イスタンブール1453 ②
『サラス書簡』(抜粋)
(コンスタンティノス)王は私に言った。
「余はビンビ・レイラスの最終夜話が読みたい。最終夜を記した本を探索し王宮にもたらすべし」
王にはまだ言っていないのだが、私はすでにそれを持っている。
だが、この不吉な本を王に献本するのはためらっている。
これまで多くの権力者と国を滅ぼしてきたという伝承を持つこの本を。
(中略)
王から繰り返し催促を受けた。明日私はこの本を携え王宮へ向かうことにする。
夜半千一話目を私は再読した。恐ろしくて不快な話だが何を意味するのか理解できない。
最後の言葉は判読不能である。
(中略)
本日、王宮図書館にて待ちかねていた王が本を閲覧した。
最終話を黙読した後、長き沈黙あり。
王は青ざめつつ私に笑顔を向けたが、顔は引き攣っていた。
泳ぐような目線で周囲を見渡し、小さな声で私を労った。
「ご苦労であった。これは地下墓地に安置せよ。一切の口外を禁ず」
私が解読できなかった箇所を王は読めたのだろうか。尋ねることはできなかった。
2019年のイスタンブールはまだコロナの世界的な流行直前であり、多くの観光客で賑わっていた。
だがこの日本大使館の最奥にその喧噪も届かない。薄暗くひんやりとした、そしていくぶん埃臭い資料室で私はようやくその文書を読み始めた。
その『サラス書簡』からいくつかの注目すべき文章を抜き出しては写本していくが、慣れぬペルシア語でありすべてを読むだけでも与えられた時間があまりに短い。
それにしても不可思議な叙述だ。『意味がわからない』『判読不能』というのはストーリーを指すのか言語学的な意味なのか。
イスマエルサラスは謎の多い人物ではあるが語学…特に中東から東欧の言語に恐ろしく堪能であったと伝えられ、そのサラスの読めない文献がこの時代にそう沢山存在するとは思えない。
私は本文中間に長々と書かれた都市防衛の話や金銭出納関係を飛ばし、書簡の最後の部分で読む手を止める。
『オスマン軍の闖入とともに私は都より脱出を試みよう。オルハン王の命じるところあり。砂漠の知恵と呪いの結晶を海の十字架の元へ。赤き月をアラベスクに載せよ』
この記述は何か思わせぶりだ。『オルハン王』とは誰だったか。確かオスマン帝国勃興当時の王にその名がなかっただろうか。
時は切迫していて、コンスタンティノープルは現皇帝メフメト2世に包囲され、攻め落とされようとしている。多分私の記憶が確かならここで出てくる『オルハン』とはそのメフメトと皇帝の座を争って破れ、東ローマ帝国に亡命していた人物であったと考えられる。であったら、彼は随分恐怖を感じていただろう。自分を追って殺しにきたくらいに感じていたかもしれない。
そのオルハン王が『砂漠の知恵と呪いの結晶を海の十字架の元へ。赤き月をアラベスクに載せよ』だ。まるで暗号だが…私はどこかでこれとよく似た表現を見た覚えがある。
そうだ、数年前に見たアントワーヌ・ガランの日記ではなかったか。『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』で繋がる二人の共通の修辞句…何かの手がかりなのかもしれない。
きっかり2時間後、私は大使館から追い出された。約束通りとはいえどうにも短すぎる。
明日もう一日だけ、残り2時間がリミットだ。その間に何らかの、そう、次の調査へのきっかけだけでも得たいものだ。明日は後半のあの記述とガランの日記をつきあわせてみよう。
私は凝った首を叩きながらホテルの方向に向かって歩き始めた。
イスタンブールは『新市街』と名乗っていても古い石畳の道が多い。
物思いに耽りたかったため観光客の多い道を避けて細い路地にさしかかった時、後方から話しかける者がいる。
「Siz Bay Higashikata mısınız? sırasında seni rahatsız edeceğim」
(東方先生ですか。研究中にすみませんね)
背広の3人組、その一人から発せられたトルコ語だ。
そろって無表情に私を見下ろす3人、中心にいる黒縁眼鏡の男はやや年嵩で四十代半ばくらいに見える。残りの二人は私の両脇に立ち、すでに私の移動を許さない格好となっている。
勘の鈍い私でもわかる。これは危機だ。
「(あなた達は誰なのか。私がトルコでやっていることは…大使館員かトルコ国家の担当職員くらいしか知らないはずだ。私はそう聞いている)」
私がゆっくりのトルコ語で応えると、黒縁眼鏡は微笑んで英語に切り替えた。
「トルコ語がお出来になるとはさすがです。詳しいお話をお聞かせいただきたい。移動を願います」
両脇の二人が物も言わずに私の腕を抱えた。
二人とも大柄でガッチリした体格であることに私は気づいて慄然とする。
さらに路地の人気の無い方向に引きずられた。
どうやら私は拉致をされようとしているらしい。
「どういうことだ。私に触るな。君たちは誰だ」
初めて右側の男が口を利いた。
「ご心配なく。れっきとした担当職員です」
その声に私が右を向くと左側から刺激臭がする。私の眼の前は顔の大きさほどのタオルで覆われ、視界は真っ暗となった。
大声で助けを呼ぼうとする前に私は意識を失った。
アルフ・ライラ・ワ・ライラ 第九百九十九話 「運命を運ぶ絨毯」
インドのある地方の王朝、王の名前をラージャ・ガネーシャという。
彼には三人の息子がいた。
長男フセインは金色の眼を持つ大男。
次男アリは野望を隠さぬ赤髪の小太り。
末の息子アーメッドは優しいが気の弱い小男。
それぞれ見所はある(とガネーシャ王は思っていた)がどこか次代の王としては物足りぬとも感じていた。
またガネーシャ王は病死した兄の一人娘であるヌーロンハルを引き取り、幼少の頃から我が娘のように可愛がってきた。このヌーロンハル姫が美しく成長し、三人の息子は揃って彼女を自分の姫としたいと願った。
フセインは姫の気を引こうと言う。
「我の妻とならば国中の鹿をすべて狩ってきて、その首をここに並べてやろう」
姫は怖気を震った。そんなことを誰がしてほしいと思うのだろうか。
アリも言った。
「俺の妻になれば隣の国に攻め込んで全員姫の奴隷にしてやろう」
姫は目眩がする思いだった。彼女は争いごとが嫌いなのだ。
アーメッドは少しだけ控えめに言う。
「庭に美味しいリンゴの木を植えたんだ。実がなったら一緒に食べよう」
姫は安堵したが、王としての資質には不安を持った。
それでも彼女はガネーシャ王の命として誰かを婿にとらねばならない。
気楽に安穏と暮らすには末子のアーメッドがいいだろうが、王は納得するだろうか。
そんなある日、ガネーシャ王が三人の息子に命じる。
「ヌーロンハルが最も気に入る贈り物をしたものを姫の伴侶とし、同時に跡継ぎに決めよう」
姫の最も怖れる事態となった。兄二人の妻では気が休まらない。三男坊の妻ならば平穏な日々を送ることも可能だろうが彼が二人の兄と何かを競って勝てるとはとても思えない。
とはいえヌーロンハル姫には成り行きを見守る以外のことは許されていない。
三人の息子はそれぞれ贈り物を得る旅に出かけ、約束の一年後に都の近くでおちあった。
長兄フセインは自信満々だ。
「見よ。空を駆ける絨毯だ。どこまでも飛んでいけるぞ」
次兄アリも胸を張る。
「俺の方がすごい。何でも見渡せる水晶の玉だ。俺の前ではどんな秘密も保てない」
末弟アーメッドは幾分おずおずと呟いた。
「このリンゴの香りはどんな病人も癒やします。もし僕たちの父さんが不治の病に犯されても」
二人の兄がその言葉を遮った。
「父上が死にそうになっても治すんじゃないぞ」
「親父にあまり長生きされては困る」
それから三人はお互いの贈り物について感想を言い合いつつ酒を酌み交わしていたが、久しぶりに愛しい姫の顔を見たくなったアリ王子は水晶玉に命じた。
「ムジャダニャキ・ハ・チーズ・ディカオ(世界のすべてを見せよ) 愛しい姫の顔を」
水晶玉を見たアリが叫ぶ。
「二人とも、見てくれ」
玉を三人で覗くとそこには病で苦しむ愛しいヌーロンハル姫の姿が見えた。
玉の中で寝台の側のガネーシャ王が天井を睨んだ。
「三人の息子が戻ってくる前にこんなことになるとは」
医者も言う。
「もう長くはないと思われます。ご覚悟を」
「何ということだ。すぐ戻らねば」
次男アリが水晶玉から顔を上げた。
「兄さん、ここから王宮まではまだ三日はかかるよ」
三男アーメッドは絞り出すように言う。
「任せろ。二人とも俺の絨毯に乗るのだ」
長兄フセインは空飛ぶ絨毯を取り出し、三人がその上に乗った。
「アルビー・パラ・チャン・レガイン 王宮に行くのだ!」
フセインが唱えると絨毯は空に舞い上がり、ヒュンと砂漠の上を飛び始めた。
「すごい速さだ。驚いた」
アーメッドが目を丸くした。
本当であれば三日三晩かかるはずの道のりをたった数刻で辿り着き、三兄弟が王宮の王と姫の元へ走った。
「おお、王子達よ。よく帰った」
ガネーシャ王は手を広げたが、表情は暗いままだ。
「だが…麗しのヌーロンハル姫はもう…赤き螺旋の階段を昇り始めた」
王が姫を悲痛の表情で見下ろす。
だが三男アーメッドがそれを遮る。
「父上、まだ大丈夫です。私のリンゴを」
アーメッドが姫を抱き上げ、その鼻先に魔法のリンゴをかざす。
「癒やしの果実よ。姫の病を治癒せよ」
真っ白な顔色の姫がほんの少し鼻先をピクピクと動かした。
それからゆっくりと目を開け、頬には薔薇の色がほんのりと戻って来た。
「あら、アーメッド。お帰りなさい」
そう言った姫はポカンと口を開けて自分を見ている王子達と王の顔を順番に見回した。
「皆さん、お揃いで…。あの…どうしました?」
それから自分の肩に手を回しているアーメッドに気付き、真っ赤な顔で離れた。
「まあ、アーメッド、恥ずかしいわ。でもいったい?」
ガネーシャ王は泣き笑いで神に感謝をして天井を見上げ、アーメッドが恥ずかしそうにモジモジとしている。
フセイン王子とアリ王子は姫の快復を喜びつつ、少し複雑な表情を浮かべた。
姫が床から離れたそれから三日後、ガネーシャ王は三人の息子に告げた。
「アリの水晶玉で姫の危篤が判明し、フセインの絨毯で赤き螺旋階段の手前に間に合った。そしてアーメッドのリンゴで姫は快復したのだ。三人の宝物はすべて姫の命を救う大役を担った」
フセインが王に尋ねる。
「父上、ではヌーロンハル姫は誰の妻となるのですか」
「お前達のうち誰が矢を遠くまで飛ばすか、それで決めることにする」
王の言葉に兄弟のある者はほくそ笑み、ある者は下を向く。
無理もない。これは長兄の剛力フセインが絶対に有利だ。
傍らで静かに聞いていたヌーロンハルは一計を案じた。彼女の心はすでに三男アーメッドの元にある。
大きな弓をつがえた一番手、フセインの耳元に姫が囁いた。
「フセイン様、思いっきり遠くへ飛ばしてくださいな」
「おう、何と可憐な願いのヌーロンハル姫。任せておけ。地の果てまで飛ばしてやろう」
剛弓をギリギリと引き絞ったフセインは思いっきり弓を飛ばした。
弓はグングンと遠くへ飛んでいって見えなくなった。
一同が驚愕の表情で弓の消えた地平の彼方を眺めているとヌーロンハル姫が王にコソリと言う。
「一体どこへ飛んだかわからないのでは遠くへ飛んだ証明もできません。失格ではありませんか」
姫から手を握られながらそう囁かれたガネーシャ王は頷いた。
「フセインは失格とする。覆したければ飛んだ矢を見つけて持ち帰れ」
砂漠に落ちた一本の矢を見つけるなど不可能だ。フセインが次男アリに視線を向ける。
「お前の水晶玉を貸してくれ。矢を見つけることもできるだろう」
アリはニヤリと笑ってそれを断る。
「さて兄さん、僕の番だ。そこをどいてくれ」
射出台の上に立とうとするアリの耳元にまた姫が近づいて囁く。
「あの月の印に矢を射ることは出来ますか?勇敢なアリ王子様」
見れば王宮の広場、その外れに国の象徴である赤い旗がはためいている。
その旗の中央には三頭の獅子が支える金色の三日月が輝く。
次男アリは武者震いをした。
「任せておけ。あの三日月の真ん中を射貫いてみせよう」
長男フセインほどではないが、これまた剛弓を引き絞った。
矢はブンと音を立てながら真っ直ぐ走り、見事金の月を射貫いた。
そこにいる全員が「おう」と感嘆するなか、また姫は王に囁いた。
「ガネーシャ王の御印を射抜くなど、アリ王子には反逆の思いがあるのでは」
ハッとして王がアリに告げる。
「誠に尤もだ。アリ王子よ。其方の下心を読み取ったぞ」
「誤解です!父上!父上!」
ヌーロンハル姫はアリの水晶玉を取りあげて唱えた。
「ムジャダニャキ・ハ・チーズ・ディカオ(世界のすべてを見せよ) 兄の想いを」
すると玉は三人が都に入る前の様子を映し出す。
「このリンゴの香りはどんな病人も癒やします。もし僕たちの父さんが不治の病に犯されても」
「父上が死にそうになっても治すんじゃないぞ」
「親父にあまり長生きされては困る」
…ガネーシャ王は激怒し、二人の兄を処刑することに決めた。
次男アリはこう言って、首を落とされた。
「命を助けたのに性悪女め。忘れないぞ」
長男フセインは首を切り落とされる寸前に逃げ出した。
あの空飛ぶ絨毯に乗って王宮から飛び出したのだ。それでは誰も追いつけない。
「アーメッド、ヌーロンハル。いつかあの矢を見つけたら戻ってくる。そうしたら俺が本当の王だ。覚えておけ」
最後に矢を足下にポトリと射たアーメッド王子がガネーシャ王の後継者に選ばれ、ヌーロンハル姫と結婚した。
最初は毎日を楽しく過ごしていた王子と姫だったが、何ヶ月かすると二人の兄王の顔が浮かんできて眠れなくなる。
フセイン王子が矢を見つけ、絨毯に乗って戻って来たら…
そして思い出した。アリの水晶玉はどこだったか。あれをフセインに持って行かれたら砂漠の矢の場所もわかってしまうであろう。
アリ王子の処刑の時に騒動に紛れて消えてしまった水晶の玉を彼らは血眼になって捜す。
アリの私室、王宮の外れ、書庫、宝物庫…果てはアリの墓まで掘り起こしたが見つからなかった。
あれから10年以上経つ。
ガネーシャ王はすでに亡く、アーメッドが王位に就いた。
だが未だにアーメッド王は怯えている。フセインが水晶玉と失われた矢を持って都に戻る日を。
空飛ぶ絨毯を動かす呪文は『アルビー・パラ・チャン・レガイン(赤き月をアラベスクに乗せよ)』
1522年 ロドス島
オスマン軍のロドス島包囲戦も最終段階である。厄介な騎士団も殲滅間近といっていい。
セリム一世はエーゲ海に浮かぶ十字軍の重要拠点をまたひとつ潰すことに成功したわけだ。
しかしこのロドス島は東地中海における彼らの最終拠点といえる。
これで彼は聖騎士団とは名ばかりである海賊達の根城を根絶できることに一安心できるはずだった。
あの不吉な本を読むまでは。
セリム一世はコンスタンティノープルを陥落させ、1000年余り続いた東ローマ帝国を消滅させたあのメフメト二世の孫に当たる。
コルクトとアフメトという二人の兄を持っていたが、政争の末、末弟である彼が王位に就いた。
珍しいことではない。オスマン帝国内部はそんな血腥い跡目争いの連続である。
長男のコルクトは美男子で偉丈夫、誰もが王の風格を認める王子であったがセリムは王の愛姫を使って彼を籠絡し、罠に嵌めて国から追放した。追放された時、彼に与えられたのは背に絨毯を乗せた一頭のラクダとその脚に嵌められた銀の輪のみであった。絨毯は彼の生母の形見であったが砂漠の真ん中で何の役に立とう。
しばらくしてセリムは側近に命じ、コルクトの行方を確認したが発見できなかった。
銀の輪を脚に嵌めたラクダの骨が50ファルサングも離れた砂漠で見つかったが、不思議なことに絨毯と彼の骨はそこに無かった。
次男のアフメトは聡明だが野望に満ち、自分の代になればオスマンからは陽の落ちるほど場所がなくなるほど広大な帝国となるだろうと豪語していた。
セリムは昔から王の側近である大臣を使った。彼のほんの些細な賄賂の痕跡を見つけたセリムはそれを材料に彼を脅し、王に様々なアフメトの噂を吹き込んだ。彼の反逆と謀反を信じた父王は激怒し、王宮内で彼の首を自ら刎ねた。
アフメトは一瞬で絶命したが、その首は王の近くに侍るセリムの眼の前に飛んできて、こう言った。
「俺の目はすべてを見通す水晶の玉だ。お前の未来はわかるぞ。楽しみだな、セリム」
セリムは震え上がったが、それでも数年後には予定通り彼が即位した。
オスマン帝国はセリム一世の戦略策略でさらに膨張を続け、いつしか彼には政敵もいなくなった。
さてそれからさらに20年ほどが過ぎる。
イスタンブールと名を変えた都市で造船に励んだオスマン帝国はその大船団をもってキリスト教文化圏の版図を狭めていた。
それに強く抗ったのがエーゲ海各地で海賊活動を行っていた十字軍騎士団であった。
しかし今や海上は封鎖され、抵抗の拠点ロドス島は完全にオスマン軍に包囲されている。
上陸に際しては激しい抵抗にあったが、それも徐々に鎮圧され騎士団の戦線は島の外れわずかを残すのみとなった。
そのロドス島の中央にある教会から妙な『財宝』発見の報がセリム一世に伝えられた。
基本的にオスマン軍の勝ち戦においてはその後しばらく略奪し放題、数日したところでそういった行為はすべて禁止とされる。
近海の船上にいるセリム一世に人の身体ほどもある大きな木の箱が届けられた。
ある将校から『これは宝かゴミか。異教の書物か。それとも我が同胞のものか』という但し書きをくっつけられて頑丈な柿の箱に封じられていたのは一冊の本であった。
セリム一世はしばらく本をめくっていたが、そのまま寝台に持ち込み徹夜で読み耽った。
その本が彼の精神状態を著しく揺さぶった。
「何ということだ。何ということだ。やはり兄は死んでいないのではないのか」
側近達はセリム一世の気が触れたのではないかと思ったが、王は真顔で彼らに問うた。
「近くに絨毯が飛んでいないか。この船の誰かが水晶の玉を持っているのではないか」
うわごとのように言った彼は高熱を出して寝込んでしまった。
「そこにいるのはコルクト兄さん!近づかないでくれ!」
「空飛ぶ絨毯がやって来る…水晶玉に写された未来が見える。おお、アフメト兄さん許して」
寝台でうなされる王の容体は悪化していった。
側近の一人に偶然にも文書博士がいて、恐る恐る本を覗き込んだ。
「アルフ・ライラ・ワ・ライラ…何と」
彼はセリム一世の父であるところのバヤズィト二世に仕え、この本の行方を捜したことがあったのだ。炎上するコンスタンティノープルの王宮から忽然と行方をくらましていた魔法と破滅の物語である。
その写本は数冊残っていたが、すべて最終夜の話が省かれていた。
曰く『最終話を目にした王は死に、国は滅する』
曰く『そこには悪魔と契約したものしか読めない言葉が書かれている』
彼は震える手で本を末尾までめくっていく。
そこには彼も初めて眼にする最終夜話…千一夜目の物語が書かれていた。
「おお…最終話が。これは間違いなく『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』の完本」
しかしページをめくる彼の手は少しずつ重くなり、顔色も冴えない。
近くにいた同僚が声をかける。
「おい、大丈夫か。本当に不幸を呼ぶ本なんじゃないだろうな」
「いや。大丈夫だ。確かに最終話は不吉で嫌な話だが…読めないのだ」
「読めない?かすれているのか?破れているのか?」
同僚は不思議に思って本を覗き込んだ。
そこには何やら物語が書かれていた。不思議なのは最後の『山羊の頭を持つ赤ん坊』が立ち上がって何かを王に告げる場面だ。
その言葉が読めない。
不思議な文字が羅列されている。ペルシアの文字のようで、ローマの文字にも似て、そして遙か昔に見た中国の文字にも似ている。何かの記号なのか。いや、確かに意味を持つ文字だ。文章博士の彼はそう確信するが、その確信が何に基づいているのか彼は自分でもわからない。
翌日セリム一世は船上で譫言を言いながら死んだ。
不思議で惨いことに一晩で髪がすべて白くなり、げっそりと痩せた『ミイラ』のようになって。
死の間際、一瞬だけ理性を取り戻した彼は不思議な遺言を残した。
「アラベスクに乗って死がやって来る。かの本は封印せよ。ロドス島の元の位置に埋めるべし」
この死から数年後、オスマン帝国は「レパントの海戦」でスペイン連合艦隊に大敗し、ゆっくりと衰退の途を辿っていく。
読んでいただきありがとうございました。
第3話です。四苦八苦して書いております。でき得れば今週末に続きを投稿したいと。
もしよろしければお付き合いください。
当然ですがこの物語はすべてフィクションです。
モデルにした人物や事件はもちろん存在しますが、場所や時制など概ねでたらめに近いのでお間違いなく。(例えばロドス島の占領とレパントの海戦の間は数年ではなく数十年の時が流れています)