29話 私の心に寄り添ってくれたひと
——どうしよう、困ったことになった。
王城へ戻る馬車の中で、私は流れゆく景色に視線を向けた。
今日はイライザ様へお礼をしたくて、アリステル公爵家を訪問したはずだった。
お礼の治癒魔法をかけていると、なんと帝国の皇太子がやってきた。アリステル公爵夫妻はそれぞれ出払っていて、他に対応できる家人がいない。特に約束はしていなかったそうでイライザ様も困惑していた。
「それではお礼にはまた後日まいります。イライザ様はどうか皇太子殿下の対応をしてください」
「ラティシア様、本当に申し訳ございません。帝国の皇太子ともなると、わたくしではお断りできず……」
「いいえ、気にしないでください。私はいつでも来られますから」
そう言って、イライザ様の部屋の扉を開けようとした時だ。
にわかに廊下が騒がしくなり、目の前の扉が急に開かれた。ドアノブに手をかけていたので、そのまま引っ張られてなにか固いものに思い切りぶつかってしまった。
鼻から突っ込んだので、地味に痛い。痛みが引いたので、ぶつかった物を確認しようと視線を上げる。
「……った。って、えっ、も、申し訳ございません!」
そこにいたのは、襟足を伸ばした艶々のピンクブロンドの髪と翡翠のような瞳の美丈夫だった。見たことのある配色に猛烈に嫌な予感がした。後ろでは公爵家の家令が可哀想なくらい青ざめている。
「今魔法を使っていたのは、お前か?」
「はい……確かに私が治癒魔法を使っていました」
貴族ならある程度、使用した魔法の気配を感じ取れる。魔力の波動と呼ばれていて、フィル様がバハムートを見つけたのも、これの応用だ。このお方はそれを感じ取ったらしい。
「へえ、お前、月の女神の末裔か! 魔力量も十分あるようだし、オレはついてるな。これで皇族は安泰だ」
「な、なぜそれを……?」
「白金の髪に紫の瞳、それにこの治癒魔法だ。わからないわけがない。お前を皇太子であるオレの妃として連れ帰る。いいな?」
目の前のお方はやはりというか、皇太子様だった。しかも月の女神の末裔がいることを知っていたようだ。この国の貴族は嘲笑するだけだったから、信じてくれてありがたいけど皇太子の妃というのは頷けない。
「申し訳ございませんが、私はこの国の王太子フィルレス様の婚約者です。一緒に帝国に行くことは叶いません」
「そんなもの、国王の命令ひとつでなんとでもなる。よし、このまま国王の元へ行くぞ。そしてすぐにお前との婚約を発表しよう」
この強引さに顔が引きつる。こういったところまで似ているとは、さすが兄妹だ。だけど嫌なものは嫌だ。私はフィル様の隣にいると決めたのだ。ルノルマン公爵の判定結果が不合格だったとしても、再試験を希望するつもりでいる。
合格できるまであきらめないと、決心したのだ。
「ですが、私はフィルレス殿下の婚約者なのです! いくら皇太子殿下といえど、それは受け入れられません!」
「いいから、オレについてこい!」
そのまま腕を引かれて、皇太子が乗ってきた馬車に無理やり乗せられた。皇太子の腕力には敵わないし、イライザ様もアリステル公爵の使用人たちも相手が皇太子では迂闊に手を出せない。
もし王命で婚約解消されるのなら、その時は全力で抗うと心に決めた。
皇太子とともに通されたのは、国王陛下の謁見室だ。
大きな太い柱が等間隔で並び、扉から正面の高座までレッドカーペッドが真直ぐに伸びている。国王陛下が椅子にかけて、その左右には宰相と護衛騎士が控えていた。柱と柱の間にも騎士が配置され。警備は厳重だ。
だけど、いくら警備が厳重でも私には関係ない。もう振り回されるだけの人生は終わりにしたのだ。
「しかしグラントリー殿下、すでにフィルレスとラティシアの婚約は結ばれており、解消するのはいささか……」
「だから、そんなもの王命を下せばなんの問題もないであろう! 今すぐこちらの要求を呑め!」
国王陛下はなにも言えず青くなっている。まるでなにかに怯えているようで、煮え切らない態度の国王陛下に皇太子殿下も苛立っていた。そういえば、国王陛下は謁見室に入ってきた時から様子がおかしかったと思う。
「もうよい! とにかくこの女は帝国へ連れ帰る! フィルレスとの婚約については、そちらでよく話し合うのだな! 全面戦争を回避したくばオレの提案を呑むしかないぞ!!」
そう言って、またしてもぐいぐいと手を引かれ、謁見室を出て城の外へと足を進めていく。
皇太子は戦争を仕掛けると脅して、国王陛下を意のままに動かそうとしたのだ。そんな横暴なやり方にギリッと奥歯を噛みしめる。
ここでフィル様を巻き込んでは、取り返しがつかなくなるかもしれない。それなら私だけが悪者になれば問題ない。最悪、フィル様の婚約者でいられなくなっても、フィル様が大切にしてきたこの国を守れれば、それでいい。
そして、馬車に乗り込むために外へ出たところで、私は友人に助けを求めた。
「バハムート、フェンリル……助けて!」
私の呼びかけに応えて、大きな銀翼をはためかせたバハムートが空から降り立つ。フェンリルは私の影の中からするりと飛び出し、あっという間に元の大きさに戻っていく。
剥き出しの牙から唸り声をあげ、皇太子を威嚇した。
「うわあああっ! なんだこの化け物は!?」
《これ計画が狂ったって怒られるか?》
《だが、ラティシアの危機には代えられん。甘んじて処罰を受けよう》
威嚇しながらもポソポソと何か小声で会話している。急に呼び出したからバハムートやフェンリルの都合が悪かったのかと思い至った。
「ご、ごめんね! もう、どうにもならなくて……」
《よいのだ。それで、敵は此奴か》
《ひ弱な人間の分際で、喉元掻っ切ってやる》
「た、助けてくれ——!! 魔物が出たぞっ!!!!」
私を守るように立ち並ぶバハムートとフェンリルを前にして、腰を抜かしたのか尻をついて動けなくなっている。騒ぎを聞きつけ騎士たちが集まるが、神竜と神獣だと知られているのでどうということもない。
怯えているのは皇太子だけだ。
「私を守ってくれる、大切な友人です。貴方の妻になるくらいなら、この子たちと誰にも見つからない場所へ行きます」
「なっ、いずれは皇后になれるのだぞ!? こんな小国の王太子妃のどこがいいと言うんだ!?」
そんなことはわかってる。これが権力に執着のあるご令嬢だったら、大喜びしたのだろう。だけど、あいにく私はそんなものでフィル様を好きになったのではない。
「フィル様には驚かされることが多いですが、誠実な態度で私を優しく気遣ってくれました。いつでも、どんな時でも、私の心に寄り添ってくれました! だから私は過去を乗り越え、信じることができたのです! だから私は……!」
あふれた気持ちが雫になって頬を伝う。
本当は離れたくない。このまま婚約者としてそばにいたい。それでも、私がここにいることでフィル様の足を引っ張るのは、自分自身が許せない。
「フィル様を好きになったのです……!」
「そんなもの——」
皇太子の言葉を最後まで聞くことなく、私は涙を拭いバハムートの背中に乗る。フェンリルも一緒だ。これでこの国とはお別れだ。なんてことはない、他国で生きていくと前に覚悟したのだから。
銀翼が大きく動き空気を捉えた。やがてふわりと浮かんで、その巨体が宙に舞う。
「ラティ!!」
バハムートがさらに高度を上げようと翼をはためかせたところで、大好きな人の声が耳に届いた。
もう城の屋根ほどまで飛んでいるのに、その声は私の心を掴んで引き戻す。
「バハムート、フェンリル。今すぐ戻れ」
《主人!》
《うあ、やべえ……》
主人の地の底を這うような声に、逆らうことなどできないのだろう。バハムートは静かに地上に足を着けた。
私たちを取り巻く風が落ち着くと、フィル様がそっと近寄り私をバハムートから下ろしてくれる。なにも言わないフィル様が初めてで、少し戸惑った。
そこへ、フィル様を追ってきたエルビーナ様が姿を現す。そしてバハムートとフェンリルを目にして、皇太子と同じように腰を抜かした。
「フィルレス様、お待ちになって——いやああああ!! ま、魔物おおお!!」
フィル様はエルビーナ様へは視線を向けることなく、皇太子を見据えている。私を背中に隠したと思ったら、今まで感じたことがないほど、すべてを凍てつかせるような魔力を放った。
その殺気にも似た魔力を感じ取り、バハムートとフェンリルはピタリと動きを止める。そして強者にひれ伏すように頭を下げた。騎士たちはフィル様の気配の変化を感じ取り、動けなくなっている。
「こ、この魔物を早くなんとかしろっ!!」
「そうですわ! 魔物が——え? ど、どうしてフィルレス様が手懐けてますの?」
それでも皇太子はフィル様の変化が気にならないのか、わめき散らしていた。そこでエルビーナ様がやっと気が付いたようで、バハムートとフェンリルにも視線を向ける。
「僕の婚約者になにをしている?」
エルビーナ様の問いかけに返ってきたのは、心臓を抉るようなフィル様の冷たい声だった。