母
子供たちが眠りについた頃、トレーニングを終えた俺はシスターの部屋の前まで来ていた。トントンと、ノックをすると中から「どうぞ」という声が返ってくる。
「失礼します」
そう言いながら、木製のドアを開ける。
シスターの部屋と言ったが、来客用のソファーと机が置かれ、奥に事務机がポツンとあるだけのその部屋は、シスターの私室というより応接室といった表現のほうが正しいだろう。
「呼び出して申し訳ありません。お詫びと言っては何ですが、少し高めの茶葉を使ってみました」
机の上で、コポコポと紅茶を入れていたシスターはこちらを振り返ると、紅茶をソファーの前の机に置いてそう言った。
俺は、静かにソファーに座りシスターに視線を向けた。
肩まで伸びた銀色の髪と、引き込まれそうな黒い瞳の対比。きめ細やかで、陶器のような白い肌が神秘的な雰囲気を感じさせる。
身内の贔屓目を抜きにしても、とても魅力的な女性だと思う。その姿は、俺が幼い時から変わらず若々しいままだ。
「……紅茶は嫌でしたか?」
「え? あ、ああ、いやそんなことはないです。」
申し訳なさそうにそう言うシスターに、俺は慌ててそう返事をして紅茶を手に取った。
「そうですか。それならよかったです、ところで――――」
ずずっと紅茶を飲む。うん、美味しい。
「――――ジンは、胸の大きい女性が好みなのですか?」
「ブフゥゥ―――!」
「……汚いです」
「すいません……」
台所から持ってきた布巾で机の上を拭く。
あまりにも唐突な質問に驚いて、つい吹き出してしまった。幸いシスターにはかからなかったので、最悪の事態は避けられた。
「―――もうすぐあなたにも、独り立ちの時期が来ますね」
机を拭いている最中にそんなことを聞かれて思わず、手を止めてシスターの方を見る。
「……やりたいことは見つかりましたか?」
シスターからの質問に決心したはずの心がザワつく。
だがもう決めたことだ。俺は孤児院のみんなが幸せであることのほうが大切なんだ。
「はい。王都にあるフルス商会で、見習いとして働きたいと思っています。」
フィオナ王国にある孤児院のほとんどは、国からの援助金をもらって運営している。そのため、いつまでも孤児院にいることはできず、16歳になると独り立ちをしなければいけない。
今年で俺は15歳だ。来年にはここを離れなければならない。
「それがあなたのやりたいことですか?」
「はい」
間髪入れずに返事をする。シスターの言いたいことは分かっている。
だが俺の気持ちは変わらない。
「いつ頃からでしょうか」
「え?」
「―――貴方がわたしに敬語を使うようになったのは」
てっきり説得されると思っていた俺は、あまりに予想外な問いに返事をすることが出来なかった。
「恐らくその時からなのでしょうね。貴方が夢を諦めることを決めたのは」
―――俺がシスターに敬語を使うようになったのは、初等部の学校に通っていた時。
「貴方は優しい子ですから。自らの夢を叶えるために必要なものを知ってしまった時、私たちに負担を強いてしまうことが耐えられなかったのですね」
―――学費が免除される初等部、中等部の学校とは違い、高等部からは学費が必要であることを知ったときだった。
「敬語を使うことで私との間に壁を作り、自らの夢を押し隠した」
あの時から俺の決意は決まっていた。
働いて、少しでもお金を仕送りすることで、今までの恩を返したかった。
「夢を諦めるのは、夢を追いかけることよりもはるかに困難なことです」
なのに。
「幼いながら、その決断をすることができた貴方の強さを私は誇りに思います」
なんで。
「でもね、ジン」
こんなにも。
「貴方は私にとって大切な可愛い息子なの。貴方がどれだけ距離を置こうとしてもそれは変わらない」
―――母さん。
「息子の夢を応援しない親はいないわ。それがどれだけ大変なことだとしても」
あぁ……もう……。
「―――夢を目指しなさい、ジン。」
――――限界だ……。
もう、涙は止まらなかった。