30話 腹黒王太子を鎮める方法
フィル様は静かに尋ねた。
皇太子もエルビーナ様も、さっきまでわめいていたのが嘘みたいに、なにも話さない。
「ねえ、僕のラティになにをした?」
その言葉に込められたフィル様の怒りが、幾つもの見えない刃となって皇太子に向けられている。
皇太子がごくりと唾を飲み込む音さえ聞こえる。静寂に包まれた空間の支配者は、まぎれもなくフィル様だ。
「お前、僕のラティを泣かせたな?」
ざわりと鳥肌が立つ。フィル様の怒りが漏れ出して、辺りの気温をぐんと下げた。フィル様の表情はわからないけど、私が泣いたことを怒っているようだ。
一歩ずつ皇太子に近づきながら、手のひらのうえに鋭く尖った氷の剣が何本も浮かんでいく。
「もういいや、計画は変更だ。今すぐこのゴミを片付ける」
待って、これはなんというか感極まって流れてしまったので、皇太子はある意味とばっちりではないか?
いやでも原因を作ったのは皇太子だから自業自得になるのだろうか?
いけない、そんなことで皇太子を傷つけたり殺したりしたら、それこそ帝国と全面戦争は免れない。
この国のために尽くしてきたフィル様の努力が、無駄になってしまう。そんなのは絶対にダメだ。
「フィル様、お待ちください! 泣いたのはあれです、ちょっと感情が昂っただけで皇太子のせいではありません!」
「……ラティ。どちらにしても原因はあの男でしょう? それなら元凶から掃除しないとね?」
そう言って、フィル様が振り返りざまに氷の剣を放ち、皇太子は短い悲鳴を上げた。
「ひっ!!!!」
ガガガガッと大きな音を立てて、皇太子の衣服だけ縫い止めるように、氷の剣は地面に突き刺さっている。
皇太子の股の部分が濡れていたけど、そっと視線を逸らした。
「ああ、ラティの顔を見たら嬉しくて、つい手加減してしまったな」
なんとか殺傷は避けられたけど、怒りに我を忘れた様子のフィル様を、どうやって止めたらいいのかわからない。
私に向けている瞳は仄暗く、今にも世界を滅ぼしてしまいそうだ。
「フィル様、お願いです。どうか怒りを鎮めてください」
「そうだ、面倒だからふたりまとめて片付けようか? あの女もずいぶんとラティを苦しめたしね?」
「きゃああああっ!!」
今度はエルビーナ様に向かって手をかざし、一瞬で炎の矢を放つ。炎の矢はエルビーナ様の身体を掠め、ピンクブロンドの髪を焦がした。青を通り越して真っ白な顔でガクガクと震えている。
ダメだ、お願いするくらいでは、まったく怒りがおさまらない!!
「フィル様っ!!」
ゆらりと視線を私へ戻し、数秒見つめ合う。
私が思いつくのは、これしかない。これでフィル様が止まらなかったら……そんな考えを振り払い、最大限の勇気を振り絞った。
「私は、フィル様が好きです!」
「……今、なんて言った?」
フィル様の瞳に光が戻ってきた。
「私はフィル様が好きです。だから離れるのが嫌で泣いてしまったんです」
「…………っ!!」
ああ、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!
こんな人前でフィル様に気持ちを伝えるなんて、普段なら絶対にやらないことだ。
せめてルノルマン公爵様の判定に合格してから言いたかった……!
顔も耳も首も、りんごのように赤く染まっているとわかるほど変な汗をかいている。羞恥のあまりフィル様の顔が見られなくて俯き反応を待っている。
フィル様は態度でこそ私が大切だと示してくれていたし、ここまで怒ってくれているのだから、きっとそういうことだ思う。
だけど、一向になにも反応しないフィル様に、もしかして私の勘違いだったのかと青くなり視線を上げた。
「……待って、今は無理。ちょっと……嬉しすぎて、無理」
そう呟くフィル様は、目元と耳を赤く染めて口を覆うように手を添え震えていた。
眉を寄せてなにかに耐えているようなフィル様は、それはそれは極上の色香を放ち、ぐわしっと私のハートを掴んで握り潰す勢いだ。
フ、フィル様が……照れてる!?
なにこのかわいさっ!! 今まで散々私を振り回してきたのに、ここでこんなに照れるの!?
いや待って、今こそお願いを聞いてくれるかもしれない!!
「フィル様……お願いですから、落ち着いてください。フィル様が大切にしてきた国のためにも、戦争なんてしてほしくないのです」
「ラティ……」
ふわりと微笑むフィル様は、太陽の創世神の生まれ変わりかというほど神々しい。
その甘い表情を一瞬で真顔へ変えて、皇太子に鋭い視線を向ける。
「いいか、ラティは僕の婚約者だ。手を出すなら帝国ごと消す」
腰を抜かして尻をついたままの皇太子は、悔しそうに顔を歪めた。反論したくても、なにも言えないのだろう。フィル様の脅し文句がそれだけで終わらないのも、理解できたはずだ。
「くっ!」
「お兄様! ちょっと、黙ってないでなんとか言ってよ!」
今度はエルビーナ様が、皇太子に噛みついて大勢の目があるにもかかわらず、兄妹喧嘩を始めた。
「うるさいっ! 元はと言えばお前が勝手に戻ってくるからだろう!!」
「なによ! お兄様だってこんな田舎の小国はわたくしには似合わないと言っていたじゃないの!!」
「黙れ! お前のせいで、オレまでこんな田舎まで来ていい迷惑なんだ!!」
「——いい加減にしてくれる? ここで言い争ってないで帝国へ帰れば?」
フィル様が短いため息をつく。先ほどまでの緊迫感はすっかり消え失せ、いつもの飄々とした様子のフィル様に戻っていた。
そして今までは私の前だけで出してきた腹黒王太子の顔もオープンにしている。もう隠す気がなくなったのだろうか。
「皇族が相手を選ばず婚姻をしてきたせいで、魔力量が減少しているのは知っている。だからこそヒューレット王国と僕を選んだのもわかっている」
「そこまで調べていたのか……」
皇太子はガックリと項垂れた。
皇族の魔力が少なくなれば、帝国の情勢は安定しないだろう。かつて大陸一の魔力量を誇った王族が周辺国をまとめ、帝国へと成長させたのだ。
その根幹が揺らげば、反乱が起きてもおかしくない。だから皇太子もエルビーナ皇女も必死だったのだ。
「後ろでラティを守るのは、僕と契約した神竜バハムートと神獣フェンリルだ。さらに僕ひとりでも、この大陸を吹き飛ばすくらいはできる。戦争したところで帝国に勝ち目はない」
フィル様は諭すように皇太子へ言葉を続けた。
皇太子もそこは理解しているようで、項垂れたまま無言を貫いている。
「…………」
「お兄様! ねえ、どうにかしてよ! ちょっと、お兄様!?」
「……りだ。……無理だ!! こんな化け物みたいな魔力を持つ奴を相手にするなんて、無理だっ!!」
「そんな、じゃあ、わたくしはどうなるの!? このまま戻ったら、勝手に婚約破棄したからと幽閉されて毒杯を送られてしまうのよ!?」
エルビーナ様の絶叫に近い言葉に胸が痛んだ。確かにあんな形で婚約破棄したのは許せることではないけれど、毒杯を賜るなんて行き過ぎではないだろうか?
「知るか! オレだって命は惜しいんだ!!」
「なによ!! なんでお祖父様やお父様の尻拭いをさせられるのがわたくしなの!? 自分たちは好きな相手と結婚したくせに、どうしてわたくしは結婚相手すら選べないの!?」
エルビーナ様の泣き叫ぶ声に、両親を亡くした頃の自分が重なる。
まったく状況は違うけれど、自分ではどうにもできない事情で身動きができなくて、受け入れるしかなかった。泣き叫びたくても、重くのしかかる重責で泣くこともできなかった。
「……フィルレス様。お願いがあります」
「お願い? なんでも言って」
「エルビーナ様を留学という名目で、この国で預かれませんか?」
「……本気で言ってる?」
フィルレス様は眉をひそめ苦い顔で聞き返してくる。そうなるのも無理はない。エルビーナ皇女には散々嫌な思いをさせられたのだから。
「なによっ! 貴女の慈悲をもらうなんて、まっぴらよ!!」
「ですが私は……エルビーナ様は家の都合で振り回されただけなんだと思いました」
キッと睨みつけるように翡翠の瞳を私へ向ける。エルビーナ様は現在十八歳。ちょうど私が両親と兄たちを亡くしたのと同じ年頃だ。大人のようで、でも精神的にはまだ未熟な部分もあって。
肉親を突然亡くしてから、もっとなにかできたんじゃないかと、何度も何度も自分を責めた。
見送りの時にお土産を頼まなかったら? 無事に帰ってくるように月の女神に祈りを捧げていたら? 私も一緒について行っていたら? そうしたらあの事故が起きなかったかもしれないと、どうしようもない後悔を抱えて泣いた。
だから私は後悔だけはしないように全力で生きてきた。今も後悔しないように、できるだけのことをしたい。
「今までのような態度では受け入れられませんが、節度と礼儀をわきまえ、淑女として振る舞ってくださるのなら、力になりたいと思ったのです」
エルビーナ様の隣に腰を下ろして、ドレスをギュッと握った拳をそっと包み込む。拳から伝わる震えは、傲慢さでも怒りでもなく、心の奥に隠してきた悲しみだ。
「うっ、ううう……うわあああ! 誰も、誰もわたくしの話なんて聞いてくれなかったの! わたくしもいつか帝国で好きな相手と結婚できると思っていたのよ……なのに、なのに……!!」
「そうですね、それはつらいことだったと思います。では、これからは落ち着いて過ごすことはできますか?」
ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、やっと本当の気持ちを吐き出せたようだ。つきものが落ちたような、十八歳の少女らしい素顔を私に見せてくれる。
「……わたくし、あんなに貴女に嫌なことをしたのに、許してくれるの……?」
「はい、ちゃんとやり返しましたから」
「ふふ……ありがとう。わたくし、やり直したいわ。貴女の……ラティシア様のもとで」
エルビーナ様は涙に濡れながらも、あどけなさの残る笑顔を浮かべた。今まで見た中で一番素敵なエルビーナ様の笑顔だと思った。
「ラティシア様。さすがでございます」
遠巻きにしていた群衆から凛とした女性が歩み寄ってきていた。
「ルノルマン公爵! こちらにいらしてたのですね」
「ええ、今日は所用がございましたので。ですが、いいものを見させていただきました。ふむ、それなりに貴族も集まっておりますね。よろしいでしょう」
周りを見渡すと騎士ばかりだったはずが、この騒ぎで王城に来ていた貴族たちも集まっている。これではフィル様の腹黒もあっという間に知れ渡るだろう。そうなったとしても、フィル様はなにも困らないと思うけれど。
「ラティシア様の判定結果をここで発表いたします!」
突然のルノルマン公爵の発表宣言に、私は心臓がドクリと大きく鼓動する。
不合格でかまわないと思って受けてきた試験だ。落ちても納得できる。でもせめて、再挑戦のチャンスはほしい。
「ラティシア様は、いつもフィルレス殿下や民のことを考え行動されていらっしゃいました。さらに、ご自分の気持ちよりも国の平安を優先し、身を引く潔さは天晴れでございます。神竜や神獣が守るほどの友情を結び、どのような相手にも慈悲をお恵みになる。なによりも夫となるフィルレス殿下の寵愛を受けられておられる」
とても褒められているように感じるけれど、ちゃんと聞くまでは落ち着かない。ぬか喜びだけはしたくないのだ。
「これ以上、王太子妃に相応しい人物はおりませぬ。ラティシア・カールセン、合格でございます!」
「ご……合格……!!」
無意識で息を止めていたのか、肺に溜まった空気を緊張感と一緒に吐き出した。
でも、まだ現実味がなくてふわふわと雲の上を歩いているようだ。
「私は貴女が導くこの国の未来を見たいと思いました。メイガン・ルノルマンはラティシア様へ生涯の忠誠を誓います」
そんな私にルノルマン公爵が淑女の見本のようなカーテシーをする。
その直後、いたるところで拍手喝采が沸き起こった。