カラクリ
梶井がこの『健康維持管理局』の仕事に就く前は、中堅の製薬会社で営業を担当する普通のサラリーマンだった。
出社はそう早くないが、退社はその日を軽く跨ぐ。
激務と言っていい仕事内容に耐えられず、同期は一人一人とドロップアウトしていった。
そして梶井もそれに漏れることなく、精神的にも肉体的にもギリギリの場所を綱渡りをするように歩いていた。
物心がついた頃から着けていた左腕のαウォッチが、身体から発せられている悲鳴を淡々と表示し続けている。
心拍数が波を打ち、血圧も不安定。
頭痛が続くが、仕事が滞ることを考えると休めない。
自分でも自覚のある不健康さが続くと、不思議なことに毎晩布団に入る時には、今は亡き両親との思い出や中学や高校の友人らとのバカ騒ぎが、次々と脳裏に浮かんでくるようになった。
昔は色々と楽しかった、毎日何も考えずに過ごせて良かった。
そうしている間は、仕事の苦痛から解放されて気も楽になった。
その内に眠ってしまい、気がつけば朝を迎え、また会社へと行った。
そんな毎日を送っていたある日、いつまで経っても眠れない夜があった。
ゴロゴロと転がったり、枕の位置を変えてみたりしたが、眠気はさっぱりやってこない。
その内に、今まで思い出せなかったような細々とした思い出が次々と頭の中に湧き出てきて、更に眠れなくなった。
今まで生きてきた人生のうち、何が一番楽しかっただろう。
何が一番嬉しかっただろう。
何に一番感動しただろう。
「色々とあったよな」
呟くと、次に物哀しさや虚しさが募ってきた。
けれど、懐古するのを止められなかった。
家族の皆がまだ揃っていた頃、大きな丸いケーキに興奮した誕生日パーティー。
高校の時に悪友たちと、学校の敷地内で一番デカい講堂の屋根の上へと登って、バカみたいに叫んだり、そしてそこで大笑いしながら寝転がって見た高い高い空だったり。
それは雲ひとつなく、清々しく気の晴れる青空だった。
「あの頃に戻りてえ」
そこで思いも寄らず、涙が頬を伝った。
そして、その涙が耳を伝って枕へと流れ込む瞬間、頭の中に違和感を感じた。
それは「頭」ではなく、「脳」を直接両手で掴まれてゆさゆさと振られるような感覚。
そんな感覚がしばらく続いてから、今度は声が聞こえてきた。
頭へと、脳へと直接響く声。
それは女性のもののようであり、少年のもののようでもあった。
『過去を振り返っても、現在は生きられない』
眼を開いたり、閉じたりしてみたが、それは関係無いようだ。
『君の未来は輝いている』
『前を向いて、未来に向かって生きよう』
最初、梶井は何だこの人生相談のアドバイスのようなペラペラで安っぽい言葉は、と怒りがじわじわと湧いてきた。
声に出して抗議したかったが、これが現実の世界のものではないと分かっていたので、頭の中で言ってみた。
『おい、うるせえぞ。どう生きようが俺の勝手だろ』
すると途端に声が止み、脳を揺すられる感覚も次第に引いていった。
梶井はこの出来事が、浅い眠りで見た夢うつつのものだと思い込んでいた。
けれど、それが二、三回続いたある日、梶井は唐突に気が付いたのだ。
『俺の頭の中に勝手に入ってくるな‼︎』
そう告げると、声はぷっつりと途絶えた。
一体何なんだと訝しげに思いつつその日は眠り、そして次の朝出社すると、ざわざわと数人で雑談していた同僚の中の一人から、お前一体何やったんだと声を掛けられ、そのまま社長室に呼ばれてクビを言い渡された。
(そんで今はここで雇われている、公僕ってわけだ)
この経緯を思い出す度、途端に口の中に苦味が湧いて出る。
そのまま思い出を抱えたまま、後ろ向きに生き続けていたら、そう考えるとふるっと身震いがする思いだ。
「え、俺が自殺?」
今は梶井の上司であり課長だが、この時はまだ『健康維持管理局』の一兵卒であった安居を前にして、梶井はその言葉に動揺を隠せなかった。
自宅のテーブルの上で貰った名刺を、いつの間にかぐちゃぐちゃに握り締めていたことを思い出す。
「はい、あのまま放っておいたら、遅かれ早かれそうなっていたでしょう。我々は国民が過去を振り返ったり思い出に浸ることによって、自死やうつ病などといった深刻な事態にならないようストッパーとなる仕事をしています。人は過去を振り返ることで、現実逃避に走ります。その程度が進行すればする程、うつ病や自死の確率が上がります。勿論、皆がそうなるとは限りませんが」
安居の話を聞きながら、梶井は名刺を握り締めた拳に更に力を入れた。
「だからって、人の頭の中を勝手にどうこうして良いって訳じゃないだろ」
安居はカバンから一冊のファイルを取り出した。
「ここに私たちが今までに行ってきた仕事の実績があります。ご一読いただければと思います」
そう言って、安居は帰っていった。
梶井は直ぐにファイルに目を通した。
そこには、何万人という人数を救ったとされる輝かしい記録があった。
けれど、実際には救ったと言えるのかどうかは疑問が残る。
彼らがそのまま処置をされず放置された場合に、実際うつ病を発症したり自死に至ったのかどうかは、実証されていないからだ。
「クソ怪しいな」
梶井はファイルを投げ出すと、ごろんと身体を畳の上へと投げ出した。
腕を頭の下で組む。
梶井自身もこのファイルの仲間入りをするところだった、と安居は言っていた。
(本当なのか)
不思議に思う。
脳へと直接届けられる声は、普通の人間なら言葉としては聞こえないはずなのだと安居は言った。
その声は脳波の一種に変換されて届けられるので、その脳と共鳴はするが、対象者本人には「言葉」として伝わることはなく、けれどその指示は本人には自覚がないうちに、確実に脳へと刷り込まれていくという。
未来へと進むよう、もしくは良い方向に考えるよう言葉を掛けると、脳はそれを認識し前向きに考え始めるという。
つまり、対象者の脳へ直接語りかけることによって、対象者の考え方や感じ方をポジティブシンキングへと導くのだ。
それによって、うつ病や自死を防ぐという方法。
その声は左腕に装着することを義務付けられたαウォッチを介して、脳へと直接流し込まれる。
そして寿命を管理する『生き時計』と同様に、政府が管理運営する、この未然に自死やうつ病を防ぐというシステムは、国民には秘密裏に行われ維持されているという。
梶井はその点に、憤りを感じざるを得なかった。
「自分が知らないうちに、頭ん中、操作されてやんのか。クソッタレだな」
梶井は、一週間後に再度訪ねてきた、この頃にはまだ若さの残っていた安居の飄々とした表情を思い出していた。
安居はその時、一度目の公務員候の堅物キャラは脱ぎ捨てて、これが本来の素であろう姿を晒して言った。
「君は本当に、珍種だな」
咥えタバコで胡座とは、と梶井は苦く思った記憶がある。
「君はこのシステムに気が付くことが出来た数少ない人物だ。もちろん君の気のせいだろってスルーしても良かったんだけど、その能力を買わせて貰いたいと思ってね。そう、うちで公僕として働いて欲しいと思っている。まあ、一緒に働いてくれりゃ、口封じも簡単だしな」
脅しとも取れる言葉に一瞬、怯む。
「公務員だし、待遇は良いよお」
「……そんで会社クビになるように仕向けたんだな」
「退路を絶ったんだよ。胸くそ悪りい思いをさせてすまなかったな」
「勝手に人の頭ん中入ったことは、謝らねえの?」
「それが仕事だからねえ」
「だったら、もっと有意義な言葉を用意しろよ。笑っちまったぜ、未来に向かって生きようだの何だの。だせえっつーの」
「では君ならどう声を掛ける?」
はっきりと疑問形で聞かれて、梶井は安居の顔を見据えた。
安居は目を少し細めて、タバコを咥えた唇の、片方の口角を持ち上げて憎たらしい顔を作っている。
梶井はその癪に触る顔を睨めつけると、前回握り潰した名刺をころっと机の上に転がして言った。
「今日を生きろ、だよ」
そう言うと、途端に笑いが込み上げてきて、ぶはっと吹き出す。
そして笑いながら安居を見ると、安居も腹を抱えて笑いこけていた。
一通り、二人で笑うと安居は言った。
「じゃあ、共に今日を生きようぜ。こうやって本人に面と向かってなら、それもありだろ?」
その時には自覚するには至らなかったが、その安居の言葉は後々、梶井の中の深い場所へと沈んでいって、そこでしっかりと根を張っていった。
その根は深く深く、そしてその先もっと深くへと張り巡らされ、ちょっとやそっとでは揺るがない強固なものになった。
その時、安居が落とした咥えタバコの火の焦げ跡が今でも畳に残っているように、梶井の中でその言葉が、いつまで経っても消えることはなかった。
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「今を生きろ、ってなあ」
ガラス張りの向こうのメインルームを背にして、咥えタバコを器用に口元でフリフリしながら、安居が目を細める。
「超過勤務でつけましたから。これ、報告書」
報告書の中には、対象者『16歳 女性』。
彼女の生き時計がどのようにして過去と未来の二つの時間に分かれていったのか、そしてその二つに分かれた数字が、どのようにして本来の一つの数字に戻っていったかの経緯が書かれている。
『リウィンドパターン Rタイプ。デボラシステムにより、リウィンド改善。ランクは現在、Lightを維持』
まだ要観察、要注意ランクではあるが、とりあえず緊急事態となる可能性が低いところまでは、引っ張ってこれた。
データ上では、うつ病もしくは自死の一歩手前で思い止まらせたはず、だ。
今後は、実際に対象者に会ってその危険性が無いかを確認するのだが、それは事後ケア担当の仕事となる。
「変わんねえな、お前」
「あと、ルーイーにお灸をすえてやってください。あいつ、トイレとか言って、彼氏に電話してんですよ」
「何、勤務中にそんなことやってんの? けしからんヤツだ。減給だな、減給」
「対象者の事後ケアは誰が?」
「サヨリちゃん」
自分と同じハーフであるのに、外見も内面も完全な日本人である戸松 小夜梨を思い浮かべる。
外国人の要素と言えるものは瞳の色が薄っすら茶色という一つだけで、あとは黒髪で背も低く、顔もあっさり、到底ハーフにはみえない。
もちろん、英語も喋れない。
そう思ったところで、梶井は俺もか、と苦笑すると、部屋から出て行こうと踵を返した。そこへ珍しく声が掛かる。
「なあ、梶井。今日、ちょっとあいてるか?」
「何ですか」
「一杯飲むのに付き合えよ」
咥えていたタバコを取り、灰皿にグリグリと潰して離す。
「珍しいですね」
「まぁね」
何かを話したそうだな、そう感じると、梶井は了承の返事を投げた。
この時はまだ、安居の中にある意志を何ら感じることはなかったので、仕事の愚痴か何かだろうと思いつつ、梶井は部屋から出ていった。




