視し、その排除を目論むようになる。
荊州刺史として辺境に赴いていた慕容垂は、慕容恪の訃報と、慕容評の専横の知らせを聞き、心を痛めた。
「恪兄貴が…! まさか、こんなにも早く逝ってしまうとは…!」
慕容垂は、慕容恪の遺言が慕容評によって無視されていることを知り、憤慨した。
「あの慕容評め! 恪兄貴の遺志を踏みにじるばかりか、俺を陥れようと企んでいるだと!? 許せるものか!」
彼の性格は自尊心が強く、好戦的である。慕容評の思惑を察知し、自らの身に危険が迫っていることを肌で感じ取っていた。
南蛮校尉の邸宅で、慕容垂は副官の郝景に苛立ちをぶつけた。
郝景は、五胡十六国時代の後燕の武将で、慕容垂に仕えていた。彼は平北将軍慕容佐の司馬を務めていたことが知られている。
「郝景! 都の様子はどうなっている!? 慕容評は、どこまで俺を追い詰めるつもりだ!?」
郝景は、顔を曇らせた。
「将軍…慕容評殿は、陛下を唆し、将軍の権限を徐々に削ぎ落としつつあります。このままでは、いつか…」
慕容垂は、地団駄を踏んだ。
「くそっ! 俺が都にいたら、あんな奴の好き勝手にはさせないものを!」
その時、一人の密使が、慌ただしく部屋に飛び込んできた。
「申し上げます! 都から、慕容評殿の命で、将軍を召喚するとの命が…! これは、罠に違いありません!」
慕容垂の目には、怒りの炎が燃え上がった。
「やはり、来たか…! 慕容評め、この慕容垂を愚弄するにも程があるぞ!」
彼は椅子を蹴り倒し、立ち上がった。
「だが、俺はまだ死なん! 慕容恪兄貴が、俺に託してくれた未来を、こんなところで終わらせるわけにはいかないぜ!」
郝景は、慕容垂の覚悟に満ちた表情を見て、固唾を飲んだ。
「将軍…では、いかがなさいますか?」
慕容垂は、遠く北の空を見据えた。彼の脳裏には、慕容恪の言葉がこだましていた。
「前燕に、もはや俺の居場所はない…。だが、このまま黙って死ぬわけにはいかないぜ。よし、決めた! 俺は…生き残る! そしていつか、この慕容評に、そして慕容家を衰退させた者たちに、必ずや報いを受けさせてやる!」
慕容垂の胸中には、新たな野望が芽生え始めていた。それは、慕容評への復讐と、いつか自らの手で国を興すという、壮大な夢であった。前燕の権力闘争は、慕容恪の死をきっかけに、さらに泥沼化していくことになる。そして、慕容垂の運命は、大きく動き出そうとしていた。
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夕闇が迫る鄴の都に、またしても不穏な報が届いた。369年、東晋の太和4年のことである。東晋の将軍、桓温が三度目となる北伐を敢行し、大軍を率いて前燕の領土に侵攻してきたのだ。
前燕の朝廷は混乱に陥った。宰相の慕容評は、対応に苦慮していた。慕容恪亡き後、彼の専横は日増しにひどくなり、政治は乱れ、軍の規律も緩み始めていたのである。
そんな中、南方の辺境にいた慕容垂に、出陣の命が下された。
「慕容垂よ、桓温の大軍を食い止めよ! これは、そなたにしかできぬ大役であるぞ!」
慕容評は、表向きは慕容垂に期待を寄せる言葉をかけたが、内心では、この機に乗じて慕容垂を危険な戦場に送り込み、あわよくば死なせようと考えていた。慕容垂の並外れた武勇と人望は、慕容評にとって目障り(めざわり)でしかなかったのだ。
しかし、慕容垂は、その企み(たくらみ)を見抜いていた。彼は、不敵な笑みを浮かべた。
「ふん、俺を始末するつもりか。だが、そうはさせねえぜ!」
彼は、自らの軍を率いて、東晋軍との戦場へ向かった。桓温率いる東晋軍は、かつてないほどの大規模なもので、その勢いはすさまじかった。しかし、慕容垂は、冷静沈着に状況を見極め、巧みな戦略と卓越した軍才を発揮した。
戦場で、慕容垂は部下たちを鼓舞した。
「野郎ども! 恐れることはねえ! 敵は大軍だが、俺たちの結束と勇気には勝てねえんだ! 慕容恪兄貴が見ているぞ! 前燕のために、命をかけて戦うんだ!」
彼の言葉は、兵士たちの心に火をつけた。前燕軍は、慕容垂の指揮のもと、文字通り死力を尽くして戦った。そして、激戦の末、慕容垂は桓温の東晋軍を撃退することに成功したのである。この勝利は、慕容恪の死後、混迷を深めていた前燕に、一筋の光明をもたらした。
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しかし、この大功が、慕容垂の命をさらに危険に晒すことになった。慕容評は、慕容垂のあまりにも目覚ましい活躍に、焦り(あせり)と憎悪を募らせた。
「まさか、あの慕容垂めが、桓温の大軍を退けるとは…! これ以上、奴を野放しにはしておけぬ。必ずや、奴を葬り去ってやる…!」
慕容評は、慕容垂を暗殺する計画を密かに練り始めた。都の屋敷に戻った慕容垂の元には、慕容評の刺客が次々と送り込まれるようになった。
ある夜、慕容垂の邸宅で、彼と副官の郝景が密談をしていた。
「郝景、また刺客が送られてきたな。慕容評め、本当に俺を殺す気らしい」
慕容垂の声には、怒りと諦めが入り混じっていた。
郝景は、顔を蒼白にしながら言った。
「将軍、このままでは本当に危ないです! いくら将軍でも、いつまでも命を狙われ続けるのは…」
慕容垂は、立ち上がって部屋の中を歩き回った。
「くそっ、慕容恪兄貴が残してくれた前燕を、あんな小物の慕容評なんかに好き勝手させるわけにはいかねえ! だが、この状況で俺が抵抗すれば、余計な混乱を招くことになる…」
彼は、深い思案に沈んだ。自尊心が高い彼にとって、この状況は耐え難いものであった。しかし、ここで感情に任せて動けば、かえって破滅を招くと悟っていた。
その時、慕容垂の脳裏に、一つの選択肢が浮かんだ。
「郝景、俺は…前秦へ行く」
郝景は、驚きのあまり目を見開いた。
「前秦へ、でございますか!? しかし、それは…敵国に身を寄せるということでは…」
慕容垂は、強い意志を宿した目で郝景を見た。
「そうだ! ここで死ぬよりは、はるかにましだ。前秦の皇帝苻堅は、度量の大きな男だと聞く。俺の才覚を評価してくれるかもしれねえ。それに、いつか前燕を取り戻すためにも、力を蓄えなければならねえ!」
慕容垂は、その夜のうちに身の回りのものを整え、信頼できるわずかな手勢を率いて、前燕を後にした。彼の心には、故郷への未練と、新たな地での再起への決意が交錯していた。
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前秦に亡命した慕容垂を、皇帝苻堅は厚遇した。苻堅は、慕容垂の武勇と才能を高く評価し、彼を自らの覇業に欠かせない人材と見なしたのだ。
慕容垂は、前秦という新たな舞台で、再びその軍才を発揮する機会を得た。しかし、彼の胸の奥には、故郷・前燕を蝕む慕容評への復讐の念と、いつか自らの手で新たな国を築くという野望が、静かに燃え続けていたのである。
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前燕を後にし、西方へと旅立った慕容垂は、369年の夏、前秦の都である長安に辿り着いた。彼の亡命は、まさに命がけの決断であった。いつ前燕の追手に捕らえられるか、あるいは見知らぬ土地で飢えに苦しむか、その不安は尽きなかったが、彼は自らの才覚と運命を信じていた。
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苻堅との出会い
長安の宮殿に招かれた慕容垂は、前秦の皇帝である苻堅と対面した。苻堅は、慕容垂が前燕を追い出された経緯を既に聞き及んでおり、その顔には、彼に対する深い敬意が浮かんでいた。
「よくぞ参られた、慕容垂殿! 貴殿の武勇と才覚は、この苻堅もかねてより耳にしておりましたぞ!」
苻堅は、席を立ち、自ら慕容垂の手を取って歓迎した。その厚遇ぶりに、慕容垂は、亡命して正解だったと確信した。
「陛下のお言葉、恐悦至極にございます。この慕容垂、身の置き所を失い、流浪の身となっておりましたが、陛下の温かいお心遣いに、ただただ感謝するばかりにございます」
慕容垂は、感情を抑えつつも、その胸中では熱いものが込み上げていた。慕容評に裏切られ、命まで狙われた前燕とは対照的に、苻堅の態度は、彼にとって心からの安堵をもたらした。
苻堅は、慕容垂の苦境を理解し、同情の念を抱いていた。
「前燕の宰相慕容評は、貴殿のような稀代の将を追放するなど、愚かな真似をしたものだ! しかし、それは我が前秦にとっては、天からの授かり物! 貴殿の才を存分に振るって、我が中華統一の夢に力を貸してくだされ!」
苻堅の言葉は、慕容垂の心に深く響いた。彼は、再び戦場で活躍できる機会を与えられたことに喜びを感じた。
「陛下のためならば、この慕容垂、命を惜しみませぬ! 必ずや、陛下の御期待に応えてみせましょうぞ!」
慕容垂の目には、新たな決意の光が宿っていた。
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前燕滅亡と慕容垂の活躍
時は流れて370年、東晋の太和5年。前秦は、かねてより狙っていた前燕への侵攻を開始した。慕容垂は、前秦の将軍として、その最前線に立っていた。かつての故郷を攻めるという複雑な感情を胸に抱きながらも、彼は与えられた任務を全うする覚悟を決めていた。
戦場で、慕容垂は圧倒的な強さを見せた。彼の指揮のもと、前秦軍は次々と前燕の抵抗を打ち破っていった。かつての同胞であった前燕の兵士たちは、慕容垂の並外れた軍才に恐怖を覚え、次々と降伏していった。
ある日の戦の後、慕容垂は、かつての部下であった郝景と再会した。郝景は、慕容垂の姿を見て、感激のあまり涙を流した。
「将軍! 生きておられたのですね! 我々(われわれ)は、もう会えないものとばかり…!」
慕容垂は、郝景の肩を叩いた。
「郝景! よく生きていてくれた! 見てみろ、前燕はもう終わりだ。慕容評のような愚か者が国を導けば、こうなるのは目に見えていた!」
郝景は、頷きながら言った。
「全く(まったく)その通りでございます。慕容評殿の専横は目に余るもので、民は塗炭の苦しみを味わっておりました。将軍がいなくなってから、前燕は急速に衰退の一途を辿りました…」
慕容垂は、遠く故郷の方向を眺めた。彼の心には、複雑な感情が渦巻いていた。かつて慕容恪と共に築き上げた前燕が、今まさに自らの手で滅ぼされようとしている。しかし、それは、慕容評への報復であり、そして、新たな時代の幕開けでもあった。
「いいか、郝景。これが、俺たちの新たな出発点だ。前秦の力を借りて、俺はもっと強くなる。そして、いつか、俺の理想とする国を、この手で築き上げてみせる!」
彼の言葉には、力強い決意が込められていた。郝景は、慕容垂の言葉に深く感動し、彼に付き従うことを誓った。
そして、ついに前燕の都は陥落し、前秦によって滅ぼされた。慕容垂は、前秦の将軍として、各地の戦い(いくさ)に尽力し、その名を轟かせていくことになる。しかし、彼の胸の奥には、いつか故郷の地で、自らの旗を掲げるという、壮大な野望が秘められていた。