10話 王妃様の命令
ブリジット様の認定試験が始まり、毎日のようにフィル様の執務室へやってきていると耳にした。
移動の際に貴族たちが話していたし、妃教育の教師たちも熱心なブリジット様に負けないようにと言われている。だから正式な婚約者は私なんだと自分に言い聞かせて、不安になる気持ちを抑え込んでいた。
朝食の後はいつものようにフィル様と甘い時間を過ごして、それぞれ目的の部屋へ向かう。今日は私の肩にバハムートがちょこんと乗っていた。
「はあ、集中しないと……フィル様にふさわしい妻になるために頑張るのよ……!」
《ラティシア。お前はよく頑張っている》
「バハムート……ありがとう。そう言ってもらえると元気がでるわ」
《褒美に今夜は散歩に連れていってやろう》
「え、いいの!? あ、でもフィル様に許可を……」
《主人も一緒だ。こうして主人と離れた後に元気がないと心配しておった》
バハムートの言葉にポカポカと心が温かくなる。だが、どうしても気になる言葉があった。
「ねえ、どうしてフィル様は離れた後に私の元気がないと知っているの?」
《……ラティシアはなにも心配せずともよい》
「口止めされているのね……」
半眼でバハムートを睨むとそっと視線を逸らされる。
私は短くため息を吐いた。主従契約は絶対的効力を持つからバハムートは口止めされたら言えないだろうし、フィル様も私のことを心配してくれているのはわかる。
フェンリルがいるから問題ないのに、食後の毒物チェックだって欠かさない。今朝も息も絶え絶えになったところでやっと解放されたが、下手をすると私の腰が砕けてしまいそうになるので、ほどほどにしてほしいのにまったく聞いてくれないのだ。
本当にどこまでも心配性なフィル様に呆れながらも、それだけ私のことを想ってくれているのだと実感して顔が緩むのを止められない。
「わかったわ、それじゃあ、今夜は楽しみにしているとフィル様に伝えてくれる?」
《うむ、任せておけ》
コクッと頷いたバハムートは一陣の風に乗って、姿を消した。私はそのまま妃教育を受けるため、教師の待つ部屋へ向かった。ところが——
「王妃様の執務室ですか?」
「ええ、本日からは王妃様が直接ご指導されるとのことです。もともとラティシア様は基礎ができておりましたので、なにも問題ないでしょう」
「承知しました。では早速そちらへ向かいます」
教師からそう言われ、私は王妃様の執務室を訪れた。話は通っていたらしく、護衛騎士はすんなりと通してくれる。
執務室へ入ると正面の大きな窓を背にして王妃様がゆったりと椅子にかけ、隣にはフィル様と同じ色合いの青年、第二王子アルテミオ様が立っている。
王妃様はフィル様とよく似た顔立ちだ。金色の豊かな髪を結い上げ、新緑の瞳は私をジッと見つめている。年齢を重ねても美しさを損なわない美貌は、貴族女性にとって羨望の対象だと聞く。
「直接話すのは初めてね。これからは貴女を教育することにしたわ。今後はわたくしの命令に従ってちょうだい」
「王妃様、お初にお目にかかります。ラティシア・カールセンでございます。今後はご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。アルテミオ殿下におかれましてもご挨拶申し上げます」
そう言って教本通りのカーテシーをする。実は今までこんな風に王妃様とアルテミオ様に会ったことがなかった。いつもフィル様が間に入ってくれていたので接することがなかったのだ。国王陛下も婚約者の宣言をした時以来、会っていない。
フィル様に尋ねたことがあったけれど『僕が段取りを組むから心配いらないよ』と言われ、そのままにしていた。しかし王妃様とアルテミオ殿下の突き刺さるような視線を受け、それが不敬だったと後悔する。
「また、ご挨拶が遅れましたこと、大変申し訳ございませんでした」
「それはいいわ。わたくしも貴女の顔など見たくなかったもの」
「それは……失礼いたしました」
やはり大きく機嫌を損ねていたようだ。もっと私からもご挨拶したいと訴えればよかった。そこで王妃様が一枚の紙を私に差し出す。
「この書類をフィルレスのところへ持っていってちょうだい。それから状況をよく見てきて後でわたくしに報告しなさい」
「はい、かしこまりました」
これが王妃様の妃教育なのかと疑問を感じつつ、最初に言われた通り指示に従う。
「アルテミオ。今日は初日だし一緒に行ってあげなさい」
「はい、母上」
ものすごくしかめ面のアルテミオ殿下と、フィル様の執務室へ向けて歩き始めることになった。
そんなに遠くないはずの距離だけど、重苦しい雰囲気に時間が経つのが遅い。私はこらえきれず前を歩くアルテミオ殿下へ声をかける。
「アルテミオ殿下、このように付き添っていただきありがとうございます。少しでも早くお役に立てるよう励みます」
すると、ピタッと足を止めたアルテミオ殿下が振り返り私を睨みつけた。
「役に立つ……お前が? はっ、馬鹿なことを言うな。どうやって兄上を誑かしたのか知らんが、私はお前が婚約者だと認めていない」
「……そうですか。それでは認めてもらえるよう努力いたします」
「そんな努力は無駄だ。さっさと本性を表せ」
それだけ言うと、また前を向いて大股で歩き始める。
なんだかとても嫌われているのはわかったけど、もしかしてフィル様が王妃様たちに合わせてくれなかったのはこれが理由だったのかもしれない。いやでもそれならそれで、認めてもらうように頑張るしかないけれど。
今夜の散歩の時に話をしようと思ったところで、フィル様の執務室へ到着した。
「兄上、失礼いたします。ラティシア嬢をお連れしました」
「ラティ! わざわざ来てくれたの? お茶でも飲んでいく?」
フィル様はキラキラと輝くような笑みを浮かべて、勢いよく立ち上がり私のそばにやってきた。フィル様の笑顔にホッとしつつ執務室へ入ると、聞いたことのある甲高い声が耳に入った。
「あら、アルテミオ様! お久しぶりですわ、お元気そうですわね」
「……ブリジット嬢か。認定試験の件で来ていたのか?」
「ええ、フィルレス様としっかりと打ち合わせするため、いつもこの時間はお邪魔しておりますの」
ブリジット様の言葉に私の胸にモヤモヤとした黒い感情が湧き上がる。『いつも』と言うほど、ブリジット様はここへ来ているのだ。
しかも執務机の向こう側に立っていて、もしフィル様が椅子に座っていたら肩が触れ合うほどの距離だろう。当たり前のようにブリジット様がいる空間に長居したくないと思った。
私の中で渦巻くドロドロとした黒い感情をうまく処理しきれなくて、ついそっけない態度になってしまう。
「いえ……王妃様のご命令で来ただけですので、すぐに戻らないといけません」
「王妃の命令?」
そんな私の醜い嫉妬なんて消し飛ぶほどの黒いオーラがフィル様から放たれる。
「はい、今日から私に教育してくださることになって……先ほどご挨拶をしてきました」
「へえ、僕はなにも聞いてないけどね?」
怒りの感情が自分に向いていないとわかっていても、フィル様が放つ凍てつく覇気に身動きできない。
「ブリジット嬢、打ち合わせはこれで終わりだ。下がれ。アルテミオは僕の具合が悪いから、専属治癒士のラティを返してもらうと王妃に伝えろ」
ふたりを振り返りもせずフィル様は冷たい声で言い放つ。ブリジット様とアルテミオ殿下の息を呑む様子が私にも伝わった。
「し、失礼いたしますわ」
「……承知しました、兄上」
ブリジット様とアルテミオ殿下が去ったフィル様の執務室には、いつもいるはずのアイザック様もいない。つまり私とフィル様のふたりきりだ。
「ラティ、ソファーの端に座って」
「はい……」
言われた通り慣れ親しんだソファーの端に腰を下ろす。当然のようにフィル様の頭が私の太ももの上に乗せられ、空色の瞳で見上げてきた。
「うん、これなら落ち着いて聞けそう。それで、どういうことか聞かせてくれる?」
フィル様から放たれていたどす黒いオーラは霧散して、満足そうにいつもの微笑みを浮かべている。その状況でこの三十分ほどの出来事をフィル様に膝枕で説明する羽目になった。






