名君の連鎖:慕容一族の覇業①
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夜のとばりが降りた広大な草原に、篝火の炎が揺らめいていた。火を囲んで座る鮮卑慕容部の男たちの顔が、赤々と照らされる。遠くでは、馬のいななきが響き、時折吹き抜ける風が、乾燥した草の匂いを運んできた。
そんな中、ひときわ大きく燃え盛る火のそばで、男たちが声を張り上げていた。
「おい、聞いたか? 今日、渉帰様の下に、新たな命が生まれたそうだ!」
一人の若い男が、興奮気味に声を上げた。その声に、周囲の男たちの視線が一斉に集まる。
「おお、本当か!? それはめでたい! また我らの部族に、強い血が加わるということだ!」
別の男が、顔をくしゃくしゃにして笑った。喜びの声が、夜の帳に吸い込まれていく。
「男の子だそうですよ! 名前は『廆』、慕容廆と名付けられたと聞きました!」
一際、背の高い男が、誇らしげに胸を張って言った。その言葉に、男たちの間から歓声が上がる。
「慕容廆! かっこいい名だ! きっと、将来は渉帰様のような、立派な大人になるだろう!」
「そうだ! 部族の未来を背負って立つ、偉大な男になるに違いない!」
男たちの期待のこもった声が、夜空に響き渡る。彼らの表情には、新しい命が部族にもたらす希望が満ち溢れていた。
その時、一人の老練な男が、静かに口を開いた。彼の目は、遠くの暗闇を見つめている。
「しかし、この乱れた世に、新しい命が生まれるということは、喜びばかりではない。我らの部族が、この広大な大地で生き残っていくためには、常に強くあらねばならぬ」
老人の言葉に、それまで賑やかだった男たちの間に、わずかな静寂が訪れた。草原の風が、ざわめくように音を立てる。
「そうだ、この西晋の地は、もはや安定とは程遠い。漢人の国は、今や内乱の渦中にあるというではないか」
別の男が、眉間にしわを寄せて言った。その声には、未来への不安がにじみ出ていた。
「だが、心配はいらないさ! 我ら鮮卑は、どんな逆境も乗り越えてきた! 渉帰様がいらっしゃる限り、我らの部族は安泰だ!」
若い男が、勢いよく立ち上がった。その瞳には、揺るぎない信念が宿っている。
「そうだ! 我らは、どんな困難にも屈しない! 慕容廆が生まれた今日という日は、きっと我らの部族が、さらなる高みへと上るための、始まりの日となるだろう!」
男たちの声が、再び夜空に響き渡る。彼らは、目の前の篝火の炎のように、熱く、力強い生命力を宿していた。
この小さな命が、やがて広大な歴史の舞台で、いかに大きな足跡を残すことになるのか。この時、それを知る者はいなかった。ただ、故郷の草原に吹く風だけが、彼らの熱い思いを、遠い未来へと運び去るように、優しく吹き抜けていった。
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乾いた風が吹き荒れる広大な草原に、慕容部の仮設の宿営が広がっていた。父である部族長慕容渉帰(ぼよう せい き)の死から数日、悲しみも癒えぬ中、部族の空気は重く沈んでいた。慕容廆は、父の遺言によって次期部族長となるはずだった。しかし、事態は思わぬ方向へと転がった。
「慕容廆様(ぼよう かい さま)、お逃げください!」
テントの戸が乱暴に開かれ、息を切らした若い兵士が飛び込んできた。彼の顔には、恐怖と焦りがくっきりと刻まれている。
慕容廆は、静かに座っていた体を起こし、冷ややかな目で兵士を見た。「何事だ、そんなに慌てふためいて。落ち着いて話せ」
「慕容耐様が! 叔父御が、部族長の位を簒奪なされました! そして、あなた様の命を狙っています!」
兵士の言葉に、慕容廆の顔色が変わった。実の叔父が、これほどまでに卑劣な真似をするとは、夢にも思わなかった。
「くそっ! あの男、父上が倒れた途端に、これか!」
慕容廆は、悔しげに拳を握りしめた。しかし、今は怒りに任せる時ではない。兵士は必死に訴えかける。
「急いでください! 既に追手が迫っております! このままでは、きっと…!」
その時、外から怒鳴り声が聞こえてきた。
「慕容廆はどこだ! 隠れても無駄だぞ、出てこい!」
複数の足音がテントに近づいてくる。兵士は顔を青ざめさせ、慕容廆の袖を強く引いた。
「もう時間がありません! 裏口からお逃げを!」
慕容廆は小さく頷いた。この鮮卑の地は、もはや自分の居場所ではない。しかし、必ずや戻ってみせる。そう心に誓いながら、彼はテントの裏口から闇の中へと飛び出した。
馬に飛び乗り、兵士に促されるままに手綱を握った。冷たい夜風が顔に叩きつけられる。遠くで、松明の炎が点々と揺れているのが見えた。
「慕容廆様(ぼよう かい さま)、どちらへ向かいますか!」兵士が叫んだ。
慕容廆は一瞬、迷った。しかし、すぐに決断を下す。
「南へ! 漢人の地へ向かうぞ!」
「なんと! しかし、漢人の地は今、八王の乱で乱れに乱れていると聞きますが!?」
兵士は驚きの声を上げた。確かに、西晋の国は内乱で荒れ果て、混沌としていた。
「だからこそだ! 乱れた地には、人の心に隙が生まれる。そして、漢人の知恵と、我ら鮮卑の力を合わせれば、必ずや新たな道が開けるはずだ!」
慕容廆の声には、苦境に立たされながらも、力強い信念が宿っていた。彼の瞳は、暗闇の先に見据える未来を捉えているかのようだった。
「ですが、それはあまりにも危険すぎます! 途中で追手に見つかれば、我々は万事休す(ばんじきゅうす)です!」
「うるさい! 危険を恐れてどうする! このまま叔父の思惑通りに死んでたまるか! 私には、父の遺志を受け継ぎ、この部族を、そしてこの地の全てを背負う使命があるのだ!」
慕容廆の声は、風の唸りにも負けないほど力強かった。彼の言葉には、単なる怒りや焦りではない、未来への確かな展望が感じられた。
兵士は、その言葉に打たれたように、黙ってうなずいた。
「この屈辱は、必ず晴らしてみせる! そして、いつか必ず、この鮮卑の地に、私の旗を立てる!」
馬の蹄が、乾いた大地を蹴る音が響く。慕容廆の心には、故郷への別れと、未来への誓いが交錯していた。彼の、後に大いなる礎を築くことになる壮大な旅は、こうして始まったのだった。
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冷たい風が吹き荒れる広野を、慕容廆はひたすら駆けていた。父・慕容渉帰(ぼよう せい き)の死後、叔父の慕容耐によって部族長の座を奪われ、命を狙われる身となっていた。二年もの間、彼は流浪の生活を強いられ、心身ともに疲弊しきっていた。しかし、その瞳に宿る光だけは、決して消えることがなかった。
ある日、逃亡先の漢人の村で、慕容廆は驚くべき報せを受け取った。
「慕容廆様(ぼよう かい さま)、ご存知ですか! 慕容耐が、部下の裏切りによって殺されたそうです!」
息を切らした伝令が、興奮して告げた。慕容廆は、一瞬言葉を失った。あの慕容耐が、まさかこんな形で最期を迎えるとは。
「なに!? まことか!?」
慕容廆の顔に、驚愕と、そして一筋の安堵の表情が浮かんだ。しかし、すぐに彼は冷静さを取り戻した。
「詳細を申せ! いったい何があったのだ?」
伝令は語った。慕容耐の暴政に、部族の者たちは深く苦しんでいたこと。そして、ついに耐えかねた一部の古参の部下たちが、彼を討ち取ったこと。
「部族は、今、混乱の極みにあります。あなた様の帰還を、皆が望んでおります!」
伝令の言葉は、慕容廆の胸に深く響いた。彼は、故郷を追われて以来、ずっとこの時を待ち望んでいたのだ。
「故郷が…私を呼んでいるのか」
慕容廆は、空を仰いだ。故郷の草原を吹き抜ける風の音が、遠くから聞こえてくるような気がした。
その知らせは、瞬く間に鮮卑慕容部の各地に広まった。慕容耐の圧政から解放された民は、慕容廆の帰還を熱望した。彼らは、慕容廆こそが、父・慕容渉帰(ぼよう せい き)の正統な後継者であり、部族を導く唯一の存在だと知っていたのだ。
数日後、慕容廆は、少数の護衛と共に、生まれ育った部族の本拠地へと足を踏み入れた。そこには、数えきれないほどの部族の民が集まっていた。彼らは、慕容廆の姿を見るや否や、一斉に歓声を上げ、地面にひれ伏した。
「慕容廆様(ぼよう かい さま)! お帰りなさいませ!」 「我らが部族長! あなた様をお待ちしておりました!」
民衆の声は、大地の底から響き渡るような、力強い響きを持っていた。彼らの顔には、慕容耐の支配下では見られなかった、真の喜びと、未来への希望が満ち溢れていた。
慕容廆は、感極まって、その場に立ち尽くした。この二年間の苦難が、報われた瞬間だった。
「皆の者! よくぞ待っていてくれた!」
慕容廆は、大きく腕を広げた。彼の声は、疲労に満ちた体から発せられているとは思えないほど、力強く、響き渡った。
「私が戻ったからには、もう誰一人として、飢える者も、脅かされる者も出させはしない! これからは、皆で力を合わせ、この部族を、いや、この地を、もっともっと豊かな場所に変えていくのだ!」
民衆は、その言葉に再び熱狂した。彼らの心には、慕容廆という新たな指導者への、絶対的な信頼と、明るい未来への期待が満ち溢れていた。
部族長の位を継承した慕容廆は、その日、新たな決意を固めた。二年前の屈辱を乗り越え、彼は今、この広大な草原の、そして彼の血を引く者たちの、新たなる歴史を刻み始めることになる。彼の治世は、鮮卑慕容部が、やがて中華北部の歴史に名を刻む大国へと発展していく、最初の第一歩となったのだ。