ネットと星が結び付けた純愛ラブストーリー
今年の冬は寒い。
お正月が明けて開講した講義が終わって、私は学食がある校舎に移動していた。寒風に背中を押されるみたいだ。この時期になると、学生たちは後期試験対策でてんてこまいになる。普段、あまり見ない顔が現れはじめて、根がまじめな私は少し不機嫌になる。心がせまいのかな。大学生ってああいうものなのかな、と思うけれど、円満なキャンパスライフのために心の奥にしまっておく。
長野の実家から戻ってきて早々に、試験勉強をし始めた。前期試験もまずまずだったけれど、せっかく一人暮らしさせてくれている親のためにも、しっかり成績を確保しておきたい。
お昼ご飯を学食でとっていたら、歩美が「隣、いい~?」とやってきた。歩美は同じ英米文学専攻だけれど、一般教養科目ではあまり出席している姿を見たことがなかった。ノート目当てだったらいやだな。ふとそう思った。
歩美は都内の実家から通っている。華やかな雰囲気の美人で、裕福な家らしくいつもオシャレな服を着て、ピンヒールなんか履いて学校に来ている。恋人はいる。一度、「咲んちに泊めてもらってることにして」ってアリバイ作りに加担させられたから。まだ、上京したてのゴールデンウィークのことだったので、「大学生ってそういうものなのかな」とあまり疑問にも思わず承知してしまった。歩美の家から問い合わせの電話はなかったけれど、「泊まりで遊びに行くほど仲の良い友人」と認識されるのは困るなあ、なんて思っていた。
歩美が食事をそろえてトレイを持って隣に来た頃、待ち合わせしていた瑞希もやってきた。瑞希も長野出身で一人暮らしをしているので、同郷のよしみですぐに私たちは仲良くなった。勉強や学園生活に対する考え方も似ている。私は臆病なところがあるけれど、瑞希はすごく頑固なところがあった。歩美がやってきたとき、私の隣に瑞希がいるのを見て、少し表情がこわばった。この二人、一度喧嘩したことがある。前期試験のノートの件で。
ロクに授業に出ない歩美たちのグループが、ノートを貸してくれと言ってきたとき、憤然として拒否したのは瑞希だった。「一般教養なら、他の専攻にも顔が広いんだから、男に借りたら?」と言われてぐうの音も出させなかった。これが、派手グループ対地味グループの抗争みたくならなかったのは、瑞希も歩美に負けず劣らず美人だったからだ。成績優秀で美形。男の子にもモテる。両手の指の数以上の男の子に告白されていたようだけど、秋に同じサークルの先輩とつき合いはじめていた。
私と瑞希と歩美、微妙な雰囲気でご飯を食べていたら、いつも歩美と一緒にいる三人が「私たちもいい?」とやってきた。瑞希と歩美が同席していることに少し驚いているようだったけれど。
開講したばかりのこの時期、彼女たちが考えているのはノートの調達なんだろう。それがわかっていてあえて瑞希は抑止力になってくれているように思える。視線が合ったとき「ニッ」っていたずらっぽく笑ったのがその証拠。
瑞希がいるせいか、歩美たちはノートや試験に関してのことは何も言わなかった。クリスマスや年末年始にどこに行ったとか、遊んだ話ばかりしているようだ。
どこそこのレストランがおいしかったとか、雰囲気がいいとか、イルミネーションがきれいだとか、ずっと話し続けてイブの夜の話になっていた。
「え、何~? 静香はペディキュアつけて行ったの?」
「うん。なんかマズかったかな」
「えー、だって……やる気まんまんって感じじゃん」
「そうお?」
「夏だったらさ、素足にサンダルでそのままでも見えるけど、冬にペディキュアってヤラしくない? だって、ソックス脱ぐの前提だよ?」
「……そうも考えられるよね……」
まるで私が暮らしている世界とは違う話をしている。もしかして、当てつけ、なのかな。私を除いて今一緒にいる五人のうち、彼氏がいるのは瑞希と静香、歩美だけだった。そして、おそらく瑞希以外の四人……つまり歩美たちのグループは私には彼氏がいないと思いこんでいる。
「ねえ、咲はどう思う? 冬のペディキュア」
いたずらっぽく歩美が聞いてきた。まさか私に話を振ってくるとは思っていなかった。普段から化粧っ気もないし、彼氏持ちでもないと思っている私に嫌がらせの話題かしら。
瑞希も少し険しい顔をしているけれど、何も言わなかった。
「え、私?」
とりあえず、反応する。どう思う、と言われても。
「だめよ、咲はまだオコチャマなんだから」
静香に畳みかけられて少しムッとするけれど、「え、咲ってまだなの~?」って美穂に茶化されて完全に答える気が失せてしまった。
確かに私はまだ、男の人を知らない。
私。
私の心。
私のカラダ。
私のささやかなこれらのものを男の人が求める日が来るんだろうかってずっと思っていた。果たして私は結婚できるんだろうか、なんて。
引っ込み思案な性格。ルックスはそれほど悪いとは思わないけれど、特別かわいいというわけでもない。中学高校と女子高だったせいで、男性との接触耐性があまりなくて、数少ない専攻の男子学生と話すときでもドギマギしている。背もそんなに高くない。太っているわけじゃないけど、胸もおっきくない。一言でいうなら、外見も性格も「地味」だった。
私がモゴモゴしているのを見て満足したのか、彼女たちはそれ以上何も言ってこなかった。ただ、彼女たちが一つ知らないのは私にも彼氏といえる存在がいるってこと。クリスマスイブに一緒に過ごす男の人が「彼氏」という定義なら。
私にとって初めての恋人。記憶が遡っていく。
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英語が好きで英米文学専攻を志望したけれど、もう一つ好きだったのはデザインやグラフィックだった。高校一年の誕生日にマッキントッシュを買ってもらった。必要なソフトがくっついてきたので、それでデザインソフトの基礎を独学で習得した。同時にインターネットに加入してもらった。
今ならどの家にも回線は引かれているけれど、ほんの四年前はまだまだ普及しておらず、パソコンをやっているというと「オタク」扱いされたから、学校の誰にも言わなかった。
インターネットで広がる世界は、リアルで生きている世界とはまったく違うものだった。年齢、性別、容姿がわからないまま、いわば人間性が剥きだしになっている状態で交流していくから。
HLTМの参考書を買うと、ホームページの作り方を勉強した。ブログサービスはまだないし、ホームページを作るソフトもあるにはあったけれど、「手に職を付けよう」と思った私は、タグから勉強していったのだ。 半年くらい経ち、高校二年に上がったころ、私はある無料レンタルサーバのスペースをホームページ用として借りた。ここは会員同士の横のつながりが強いようで、毎日日記を更新すれば、コメントを残してくれたり、メールをくれたり、あるいは相手の日記上で反応してくれたりしたので楽しかった。
女子高生のネットユーザーはまだまだ少なく、私の拙い日記でも人気コンテンツになり、毎日百人近い人が訪れてくれるようになった。中にはナンパ目的の人もいたけれど、私は彼氏の存在を日記で匂わせて、雑音から逃れることにした。
あまり日常のことを書き過ぎると身分バレしてしまうから、趣味の話をメインに日記を書いていた。
星や神話。科学的な話からギリシャ神話まで、つらつらと書いていた。ある日、「火星と金星の場所が入れ替わっていたら」というタイトルの文章を書いた。もしも金星が火星の軌道上にあったら、ぎりぎりハビタブルゾーン内にあるし、大気も厚いから第二の地球になっていたのではないか?」というちょっとハードSFよりの話だった。その話に反応してくれた人がいた。私は主に「火星軌道にある金星」について考察したのだけれど、その人は逆に「金星軌道にある火星」についても独自の考察をしてメールに書いてきてくれた。シグネチャーに記されたURLへ行くと、星座や惑星関係のホームページを作っている人だった。とくに拘っていたのは、固有名詞を持っている恒星の掲載。誰でも知っている星は当然として、あまり知られていないマイナーな星座のα星の名前だとか、星占いに出てくるけれど、明るい星がなくて地味な星座のα星だとかも収集していた。例えば、「てんびん座」。十月生まれに当たるけれど、一番明るくて三等星で作られている星座なので、とても地味だ。隣に当たるおとめ座が持っている、正義を計る天秤の姿を現していると言われている。簡単な星座図だとたいてい右向きの不等号のような形で描かれていることが多い。そして、そのα星の名前は「ズベン・エル・ゲヌビ」というらしい。アラビア語で「南の爪」だそうだ。なぜ「爪」なのかというと、昔はてんびん座という星座はなくて、隣のさそり座の一部だったそうで、そのときの名残なのだそう。
天文関係にはアラビア語由来の用語や名詞が多いのだけど、それは中世キリスト教の元で自然科学の研究が下火になった代わりに、中東のイスラム文明のもとで、ギリシャ・ローマ文明の研究が進んだことによるらしい。
二千年前にはちょうどてんびん座のあたりに秋分点があったことから「てんびん座」が作られたそうだ。その後、歳差運動によって秋分点はおとめ座にずれてしまっている。
……以上、これらは全部、その人のサイトに書かれていたことの受け売りでした。
私はそのホームページを日課のように見るようになっていた。八十八ある星座すべてに目を通しながら、ほぼ毎日更新される日々の日記を読んでいた。
たまに写真が載る日記を読んでいると、北海道に住んでいる人のようだ。私は長野県在住、というところまでは明かしていた。
「Takさん、メールありがとうございます。sakiです。火星軌道にある金星について考察を送っていただいてありがとうございました。とても興味深く読みました。ホームページすごいですね。毎日星座のページを眺めては、固有名詞のある星の名前の意味を知って感動しています。北海道に住んでいらっしゃるのですね。梅雨がなくていいなあ。ここ最近の長野は雨続きです。今後ともよろしくお願いいたします」
そんなあたりさわりのないメールが私の未来を開くなんて、そのときはまったく思っていなかった。
「sakiさん、こんばんわ。突然ですがsakiさんが一番好きな恒星はなんですか? 僕はどちらかというとあまり目立たない星が好きです。ないと困るけれど、そんなに目立たないというか。プロ野球選手や俳優でも、地味ながら存在感のある人が好きなので、これは好みなのかもしれません。色合いで言えば、スピカが一番です。春先に、あの青く澄んだ光を見ると嬉しくなります。でも、スピカは有名すぎるので、ぎょしゃ座のカペラなんかは僕好みです。オレンジ色の暖かい光が大好きです。ちょっとマニアックすぎました。またメールしてもいいですか?」
こんなメールが届いた。私の天文オタク心をくすぐるような内容で、私は即、返事を書きはじめていた。
「Takさん、こんばんわ。私が一番好きなのは、フォーマルハウトです。そういえば今井美樹さんが歌っている歌の中で「南の一番星」っていう歌詞があるのですが、あれはたぶんこの星のことだと勝手に思っています(笑) 秋の南の空は寂しいですが、その中で一つがんばって光っているのがはかなげな気持ちになります。私の場合は見たくても見えない星にあこがれがありまして、アケルナル、カノープス、そしてやっぱり南十字。って言ったら俗っぽいかな。いつか赤道を越える旅に出ることが出来たら、絶対に夜空を眺めたいと思っています」
さらさらと書けたので、すぐに送信ボタンを押した。そうしたら一時間後にもう返事が来ていた。
「sakiさん、フォーマルハウトとはお目が高い! いや、僕的基準でいうとかなり好みの星だからです。今井美樹の曲は『プライド』ですよね。この曲、元BOφWYの布袋が作ってるんです。なんだかイメージが全然違ってて意外です。才能がある人はいろいろできるのかな 南の星はぜひみたいですね。僕は北海道に住んでいるので、カノープスも見えません。沖縄の人がうらやましいなあ……」
こんなふうにして私と彼は頻繁にメールを交換するようになった。メールの文章の合間合間に出てくる彼の生活感や話題なんかを見ていると、年が近いのではと思っていたのだけれど、二カ月ほど経って「期末テスト」という単語が出てきたので、思い切って尋ねてみた。もしかして、高校生ですか? と。
「sakiさん。僕はたぶんあなたと同い年だと思います。一九八〇年生まれです。高校二年も終盤に入り、受験勉強もしなくては。だから、ホームページの更新も少し間隔があくようになると思います。もしくは、少しお休みするかも。東京の大学を第一希望にしているのでもし僕が無事受かったら、sakiさんに少しだけ近づけますね。あ、こんなことを書いたら嫌われちゃうかな……」
私はその文を読んで嫌な気持ちになんてならなかった。むしろ、彼が私に近づいてきてくれることに喜びを感じて、その気持ちは私を戸惑わせた。だって、顔も知らないし、声も知らない。ただ、文章でだけつながっている相手なのに、私は彼に好意を抱いている。そんな心をこのまま抱えていていいのだろうか、と。
私も受験する予定だった。山がちの田舎から出たくて、東京の大学に行きたいと親に直訴して「現役で受かるならば」という条件で、受験することにしていた。
「Takさん、嫌いになんかならないですヨ。私も東京の大学に進学予定です。だけど、予定は未定。浪人は許してもらえないので、私も勉強がんばります。お互い、東京に行ければいいですね」
「東京で会えればいいですね」とは書けなかった。そう書くには、まだ私は幼すぎた。そんなふうにして春が来て、私たちは高校三年生になった。
四月一日。私は自分のホームページに、更新休止のお知らせを書いた。理由は受験。そう書けば誰も反対はしなかったから。たくさんメールをもらったけれど(「エイプリルフールですよね?」というメールで、こういうお知らせを出すには不適切な日だったと後で思った)、その中にTakさんからのメールはなかった。実は事前に知らせていたからだ。もう、私と彼との関係はホームページに束縛されてはいなかった。予備校に通い、かなり真面目に勉強した。都内にある大学の文学部五つに狙いを定めて、私は地道に勉強していった。
彼とは二日に一度はメールしていた。彼も予備校に通い都内の大学のいくつかに的を絞ったようだった。私は文学部、彼は法学部。メール交換をしているうちに、私は彼とすでにつきあっているかのような幻想に囚われはじめていた。いけないと思うけれど、彼とのメールの積み重ねは容易にその幻を脱がせてくれなかった。
夏休みに入り、夏季集中講座が始まると私は深刻な不振に陥った。がんばりすぎて息切れした、と後でわかったけれど、そのときはさっぱりわからなかった。やる気がなかなか出ずに数日何もできず無為にすごしてしまった。そして、そんなダラしない自分を彼に告白してしまった。
「Takさん、わたし、もうダメかも。やる気が出ない。志望校もなかなかA判定が出ない。どうしたらいいのかな」
それは本当に、はた迷惑この上ないメールだったと思う。それでも彼は返事をくれた。私の予想を上回る返事が来た。
「sakiちゃん、一度電話で話をしてみませんか。ウチの番号は011-XXXX-XXXXです。長距離になるのでお金がかかってしまうけれど、もし、一度話してみて平気だと思ったら、電話番号を教えてくれたら、僕からかけます。元気を出して。僕でよかったら話を聞いてあげたいです」
私はそのメールを読んで泣いてしまった。すぐにでも彼と話したいと思った。だけども、電話番号は自分一人のものじゃない。どうしようか迷った。でも、一年にも及ぶ、彼とのメールの集積は安心感を生んでいた。でも、いったいいつかければいいんだろう。早いとご飯だし、遅いと迷惑だし、お風呂に入っていたら親が出て気まずいし……。
あ。事前にメールで相談すればいいんだ。
「Takさん、明日の夜八時に電話します。だから、お願いだから電話の前にいてください」
翌日、夜。
「もしもし……」
「サキちゃん?」
「うん……」
「かわいい声だね」
「え」
そんな感じで私たちの初めての会話は始まった。そして、結果から言うと、私は彼からたくさんのエネルギーをもらった。一時間話し込んで、電話番号も教えた。電話するときは前日にメールして時間を指定することもルールとして決めた。それはまるで恋人同士のようだったけれど、私たちはまだただの受験生同士だった。夏休みの間、二日に一度は電話したけれど、そのせいで電話料金が膨らんで、母親に理由を聞かれてしまった。隠すこともないので、私は素直にこの一年半の話をした。会ったことがないけれど、たくさんメールしてる男の子。私を力づけてくれている。二人とも東京の大学を目指している。
「咲、恋してるのね」
母はそれだけ言った。そういわれても私にはピンとこなかった。
「恋?」
好意は持っているけれど。「いいなあ」と思う自覚はあるけれど。それは恋なんだろうか。よくわからない。だって、会ったこともない人なのだから。声しか知らない人。それでも卓哉くんは(あ、彼の名前を教えてもらった)私を支えてくれる大切な友達になった。