10話 癒えていない心の傷
「ねえ、聞いてよバハムート! 今日フィル様に膝枕させられたのよ!?」
《……仲がよいのだな》
「違うの! いつものようにソファの端に座ったら、何食わぬ顔でいきなり頭を乗せてきたのよ! しかも『僕の心はこれで癒されるから、治療の一環だよ』って言うから反論もできなかったのよ!」
《やはり仲がよいのではないか?》
「仲良くしたくないのに……そもそも男なんて信じられないし、貴族の役目だとしても王太子妃なんて無理だわ!」
私は連日バハムートに話を聞いてもらっている。
フィル様が入浴などで離れる時間があるので、そのタイミングで私室へ戻り私も入浴などを済ませることになっている。いつも手早く済ませて、就寝までのわずかな時間を使って息抜きをしていた。
マクシス様のことがあったから、私は男性不信になっていた。人として尊敬したり仲良くすることはあっても、異性として信じることはない。そもそも仕事に夢中で恋愛感情なんてとっくに枯れ果てている。
だから正直なところ、フィル様に異性としての愛情を示されたとしても、いまいち心に響いてこなかった。
《だが、ラティシアがあの男から逃げるのは難しそうだな》
「そうなのよね……あ、待って。バハムートに乗ってそのまま国境を超えてしまえば行けるんじゃない!?」
そうだ、いくらフィル様でも空を飛ぶ幻獣なんてそうそう止められないに違いない。これは名案なのでは!?
なぜ今まで気が付かなったのか!!
《いや。我はこの国から出られぬ》
「そうなの? 前は世界中を飛び回っているようなこと言ってなかった?」
《以前は自由だったからな。今は無理だ》
「途中でなにかあったの?」
それ以上なにを聞いてもバハムートは答えてくれなかった。
バハムートとは友人関係だけど、なんでも教えてくれるわけではない。話す気がないようなので話題を変えることにした。
「そういえば、なんだか魔力の質……なのかな、変わったわね」
《わかるか?》
「ええ。瞳の色も前はシルバーだったのに、いつの間にか青くなっているし、なにもしていなくても光ってるというか」
《最近はよい餌を喰っている》
「餌?」
《うむ、我の最高の食事は魔鉱石だ》
「へえ、そうだったの! じゃあ、今度お給金が出たら買ってきてあげる」
《楽しみにしている》
魔鉱石とは魔力が豊富な鉱山で取れる、魔力を取り込んだ特殊な鉱石のことだ。主に魔道具の材料や、見た目がいいものは装飾品としても使われる。魔力を含むため使用者の魔法の効果を強くしたり、魔力が少ない者でも中級の魔法が使えるようになったりするものだ。
その分、価格も高くなる。魔力のない鉱石の三倍から十倍が一般的で、物によっては桁が二つくらい違うのだ。ちなみに婚約発表の際につけさせられたブルーダイヤモンドの装飾品も、当然のように魔鉱石だった。
何事もなく返却できて心の底からホッとして、深くて長いため息がこぼれた。
——コンコンコン。
「ラティシア様」
そこでノックの音が響き、ドレスの着付けをしてくれた侍女のひとりが声をかけてきた。慌ててバハムートには隠れてもらう。
「はい! どうぞ入ってください」
「フィルレス殿下が寝所に入られました。ご移動をお願いいたします」
「……わかりました」
バハムートとの楽しいおしゃべりの時間もここまでだ。侍女が出ていったのを確認して、バハムートにお礼を言って「また明日」と手を振った。
私は覚悟を決めて、寝室の扉を開く。
ふわりと上品で優しい香りが漂ってきた。部屋の中央には衝立があり、部屋の半分しか様子がわからない。それでも調度品はダークブラウンでまとめられ、複雑で上品な飾り彫が施されている。用意されたベッドは適度な弾力があり、肌触りが極上の寝具が疲れた身体を包み込んでくれた。
いつも私が部屋に入るとフィル様が声をかけてくれる。
「ラティ?」
「はい、お待たせいたしました」
「いや、待ってないよ。今日も一日お疲れさま」
「お疲れさまでした。では、おやすみなさい」
「あ、そうそう」
この日も同じだったけど、いつもと違うのは会話が終わらなかったことだ。珍しいなと思いながら、私はフィル様の言葉を待った。
「明日は治癒士の制服ではなくて、侍女が用意するドレスを着て出勤してほしい」
「ドレスですか?」
「うん、明日から判定試験を始めるから、しばらく制服は封印だね」
「判定試験……!」
ついに始まるのだ、私の命運をかけた判定試験が。これできっちりと不合格をもらうしか、婚約の解消ができない。もう私に後はないのだ。
「承知しました。約束を忘れないでくださいね」
「もちろん。でも、きっとラティなら大丈夫だと思うよ」
「なにが大丈夫なのですか?」
嫌なことを言わないでほしい。まるで合格するから大丈夫だと言われているみたいではないか。義妹に婚約者も伯爵家も奪われて、治癒士として生きてきた私は平穏な生活を送りたい。
信用できない伴侶なんて不要でしかない。
「……僕はラティに会えて、世界が変わったんだ」
「そんな大袈裟です」
「大袈裟なんかじゃないよ」
今日はフィル様の様子がいつもと違うみたいだ。フィル様が心の内を語るのは、治癒室以来ではないだろうか?
どう返そうか迷っていると、フィル様が言葉を続けた。
「僕は間違いなくラティという存在に癒されている。最近はよく眠れてるから、身体の調子もいいんだ」
「そうでしたか。睡眠は大切ですから」
「本当に眠れるようになってからわかったよ。ねえ、ラティ」
「なんでしょう?」
いつもの口説き文句かと思って、その辺はスルーしながら会話を続けていく。こういうやりとりも少しづつだけど、慣れてきた。
「もしかして男性を信じるのは怖い?」
いきなり核心を突かれた。
怖くないと言ったら嘘になる。
だって、私の心の傷はまだ癒えていない。見ないふりをしているだけで、ずっと血を流し続けているのだから。
私はもうあんな風に傷つきたくない。
「それは……」
「これだけは言っておきたいんだ」
一瞬、言葉が途切れる。
「なにがあっても、僕の気持ちは変わらないから」
「…………」
そんなの嘘だ。
マクシス様だって似たようなことを言っていたくせに、義妹に乗り換えたのだ。しかも私を騙して実家もなにもかも奪って、義妹と一緒になって追い出したのだ。
「そろそろ寝ようか。おやすみ」
「……おやすみなさい」
フィル様の言葉に、心が揺れた。
気持ちが変わらないなんて、あるはずない。
たったひとりの相手を愛し抜くなんて、そんな男性がいるなんて信じられない。
永遠の愛など幻想なのだ。
あまりにも深い心の傷を癒すには、時間だけでは足りなかった。もう五年以上経つのに、私は一歩も前に進めていない。
仕事に打ち込んで、深すぎる心の傷はずっと見ないふりをしてきた。
それが一番心地よかったのだ。
だからお願い、私の心にこれ以上入ってこないで。
——もう傷つきたくないから。
頭まで毛布をかぶって、明日の判定試験のことを考えながら眠りについた。