小鬼(ゴブリン)との戦い
『……ギギ……ギヒヒッ』
――ゴブリンだ、間違いない……!
はじめて見る本物の怪物だった。
そいつは喉から潰れた蟇みたいな声を発し、僕を威嚇してきた。手には武器――金属棒のようなものを持っていた。
乱暴に振り上げて地面に叩きつける。それは武器というより、馬車の部品か何かの取り付け金具のように見えた。
「うわぁ……ッ!?」
恐怖で全身が強張る。その場から動けない。
森で狼や野獣には遭遇したことがあるけれど、その時とはまったく別の種類の恐怖感だった。説明できない、得体の知れないものを目の前にしたときに感じる、人間としての根元的な恐怖――。
存在するはずがない怪物が目の前にいる。目と頭では分かっているつもりでも、身体が動かない。いうことをきいてくれない。
『オラ……オラ、ギイッヒヒ!』
金属棒を振り回し、ガギン! と地面で大きな音をたてながら近づいてくる。
「……!」
動け、動けよ、僕の身体……っ!
本では何度も見たことがある。魔物とよばれる怪物を、知識としては知っていた。魔物を倒したという英雄や騎士の話も繰り返し聞いてきた。
けれど、それは「おとぎ話」にすぎなかった。確かにドラゴンは空を飛んでいるし魔女もいる。
けれど、人を襲う恐ろしい魔物なんて、今まで出くわしたことが無かった。
魔物――。
悪い魔女が産み出す眷属、異形の怪物たち。
悪い魔女の魔法によって闇の生命を与えられ、眷属として命に従い人に害を及ぼす存在。それが魔物。
ゴブリンも本に書いてあった。魔女の尖兵として家畜や弱い人間を襲う。そして、生きたまま肉を食いちぎる……。
気がつくと手足が震えていた。持っていた斧を構えることも忘れ、ただ迫ってくる魔物の姿に僕の目は囚われていた。
『ギィヒッ……?』
『ギ……ギヒッ……!』
山羊小屋の開いた窓から、もう一匹が這い出してきた。
獲物を見つけた、とでも会話しているかのように二匹で不気味に鳴きながら口角を歪めて嗤う。
目鼻は人間とはまるで違う。狂人が造った彫像のようで、醜い皺だらけ、顔は悪夢の怪物そのものだ。黄ばんだ眼球は血走り、濁った黒目が僕を捉えている。
もう一匹は素手だった。けれど鋭い爪の生えた腕が血のような液体で赤く染まっていた。
――ペーター君たちが……!
山羊小屋の中ではまだ悲鳴と物音がする。黒山羊たちを襲っている。あの中にはまだ、ゴブリンの仲間がいるんだ。
家の窓からエルリアが何か叫んだ。
そうだ、助けなきゃ。それに家には妹もいる!
震える身体を奮い立たせ、なんとか身構える。
『ギッシャァア!』
一匹のゴブリンは3メルまで近づくと、金属棒を振り上げて一気に襲いかかってきた。耳まで裂けた口を大きく開け、不揃いな鋭い歯の隙間からべろりと舌を垂らしながら。
「うぁ、ああっ!」
恐怖が身体を突き動かした。持っていた半メルほどの長さの斧を真横に振り、突進してくるゴブリンめがけて叩きつけた。
『ギヤッ』
酷い声がして、グニィと肉に食い込んだ感触が手に伝わった。生身に斧が食い込んだ事に一瞬だけ戸惑ったけれど、相手は怪物だ。ためらっている暇はなかった。
ゴブリンは右手の金属棒をめちゃくちゃに振り回して暴れ、その度に激痛がはしる。足や肩を叩かれながら。そのまま地面へと押し倒すように力を込めた。
「うおぉ……くそっ!」
剣術もへったくれもない。がむしゃらに斧で押さえつける。
バタバタと暴れるゴブリンの体を地面に引きずり倒す。脇腹に食い込んだ斧の両側から、紫色の泡が吹き出した。
『ギョゴボボ、ギィエェ……ッ』
頼むから静かになれっ……!
無我夢中で力を込めた次の瞬間、
「……アルッ!」
エルリアの声が耳に届いた。
はっとして振り返ると、口を大きく開けたもう一匹のゴブリンが飛びかかってきた。
「くっ!」
咄嗟に斧を抜き、柄で防ぐ。ガリッと並んだ牙が堅い樫の木に食い込んだ。けれど勢いで今度は僕が地面に押し倒されてしまった。
背中に冷たく固い地面の感触が、目の前には血走った目。並んだ鋭い牙が顔に迫る。
『ギギギイイイッ!』
「うぁ……ああっ!?」
すごい力だ……ッ!
体は小さいのに押し返せない。猛獣のような唸り声を発しながら、喉や顔を食い千切ろうと迫ってくる。臭いし、とにかく気持ち悪い。
けれど頭の中で、もう一人の自分が「落ち着け」と諭した。……冷静になるんだ僕。すると暴れている相手の体はそんなに重くない。黒山羊よりも軽い。だったら腹を蹴飛ばして……!
『ゲブッ!?』
右足で膨らんだ腹を咄嗟に蹴りあげて、ひっくり返す。
身体を反転させて体勢を整え、地面に手をついて立ち上がりかけたその時。ぞわっ……と首筋に冷たい殺気を感じて顔をあげる。
『ギ……!』
金属棒が僕の頭に狙いを定めていた。
「ちょっ……!」
斧を脇腹に叩き込んだ、最初のゴブリンが起き上がり襲ってきたのだ。降り下ろされた金属棒をなんとか寸前で避けて直撃は回避。地面に金属棒が重々しい音をたてて食い込んだ。
一瞬のスキを突き、再び蹴飛ばしたはずの二匹目が、真横から掴みかかってきた。
「くそっ!?」
腰にしがみつき鋭い爪をたてる。太ももに食い込んだ爪で激痛がはしる。振り払おうにもすごい力で組ついてくる。このまま倒されたら今度こそ袋叩きにされてしまう。
マズい、二匹同時に相手をするのは……っ!
その時だった。
「……アルから、はなれてッ」
ドアを開けて飛び出してきたエルリアが、腰に組付いていたゴブリンを思いきり蹴飛ばした。
バゴォッ……! とゴブリンの小さな体が吹き飛んで、積んであった薪の束に頭から突っ込んで壮大に音をたてた。
「エル!?」
エルリアはふーっ、と肩を怒らせながら竜の小さな羽を一度羽ばたかせた。ロングスカートにベルトのように巻き付けていた1メルほどの赤い尻尾を解放、後ろへと伸ばす。
「……いっしょに、おうちを守る」
「でも、エル……!」
「……いつだって一緒」
いつもぽわんとしているエルリアが、真剣な眼差しを向けた。
僕が守らなきゃいけないはずの妹に、守られた。助けられた。
今までの剣術の修行はなんのため? それは妹を守るため、魔女をこらしめて謝らせて……呪いを解かせるためだったはず。
なのに、なのに僕は……なんて弱いんだ。
そしてエルリア、君のほうが強いなんて。
「ありがと、エル」
「……アル」
そっとエルリアが寄り添って僕の怪我を心配してくれた。
悔しさと情けなさで、目の奥が熱くなる。流れそうになる涙を堪えて、ぐっと奥歯を噛み締める。
二匹のゴブリンはダメージを受けてはいる。けれど敵意と憎悪を募らせているのは明らかだった。嘲るような厭らしい視線は鳴りを潜め、代わりにギラギラとした殺意へと変わっている。
冷静になれ。
近くに落ちていた斧を拾い上げる。呼吸を整え身構える。
「僕が仕留める。エルリアは死角、僕の背中をを守って」
「……わかった」
ゴブリンが無言で、同時に地面を蹴った。
今までとは比べ物にならないほどに速く、間合いを詰めてくる。
エルリアを守る。
その決意が 恐怖をすべて中和し飲み下す。
一緒に戦う。
それだけで無限に勇気が湧いてくる。
一度だけ目を閉じて、静かな水面のような心を取り戻す。
目を再び開けたとき、世界が変わって見えた。
――わかる。
相手の動きも、振り上げた金属棒の位置も。
これが、ジラールが言っていた、戦況を感じる、理解するということなんだ。
エルリアが背後で動いた。
真横から廻りこもうとするもう一匹の動きを牽制しようとしてくれている。距離は4メル。僕の対峙するゴブリンのほうが早く到達する。
目の前、2メルにゴブリンが迫っていた。
血走った目と明確な殺意。
騒がしいまでの気配。
ゴブリンが無言で突っ込んできた訳じゃない。
僕は理解した。
恐ろしいはずの唸り声が、耳に届いていないだけだ。
聞こえるのは、感じるのは、地面を蹴る汚ならしいゴブリンの、乱れた足音だけ。空気を乱し近づいてくる汚れた気配。
――無音の世界。
すべてがゆっくりと、視界のなかで動いていた。
だから手に取るように判る、理解できる。
これが「視る」ってことなんだ。
静かに上段に構えた斧を、僕は――
「薪――割り」
ゴブリンの脳天に叩き込んだ。
<つづく>