思い
早朝、子供たちの誰よりも早く起きたユエは、のそのそとベットから降りた。
目ぼけた眼でジンのベットの前まで移動したユエは、そこでようやくいつもの日課をする必要がないことを思い出した。
長かった冬も終わり、暖かな春の訪れを感じる今日この頃。
今日は『グラストボーン学園』の入学試験日だ。
約一年も続いた修行は終わった。そしてそれは、ユエが朝早く起こす必要もなくなったということを意味する。
ユエにとって何よりも大切なジンとの時間が無くなることを、寂しく思わないと言ったら噓になる。
でも、それはジンが夢に向かって進んでいる以上仕方のないことであった。
ベットの上でスヤスヤと眠るジンを見つめる。
一年前と比べて随分逞しくなったジンではあるが、寝ている時の顔は、初めの頃と変わらず年相応の可愛らしい顔だった。
そんなジンの顔に向かって手を伸ばしたユエは、前髪をすっとかき上げた。
そしていつもの日課をするために顔をジンの額に近づける。
チュっと、乾いた音がなる。ユエはジンの額に口付けをしていた。
頬を紅に染めながら行われたその行為は、ユエの熱い吐息も相まってとても扇情的だった。
いつもならこれで終わりだが、物足りないと言わんばかりの表情のユエは、ジンが起きない程度に頬や鼻に口付けをしていった。
やがて満足したのか顔を戻したユエは、最後にこう締めくくる。
「…………大好きだよ。ジン兄」
顔を赤色に染めたユエの表情は妙に情欲的だった。
(起きてるなんて言えねぇ………!)
なお、ジンは普通に起きていた。
◇
「……受験票もある、えーっと時計も入ってる、着替えもこれで足りる。筆記用具も入れ……てるな、ヨシ!」
おっと、一番大切なものを忘れてた。
俺はベットの下から大きな箱を取り出すと、おもむろに開け放ち中にある”お宝本”を取り出した。
「やっぱこいつがないとな」
向こうにいって買う暇があるかどうか分かんないからな。貴重な物資だ。
「……準備終わった?」
「へあっ!?」
急に後ろから声を掛けられて肩が跳ね上がる。
俺は急いでカバンの中に本を入れた。
「……どうしたの? 変な声出して」
「い、いや、何でもない。急に声を掛けられてびっくりしただけだ」
しかも、よりにもよって来たのがユエだった。
もちろん嫌なわけではないが、今朝のことを思い出して、変な気持ちになる。
「……そろそろ行かないと汽車に乗り遅れるよ」
「お、おう、分かった」
ユエにそう急かされ孤児院の前まで行く。
そこにはシスターや孤児院の子供たちが集まっており、俺の門出を見に来てくれていた。
その中にはエマやローザ、ケビンの姿もある。
みんなの前にたった俺にシスターが言う。
「……私を待たせるとは、いつの間にか随分大物になったんですね」
「す、すいませんでした!」
「ふふふ。冗談ですよ」
「……真顔で冗談いうの止めて下さいよ」
「では、あまり時間もないので、ジンから一言もらいましょうか」
「俺からですか?」
「はい」
参ったな。何も考えてきてないぞ。
「悩む必要はありませんよ。貴方がこれから何を成し遂げに、どこに行き、何をするのかをそのままいえばいいだけです」
はは。確かにそれなら簡単だ。
「では……。俺の夢はガルド大陸最強の異能者になることだ。そのために、俺は今から『グラストボーン学園』の入学試験を受けに行く」
俺は言葉を続ける。
「まだ何も成し遂げてないけど、俺は必ず試験に合格して、夢への一歩を踏み出してみせる。夢が叶うまで何年かかるか分からないけど、俺絶対諦めないから!」
声を出すたびに、気持ちが高まってくる。
「だから――――だから、見守ってて下さい! 俺が夢を叶える所を!」
俺がそういって頭を下げると、少しの間沈黙が続いた。
不安になった俺の耳にパチパチと大雨のような音が聞こえた。
思わず顔を上げると、そこには笑顔で拍手をしているみんなの姿があった。
「夢を追い続けなさい。ジン」
シスターの優しい声。
「ジンーーー! 頑張ってーー! 応援してるよーー!」
エマの明るく元気な声。
「……精々死なないでよね」
ローザの素直じゃない声。
「うおおおおお! がんばれよーー! ジーン!」
ケビンのバカっぽい叫び声。
みんな底抜けに明るくて、底抜けにいい奴ばかりだ……。
くそう。油断したら泣いちゃいそうだ。
そして、最後にこの一年で随分大人っぽくなったユエが。
「……貫き通してね、ジン兄」
何をとは言わない。色々な思いのこもった言葉だった。
ボソッと「……優しくね」という言葉が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。うん、きっとそうだ。
あ、そうだ、行く前にユエに言っておかないといけないことがあった。
「ユエ」
「うん」
俺の呼びかけにユエがこちらを真っ直ぐと見つめる。
「――――――俺もユエのこと、好きだぞ」
「え」
そう言い切った俺は、最後にみんなに向き直ると。
「みんなありがとう! 俺行ってくるーーー!」
と言って、背を向けて走り出した。
――――――――――――
「……行っちゃったねー」
ジンが走っていった方向を見ながらそう呟いたエマは、隣にいるユエに話しかける。
「ねえ、ジン最後なんて言ってたの?」
「…………」
「ユエ? おーい」
「…………」
手を顔の前に出してヒラヒラさせるが、まるで反応がない。
と思ったら、ユエの顔が急速に赤くなっていった。
「…………好きだって……」
「え?」
そう言い残したユエは、限界がきたのか後ろにゆっくり倒れこんだ。
「ちょっとユエ!? どういうこと!? って今はそれどころじゃない! シスター! ユエが大変なのー!」
シスターが医務室に連れて行ったことで事態は収まったが、孤児院はしばらくこの時の話で持ち切りになったのであった。