9話 就労条件の変更を希望します!
「フィル様!! やはりこの契約書はおかしいです!! 明らかに就労条件が法律違反です!!」
私は昨夜、悔しさのあまりフィル様と交わした契約書を米粒みたいな文字までじっくりと読み込んだ。その条件に顔を青くしながら、深く考えずにサインしたことを心の底から後悔した。
寝室は一緒だったけれど、中央に衝立が置かれて配慮はされていた。どうせ配慮するなら部屋を別にしてほしかった。
そこで朝一であの日受け取った契約書の控えを執務机に置き、バンッと両手を叩きつけた。法律違反なら訂正してもらえるのではないかと思ったのだ。
……勢いがつきすぎて、手のひらが地味に痛い。
「ラティ、おはよう。今日も美しく聡明だね」
「あ、おはようございます。それより、この条件は修正してください!!」
「どの条件?」
意外にもフィル様が素直に話を聞いてくれるので、希望の光を感じて法律違反になりそうなところを挙げていく。
「まず、この二十四時間勤務がおかしいです! いくら専属治癒士でも休みは必要です!!」
「うん、なるほど。他には?」
「それから、ここの夜会にはパートナーとしてドレスで出席するとありますが、これでは治癒士の仕事ができません!!」
「ああ、そうか。まだある?」
「ここもおかしいです! 身も心も完全に治療するってなんですか!? 心の治療は専門外です!! こちらは専門の治癒士に診てもらってください!!」
「うーん、それは……」
肩で息をしながら、おかしなところを片っ端から指摘していった。
フィル様はシュッとした顎に手を添えて、真剣な表情で考え込んでいる。さすがにこの条件がおかしいと理解してくれたのだろうか?
「ラティ」
「はい」
「言いにくいんだけど、今の申し立てはすべて受けつけられない」
「なぜですか!?」
そんな馬鹿な話があるかと震えていると、今度は一枚の用紙を取り出してくる。
嫌なことにその紙には見覚えがあった。ひらりとひっくり返された上部に【宣誓書】と書かれている。
「これはお互いに契約書の内容を遵守するという宣誓書だ。つまり僕は契約が続く限り、専属治癒士としての報酬をラティに払い、婚約者として扱うと神に誓ったことになる。そしてここを読んでくれる?」
「——いかなる場合も契約書の内容を変更しない」
「そう、だからとても残念だけど、僕はラティのお願いを聞くことができないんだ」
そう言って、フィル様は神々しい微笑みを浮かべる。あの時、この紙切れが自分の首を絞めることになるなんて、思いもよらなかった。
専属治癒士になるにあたって契約書を交わすと言われ、一番最初に出されたのがこの書類だった。
あの時は私のような立場の人間でも、王族は約束を守ると約束するためのものだと思っていた。我が国の王太子殿下は、どこまでも誠実なお人柄なのだと感動すらしていたというのに……!
「だって、これ魔法宣誓書じゃないですか——!!」
「うん、だから昨日から言ってるように、もうあきらめて?」
私はガックリと項垂れた。お互いに魔力を込めてサインすれば魔法契約したことになり、絶対的な効力を持つ。
宣誓を取り消すには、お互いが納得したうえでもう一度魔力を込めてサインしなければならない。
「あの、条件を修正してほしいので、もう一度サインしてください」
「僕が一度交わした約束を、簡単に破るような男に見える?」
腹黒王太子が用意周到すぎて、もうどうにもならない。今ではその顔に浮かべている笑顔さえ胡散臭く感じてしまう。なによりもこの宣誓書は、絶対に後で文句言わせないためのものだ。
「フィルレス殿下、あまりラティシア様を追い詰めない方がよろしいのではないですか?」
ここでずっと沈黙していたアイザック様が、初めて私のフォローをしてくれた。
フィル様の容赦ない策略に打ちひしがれていた私は、アイザック様が救世主に見える。やっとできた味方にもっと言ってと必死に視線を送った。
「いくらアイザックでも、ラティの視線を釘付けにするのは許せないな」
途端にフィル様が氷のように冷たい視線をアイザック様へと向ける。普段穏やかな微笑みを浮かべるフィル様からは、想像できないほど冷酷な笑みだった。
「っ! 申し訳ございません。ラティシア様、どうか我が主人の心と身体を全力で治療してください」
ほんの一瞬で味方がいなくなった。いや、そもそもアイザック様はフィル様の補佐なのだから、最初から私の味方ではなかった。完全にアウェイだ。
こうなれば、やはりあえて三大公爵の不興を買って婚約者に相応しくないと認めてもらうしかない。
罪にだけは問われない程度に失礼なことをすれば、最悪専属治癒士をクビになるくらいで済むだろうか? もし、うっかり国外追放されればラッキーだ。この腹黒王太子から逃げられる。
ニコニコと機嫌よく微笑んでいるフィル様に、アルカイックスマイルを返して本業に取り掛かることにした。
朝の健康状態をチェックして、昨夜と変わりないか、疲れは残っていないかなどを確認する。
毒を盛られたこともあったから、わずかな変化も見逃さないように瞳孔の開き具合までしっかりと診た。
「ラティの健康チェックならいつでも大歓迎だよ」
「そうですか」
「だってじっくりと見つめ合えるだろう?」
「はい、終わりました」
「つれないラティもたまらないね」
しつこい患者様に対応するようにしたけれど、なにも堪えてないらしい。むしろ普段見ることのない熱を孕んだ瞳で見つめ返されて、この性格を知らなければうっとりしてたかと思うと腹立たしい。
「ラティ、昨日は隣に君がいると思うとなかなか眠れなかったから、疲れが取れていないんだ。早速だけれど治療を頼めるかな?」
「……承知しました」
「助かるよ。ではそちらのソファに座ってくれる? できるだけ端に座ってほしい」
「端にですか? かしこまりました」
私がソファの肘掛けにぴったり添って座ると、すぐ隣にフィル様が腰を下ろした。
「……あの、フィル様。これでは距離が近すぎます」
「だってそうしないと、すぐに距離を取られてしまうからね」
「ちょっと、これでは近すぎて……」
「うん? なにか言ったかな? ちなみにこの距離感も僕を癒す要素になっているから、業務命令だと思って欲しいな」
「業務命令」
「だから残念だけど、ラティに拒否権はないね」
「……承知しました」
ため息を吐き出したいのをこらえて私はフィル様の手を取り、『癒しの光』を発動させる。途端に淡い白光が私の両手からあふれて、部屋の中を照らしていった。
「すごいな……これがラティの治癒魔法か」
「はい、治癒室で鍛えてきたので、効果は保証します」
「うん、それはもう知ってる」
つつがなく治癒魔法をかけ終えて、白い幻想的な光は収まっていく。
「フィル様、これで回復は終わりです」
「まだ」
治癒魔法のために繋いでいた手を放そうとしたら、ぐっと握り込まれてしまった。フィル様を見上げると、うっとりしてしまいそうな澄んだ空色の瞳に囚われる。
だが、私は学習したのだ。この外見に騙されてはいけないと。冷めた視線をフィル様へ向けて言葉を続けた。
「とてもお元気そうに見えるのは私だけですか?」
「心の傷が見えるなら今すぐ見せてあげたいんだけどね。ああ、僕の胸の音でも聞いてみたらわかるかな?」
そう言ってフィル様は私を引き寄せて、その胸に抱きしめた。ふわりと石鹸のような爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。私の耳はしっかりと押さえつけられ、フィル様の心臓の音を拾っていた。
幾分心拍が早いが、この程度なら病ではなさそうだ。
「今も痛む僕の心がわかったかな?」
「心拍は少し早いようですが、問題なさそうですね」
「そう? 残念だなあ、この悲しみが伝わらないなんて」
嘘くさい。
まったく残念そうに見えないし、むしろ嬉しそうに笑みを浮かべているとしか見えない。これが本当に相思相愛の婚約者なら嬉しいだろうが、あいにく私にこの腹黒王太子と結婚する気はまったくないのだ。
「もうよろしいですか?」
「ふふっ。今の冷たい態度が僕のものになった時にどう変わるのか、楽しみだな」
「はい?」
「さあ、そろそろ政務に戻ろう。ラティは前回のようにここで待機していて」
なにか腹黒いセリフを聞いたような気がしたけれど、はぐらかされてしまった。さすがに政務に取り組むフィル様の邪魔はできない。
しかし、この職場ストレスが半端ないわ——!!!!
こうなったらお茶の時間に出される高級スイーツを、もりもり堪能しないと割に合わないわね!! それから部屋に戻ったらバハムートにも話を聞いてもらおう……!!
腹黒王太子の溺愛に翻弄されて、お茶の時間に出されるお高くて最高に美味しいお菓子で自分を癒した。