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人間  作者: あゆやか
8/9

父親は鏡に話しかける

「あれ?」


「どちら様?」

 父親が、俺の名前を忘れた。

 最初は忘れっぽいだけ、そう思っていた。

 でも、それでは説明できないほど、急激だった。

 最初に気づいたのは、夜ご飯の後だった。

「海斗。」

「ご飯まだか?」

 俺は固まった。

 誰だ……海斗って。

 俺の名前は俊だけど……。

 頭が働かない。

 少し後、心臓の鼓動が速くなった。

 まるで、小動物の心臓のように。

 段々と。

 思い出すだけで泣けてくる。

 その後すぐに病院に連れていった。

「お父さんは、認知症ですね。」

 当たり前のように医師は淡々と言った。

 違っていて欲しかった。

 まだ、違うと信じていたのに……。

 少しの希望が打ち砕かれた。

 当時はことの重大さに気づいていなかったが、今ではわかる。

 なんで、強く現実を突きつけなかったんだ。

 これはただの物忘れじゃない。

 そう言わなかったんだ。

 後悔、悲しみ、怒り。

 それが全て自分に返ってくる。

 当時の父親はポカンとしていた。

 目の焦点が合ってなかった。

 明らかに混乱していた。

 自分の置かれた状況がわかっていないらしい。

「冗談ですよね?」

「だって私、記憶力衰えてませんよ?」

 父親は言う。

 それが認知症だ。

 本人には分からない。

 何度も同じことを聞き返すその様子が、痛々しくて目を背ける。

 母親が死んだ後、父親を一人で面倒を見てきた。

 料理をつくるたび、母親の影が薄くなっていった。

 他に頼れる人もいなかったから。

 高齢者施設は定員が埋まっていて、たまにヘルパーさんが手伝いに来てくれた。

 とてもありがたかった。

 少しだけ息が吸いやすくなった。

 ヘルパーさんが帰った後、ふと父親を見た。

 父親は部屋にある鏡を見て誰かと話している。

「もうやめてよ。」

 鏡を見ながらそう話した父親は、俺を見て言った。

「あれ?」

「どちら様?」

「新しいヘルパーさんですか?。」

 そんなはずない。

 心が否定する。

 あまりにも認知症の進行速度が速すぎる。

 一人息子の名前も忘れるほどなんて。

 静かに熱い涙が溢れる。

「どうして泣いているんですか?」

 父親は優しく尋ねる。

 俺は、ゆっくりと言葉を咀嚼した。

 父親には心配されたくなかったから。

「……いや。」

「なんでもないですよ。」

 必死に否定した。

 涙を隠した。

 話題を変えないと隠しきれない。

 そう感じた。

「誰と話してたんですか?」

 聞かなければ良かったかもしれない。

 問いの答えは絶望しかなかった。

「父さんと話してたんですよ。」

「私の真似ばかりしてくるんです。」

「ほら、今も真似してる。」

 父親はそう言って鏡を指差した。

 鏡に映っていたのは、父親の姿と、俺の姿しかなかった。

 俺は恐怖に怯えた。

 背中に冷たいものが走る。

 まるで、氷が当たっているようだった。

 父親には自分の姿が俺の祖父に見えていたのだ。

 俺はなにも言えなかった。

 今日も鏡に向かって話す父親の姿を見つめる。

 そして空を見上げると灰色だった。

 雨が降ると偏頭痛が起きるから、曇りも悪くない。

 それに、過ごしやすい気温だ。

 父親の汗を拭くのは大変だから助かった。

 父親が、俺の名前を思い出すときは来るのだろうか。

 いや、そんな奇跡は来ないだろう。

 きっと――もう来ない。

 そう分かっている。

 それなのに……。

 曇り空の隙間から光が差した気がした。

 神を信じてしまう。

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