手荒な良縁
豊穣の女神。
あるいは大地母神。穀物神。誕生の女神。
人間たちによって、かような役割を振られたその女神は、できうる限りの神力をもって、地上に豊作をもたらさんとした。
女神の庇護のもと、人間たちは仕事にいそしんだ。
やがて実りの季節を迎えると、神殿の祭壇から女神へ向けて、今年も感謝を込めてあふれんばかりの貢物が捧げられることとなった。
世はこともなし。
神殿周りで、人間たちが「収穫祭」と呼ぶ祭りでおおいに盛り上がっている。楽の音、楽しげな歌声、弾ける笑い声。
月明かりを浴びながら、美味しい肉や焼き菓子を次々と平らげ、ワインをがぶがぶと飲み、女神は神殿の石柱にもたれかかって「今年も良い年だったなぁ……」と満足げに目を瞑っていた。
そのとき、祭壇付近に妙な気配があることに気づいた。
(人間の……男?)
燭台の蝋燭はまもなく消えようというか細さで、ひとけもないそこに、たしかに誰かが近寄ってきている。
女神の姿は人間からは見えないはずで、手にしていた鳥の丸焼きもワインも「概念」であり、現実の人間から認識されるようなものではないのだが、女神は手早くそれらを隠し、息を潜めて祭壇へと向かった。
暗がりの中で、男は柑橘系の爽やかな匂いのする、いかにも女神好みのケーキを祭壇へと供え、その場に膝をついて指を組み合わせると、祈り始めた。
「女神さま、このたびははしたなくも、お願いがあって参りました。私は女王の護衛騎士で名はアドルフ。侯爵家の次男で所領を継ぐ予定はなく、二十二歳の現在、婚約者もおりません」
唐突な自己紹介、始まる。
女神は辺りを見回した。他に誰かが来たらアドルフなる若者の悩みは、そっくりそのまま聞かれてしまうだろう。できれば以降、心の中で念じて欲しいと思った。それで、女神には伝わるのである。
(声に出してはいけませんよ。女王の護衛騎士の悩みだなんて、ひょっとしたら国家機密絡みかもしれないじゃないですか)
女神がそう念じ続けると、何やらアドルフの方でも了解したらしく、そこから先は声に出さずに続けられた。
“実は、私は女王陛下に大変気に入られておりまして、最近どれほどお断り申し上げても、お、お、恐れ多くも、夜伽へと誘われているのでございます”
ごふ、と女神は変な息を吐き出した。空気が揺れた。
アドルフはハッと顔を強張らせ、周囲に視線をすべらせる。女神は「いまのは私が悪かったです」と思いながら、自分の口を手でふさいでいた。あまりにも驚きすぎたせいで、神の息が出てしまったのである。
「気のせいか……?」
呟きをもらしてから、再びアドルフは祈り始めた。
“女王陛下には王配殿下がいらっしゃいますが、お子様はまだです。もし、「種馬を替えたら妊娠した」場合、子どもができなかった理由は王配殿下にありとなり、そのまま離縁ということも考えられます。そして、新たな王配に、陛下の夜伽の相手が指名されることもあるかと……。私には、そのような重責は考えられません。そもそも、王配殿下は隣国との和平の証として、こちらからたっての願いでお迎えした方です。そこに愛があろうとなかろうと、陛下は愛人を持つべきではないと私は愚考する次第であります”
アドルフの背後まで忍び寄り、心の中の訴えをしっかり聞いていた女神は「あー……うんうん」と、同意して頷いていた。
(夫とうまくいっていないとしても、自分の結婚の意味を考えたら、拒否権ない部下をベッドに誘うっていうのはありえないです。あの女王、そういうことするんだ……あ~……人間怖っ)
長らく神付き合いをしていない女神は、恋愛沙汰には疎いものの、こと近隣の国際情勢に関する深刻な相談を受け続けてきたので、女王の背信行為には物申したい気持ちでいっぱいである。
“しかし、陛下は私がどれほど「嫌です」とお伝え申し上げても、まったく取り合ってくださらないのです”
ん? と女神は首を傾げた。話はまだ続くらしい。
(どういうこと? 「嫌よ嫌よも好きのうち」ってこと? 好きなわけないじゃない、嫌なものは嫌だっての。あ~……でも、相手が目上の女性だから、アドルフ青年から、はっきり言えないってこと?)
とても不幸な話だとアドルフ青年を不憫に思いつつ、不穏な話の行方にひとまず集中しようと心の耳をすます。
“「その誘い、応じかねます」とお伝え致しましても「この私が誘っているのだぞ」と取り合ってくださいません。「自分が国際問題の火種になるなど、とんでもないことでございます」と申し上げても「私がうまくやるから心配ない」と。「そもそも、遊びの関係を楽しむというのが、私の心情には合致しないのです」と言っても「よかろう、これから私がじっくり教えてあげよう。処女のように安心して身を任せるがよい」と”
……無理、という嫌悪感をおさえきれなくなった女神は、我が身を掻き抱く。
そのとき、祭壇に新たに供えられた爽やかに香るケーキが目に入ってきた。美味しそうだな、と思ったそばから、念を込めてそれを捧げたアドルフ青年の嘆きが、胸になだれこんできた。
“女王陛下がどうしたいかではなく、「私がそれは嫌だ」というこの思いが、どうしても通じないのです……! 挙げ句あるときは「いつまで待たせる気なのか。お前はそれほどの男なのか」と私を蔑むかと思えば、あるときは「お前のような男に煩わされてばかりの私は、哀れな女だ」となぜか私が悪くてご自分は被害者だと言わんばかりの態度まで……”
それはもう、アドルフくん、君が被害者だよ……! しかるべきところに申し出て、相手をそういう変質者として突き出して、二度とそんな悪事を働けないよう、しっかりと調べて裁いてもらったほうがいいよ……! と女神はよほど叫びたくなった。
しかし、彼は女王の護衛騎士であり本来なら「しょっぴく側」で、なおかつ相手がこの国の最高権力者であり、問題を表面化させた場合はもれなく隣国との関係悪化までついてくるという、最悪の状況である。
こうなっては、いかに武芸に秀で身分にも地位にも恵まれた青年とて、お手上げというもの。
神頼みしかない、となったのであろう。
(どうすれば解決できるんだろう、この状況……。国外逃亡? アドルフくんは何も悪いことしていないのに、仕事もそれまで築き上げた生活も全部失うのは、理不尽すぎるよね。だけど……相手に話が通じないわけだから……いつまでもその場に留まっていたら、被害を受け続けるし、問題は大きくなるばかりだし、最終的に「政略結婚の夫を裏切った、女王の不義密通」という形でことが明るみに出た場合、愛人のアドルフくんは国民の敵にもなりかねないわけで)
やっぱりもう、諦めて国外に行くしかないんじゃないかな……
そういう内容の神託を下してみようかな? と女神は考え始めた。
その間にも、アドルフ青年は切々と女神へと懇願を続けていた。
「この上はもう……、ぐうの音もでないほど、誰にも異を唱えようがないほど、幸せな結婚をしたい!!」
感情がこもりすぎたのか、それは叫びとなって神殿に響き渡った。
女神は声に出さずに、えーっ!? と叫ぶ。
(無理だと思う! 絶対に、相手が危ない! 女王の恨みを一身に浴びて、毒殺か謀殺されると思う……! たとえ女王に年頃の娘がいたとしても、そういうただでさえたがの外れた女は娘でさえ目の敵にすることがあるから、気になる男をとられたってだけで娘を殺るかもしれないんだよ!? いわんやどこのお嬢さんをや、よ!)
アドルフくんには残念なお知らせだけど、厄介な女に見初められた時点で、君は結婚を諦めるしかないと思うんだなぁ……。
しみじみと、女神はそう思った。アドルフは本当に可哀想だと思うのだが、犠牲者を増やす方向の願いは聞けない、とも思う。
これはもう諦めてもらうしかない……。
でも、本当にかわいそうだから何か加護を与えたい、と女神は考えた。
その女神の目の前を、すうっと黒い子猫が通り過ぎた。何気なくその動きを目で追いかけていると、再びアドルフが血を吐くほどに叫ぶ声が耳に届く。
「豊穣の女神、あなたはひとびとに良縁をもたらす愛の女神でもある! どうか……どうか陛下に正しき道をお示しください。王配殿下は誠実で穏やかな人柄です。陛下とは良い関係を構築できる可能性があるのです。そして私にも、どうか良縁を! 爛れた関係ではなく、このひとを幸せにするために生きると、日々に張り合いが生まれるような奥さんを!」
ああ……。
それはひととして、望みすぎとは言えないくらいのささやかな願いだと思う。
これだけ不運に遭ったあとの君の願い、私だって叶えてあげたい……。
女神は、しかしそれは肩入れしすぎではないか? と悩みつつ、黒猫を見る。
視線の先で、黒猫があふれた供物を並べるための、増設された祭壇に飛び乗った。それは不安定な作りだったらしく、ぐらっと揺れて倒れかける。
(あぶない!)
「あぶない!!」
実体を持つアドルフが叫び、すばやく走り込んで猫を手中に収めた。しかし、離脱することはかなわず、倒れた祭壇の下敷きとなってしまう。
ぐあ、と辛そうな悲鳴がその口から迸る。
助けられた黒猫は、すぐさまその手から飛び出し、まっすぐに女神の元へと走り込むと、顔を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
その瞬間、女神の中でなすべきことが決まった。
猫に手を差し伸べ、実体化のための力を借りる。猫の体に入り込み、そこへ神力を流し込むと、修道女の姿へとまたたく間に変化をした。
振り返る。
アドルフの元へと、駆け寄った。
「騎士さま、大丈夫ですか!? いまこれをよけて、お助けいたしますからね!」
「き、君は……? どこから? いつから……?」
突然現れた修道女に対し、アドルフは驚きを隠せないようであったが、女神はその問いを黙殺し、祭壇を持ち上げた。
おそらく、本来なら大の男二、三人を必要とするであろう重量があったが、女神は難なくそれを浮かせてアドルフを救い出すことに成功し、元の位置へと戻すところまでやり遂げた。
「ありがとう……うっ、痛……」
気丈に御礼を口にしたものの、足を挟まれていたアドルフは起き上がれない様子。
女神はふーっと息を吐き出すと、アドルフのそばにしゃがみこみ、その体を抱え上げた。
「!!??」
「動かないでください。足を骨折しているのでは? 明るいところで見て、治癒魔法をかけます。痛いとは思いますが、少しの間我慢してくださいね」
アドルフは随分と体格が良く、修道女姿の女神よりも一回り大きかったが、女神はその体格差をものともせずに、しっかりとした足取りで月明かりの落ちる場まで彼を運んだ。
明るい場所で顔を見合わせると、アドルフは女神が怪物でもなんでもなく、素朴な修道女であるとわかったらしい。
それでも、少しの間呆然としていた。
やがて、治癒魔法をその身に受ける頃には、落ち着かない様子で頬を染めて横を向いていたが、聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いていた。
女神よ、願いを聞き届けてくださってありがとうございます。
この良縁に感謝を、と。
緊急事態とはいえ、黒猫の肉体を借りて女性の姿へと実体化した女神は、その体に見合った寿命を迎えるまで、生ある者として過ごす定めにある。
さて、今生はこの修道女の姿でどう生きていくべきか――
悩む間もなく、「女神の繋いだ縁」と固く信じるアドルフにかき口説かれることとなった。
女神は「女王に対抗するためにも、他の女性を危険にさらすよりはマシかもしれないな」と自分に言い訳をしつつ、その求愛を受け入れることにしたのだった。
女神の知恵を持つ修道女は、それから長いこと、女王の魔の手から彼を守り、彼の生きがいとしての生涯を過ごした。
★最後までお読み頂きまして、どうもありがとうございます!
シトロンケーキは女神(修道女)が美味しくいただきました。
このあとの女神VS女王 ちょっと書いてみたかったです(*´∀`*)