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京都2022

2022年の初夏、短い梅雨が終わり西日本は記録的な猛暑に襲われていた。

枝出(しいで)元総理が京都の駅前で銃撃されたというニュースを知ったのは私が外出から戻ってネクタイを弛める前であった。騒然とした駅前の広場の様子がテレビ画面に映し出されている。

同時にテロップでは彼の心肺停止状態を伝えていた。

「…」

私は言葉を失い、フラフラとダイニングの椅子に座り込む。

妻が私のその様子に何か声をかけたようだが、私は気づかなかった。

足下が泥濘み、ズブズブとゆっくり沈み込んでいくような不安が胸の付近を覆う。

友人である彼の身を案じつつ、それより世界のすべてが色を失っていくような終末感が私の周囲に押し寄せていた。


私の友人で元総理、枝出晋太郎(しいでしんたろう)の死亡が伝えられたのはその日の深夜だった。






アルフ・ライラ・ワ・ライラ 第百五十二夜 「ハッサン王とクインビー」


その昔バグダットの蜂たちは元々一匹ずつ自分の家と家族を持ち、族長の元へ週に一度決められた量の蜜を持っていくのがきまりであった。

オス蜂のアリムは病気がちの母と幼い妹を養っていたが、働き者で毎日沢山の蜜を集めていたので豊かとはいえないまでも、幸せに暮らしていた。

だがあるとき、『女王』を名乗る巨大なメス蜂が街に現れ、様相が変わる。

徴税は過酷を極め、幼子は族長の元に差し出すよう通達が来る。

女王(クインビー)の周囲六方向をグルリと屈強なオス蜂が取り囲むそのコロニーは有無を言わせぬ圧力があった。


アリムは最初大人しく族長と女王の『ルール』に従っていたが、母親の病状が悪化したことと妹が女王に感化されてその六角形のコロニーに移り住んだことで激しく女王と族長に敵意を持つようになった。

洗脳された妹のセラームは実家に戻っては家中の蜜をかき集めて女王の元へと運んでいく。


心優しいアリムもついに堪忍袋の緒が切れた。

「二度とこの家に近づくな。母さんが食べるはずのゼリーに手をつけたら許さない」


セラームに聞く耳はない。

『兄さんこそなぜクインビー様の尊さがわからないの」


その後もセラームはアリムの留守を狙っては蜜やゼリーだけでなく、家財道具から何からすべてを女王のコロニーに貢いでしまった。

程なくして母親は飢餓で死に至り、貢ぐものがなくなった妹もコロニーから追い出され行方不明となった。


時のバグダットの街の王であるハッサン2世は聡明であり、そんな蜂たちの様子を心配していた。

そこで王は一部の蜂たちに擁立された女王が過酷な収税をしていることに意見するため、族長を呼びつけようとしたが、父王である1世が反対した。

「蜂には蜂の法があろう。内政に干渉するのはよくない」

彼は族長から毎週3万ダールの蜂蜜を賄賂として受け取っていたのである。


かのアリムも妹の家出以来何度となく王宮にその無法を訴え出ていたが、父王への忖度により訴状は握りつぶされた。


妹セラームの死体がバグダットの運河に浮かんだ朝、アリムは決心した。

「クインビーも六角形のコロニーも憎いが、何よりこの教団を放置している父王ハッサン1世が許せない」


その日、バグダット王宮の近くの公園で父王は『いかに自分が偉大であるか』という演説を民衆に向かって始める。これは長年の彼の習慣である。


その背後から一匹の蜂が襲いかかった。

本来なら蜂の一刺しほどで人の命が失われる訳はないが、怨念というのは恐ろしいものだ。アリムの怒りで肥大した針が父王の首筋をかすめ、静脈を食い破った。


父王の出血死に逆上したハッサン2世はただちにアリムの首を刎ねたが、数刻たって冷静さを取り戻す。

『俺をここまで追い込んだのは女王蜂と族長、そして何よりそれを保護したハッサン1世だ』

アリムの最期の言葉が彼の心に響き、彼は王として悔やんだ。


王は女王蜂とそのコロニーに関わったすべての蜂に罰を与えることとした。

族長の首を刎ねた後、女王を六つの部屋で取り囲む牢獄に幽閉し、生涯そこで過ごすよう命じた。

さらに残りのすべての蜂たちに『働き蜂』としての役割を与え、働くこと以外の日常を取り上げた。


その子孫達がバグダットの街の郊外にある養蜂場に今も棲んでいる。








私が枝出(しいで)と知り合ったのは彼が一度目の総理大臣を辞任した頃だから2012年の秋、ということになる。まだ入院中の元総理から呼び出された私はその理由がわからず緊張してその病室をノックした。


東方(ひがしかた)先生、ご高名は以前から」

枝出は私とほぼ同年配であったが、物腰の柔らかい態度で私を持ち上げようとした。


「いえいえ、高名などと…」

実際、私に高名などあるわけがなかった。

歴史学者の端くれに身を置く私ではあったが、極趣味的な古文書マニアがそのまま学問の道に迷い込んだようなもので学会からは概ね無視されていたし、昨春に大学を解雇されたところだった。


「東方先生、実は私は先生の著書の大ファンでして…」

枝出は私の本を2冊ベッドの横から取り出す。

それはまったくアカデミズムとは縁のないアングラ系出版社からのものと、もう一方は普通の人間なら手に取ることはまずない大学の学生に向けたテキスト本だった。


どういうことか私は狼狽した。どちらの本もマニアックというより、この沼のような場所にのめりこんでしまった人間にしか見つけることさえ難しいものだ。本当にこの元総理が私と同じ『謎の古文書マニア』だというのか。


「先生、これについて語り合いたかった。まず『山海経』から…」


「えっ、さ、『山海経』ですか…」


「それからこっちの本の『死海文書』と『ファイストスの円盤』についても」

前総理大臣が興奮して私の著書を指さしている。非現実的だった。


「落ち着いてください、先生。東方教授が驚いておられます」

そこで枝出は部屋の隅にいた側近から止められ、ようやく照れくさそうに頭をかいて深呼吸をした。

「失礼しました。今まで我慢をしていたので」


私は最初は居心地悪く、しかし最後は再び周囲に止められるまで気がつかないほど夢中になって枝出とマニアックな会話を交わすこととなった。そう彼は筋金入りのマニアであった。



枝出はこの春に健康不安で総理大臣を辞任し、この病院で休養を取っているところだった。前の選挙では連立を組む政党と併せても過半数が取れない惨敗を喫し、その責任を取った形でもあり『敗軍の将』ではあったわけだが、そんな暗さは微塵も感じさせなかった。


私はといえば収賄に関するスキャンダルで学内が派閥争いの嵐となったしわ寄せをもろに食った形で自主退職に追いやられていた。収賄で儲けたわけでも派閥争いで偉くなったわけでも何でもない私が何故…とボヤいても仕方がなかった。これが大学の学内政治なのだろう。

とにかく親分が派閥争いに負けてその親分からは何の恩恵にも預からなかった下っ端が切られたのだった。


規模や性質、精神状態にずいぶん差はあったが、二人が『人生山あり谷あり』の谷の箇所だったことが人間関係の距離を縮める要因となったのだろう。


私たちはこの初対面の数時間で『…先生』『…いや、センセイ』とお互い遠慮し戸惑って呼ぶ関係から『東方さん』と『枝出さん』と名前を呼び合うこととなった。




それから二ヶ月間で3回の呼び出しも要するに『元総理の暇つぶし』で終始するだろうという私の予感は外れ、思わぬ展開となった。

「東方さん、実はお願いがあります」


「…」

元総理から求められて差し出せる何かが私にあるとは思えない。


「私は来週退院します」


「それは…おめでとうございます」


「それで…まず退院しても…その…」

モジモジする53歳を見て、私は不安になる。

「退院して政治の場に戻りますが、…友人としてこれからも」


私もホッとして笑顔になった。

「もちろんです。今後もお付き合いできればこれ以上嬉しいことはありませんよ」


枝出は人の良さそうな笑顔を見せる。

「東方さんは大学復帰の願望はおありですか」


私は少し考える。

「そうですね…しばらく休んで、R大学であるとかF大学というような私と関連深い文学部からお誘いでもあれば…と思っています。だいぶ就職活動をしなくてはいけないでしょうが、ハハハ」


最後は苦笑いを浮かべて、冗談めかしてみたが枝出はゆっくり頷いた。




私にR大学の文学部から招聘があったのはその一ヶ月後のことであった。

示された勤務や研究の条件、給与面まで破格の待遇といってよかった。


その後定期的に私たちは会ったが、入院中の時のように数時間語り合うなどという余裕はお互いになかった。特に枝出は再び政界の中枢に近づきつつあるようで、ニュースで顔を見る方がずっと多くなっていった。


退院から5年待たず、彼は二度目の政権につき第2次枝出内閣がスタートする。

私は順調にR大学で研究三昧の日々を過ごし、その内閣がスタートしてほどなく定年を迎えたのだった。



久々に枝出から呼び出しがあった。

銀座の料亭で退職のお祝いをしてくれるという。

私はただ恐縮して遠慮した。そんな場所には免疫がない。


電話口で枝出はポツリと言う。

「東方さん、特別なお願いがあるのです。他の誰も排して」


私は緊張する。

「この5年間、幸せな研究者生活ができたのは枝出さんのお陰です。私にできることなら…とは思いますが」


「東方さんはもう研究を終わってしまうおつもりですか」


「…」


答えを見つけられずに黙り込む私に枝出がしみじみした口調で言った。

「ねえ、東方さん。私はこの政権が終わりを迎えた段階で引退して、図書館の運営をやりたいのですよ」


「図書館ですか」

まだ政権が発足して1年もたっていないのに。


「四国に大学を新設する計画があります」


「…はい」


「そこに併設して古文書を中心にした図書館を作りたいのです。一緒に館長と副館長をやって余生を過ごしましょう、東方さん」


「…」


「もちろん館長が東方さんで、私は副…」


「いやいやいや、そんな…」


「本気なんです、私は」


唐突な話ではあったが、私は感激した。

「枝出さん、いいですねえ。本当にそんなことが実現できたらどんなにいいでしょう」

数少ない話の合う友と古文書や稀覯本に囲まれて過ごす日々…まさに私が夢に見た余生だ。


「もう少し、時間はかかりますが…待っていてください。必ずやります」


日本の最高権力者が言っているのだ。期待してもいいのだろう。

私は電話口で静かに笑った。

「こんな嬉しいお話はありませんよ。ありがとうございます」


私の言葉の後、しばらく電話口の向こうが静かになった。

そして枝出が急に固い口調になって切り出す。

「お目にかかってから言うつもりでしたが…読みたいものがあります。その…将来の私たちの図書館にも出来うるなら、ぜひ入れたいのです」


「はあ…伺いましょう」


「『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』…の完本です」




彼がオス蜂の針で命を落とすのはこの5年後だった。








読んでいただきありがとうございます。もちろんフィクションです。ある程度モデルにした出来事や文献はありますが、人物・事件・文献・物語…すべて作者の創作です(紛らわしいとこもあるかもですが)。

この事件はまだ記憶に新しくて嫌な気持ちになった、という方がいらっしゃいましたら誠に申し訳ありません。

第2話は多分明日中に投稿したいと思います。よろしければおつきあいください。

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