光
「じゃあ、始めるよ。梶井くん、準備は良いかな?」
「はい、どうぞ」
隣に川瀬 町子が座っている。
もう少しで、肩が触れそうな距離にいる。
ちらと横目で見ると、その視線は水無のパソコンの画面を映し出す、前方のモニターに釘付けになっている。
引き結ばれた唇と握り込まれた拳で、その緊張が一目瞭然だった。
「大丈夫だよ、俺がついてる」
そう伝えたかったが、声にならなかった。
自分も緊張しているのかと、梶井は苦く思った。
その代わりに握り込まれた手を、そっと握った。
ピクリと小さく驚いて、川瀬は梶井を見、そして頬を染めた。
(綺麗だとは思っていたけど、ほんと可愛いんだな)
梶井はそう思うと、何だか照れくさいような気持ちになり、前を向く。
川瀬も前を向いたのが、視線の端で分かった。
梶井より一回り小ぶりな手が加減された力で、梶井の手から逃げようとしている。
けれど、梶井は離さなかった。
そうしている内に諦めたのか、川瀬は手を返してもぞもぞさせながら、梶井の手に合わせるようにして握った。
「じゃあ、行きます」
水無の声が部屋に響く。
梶井と川瀬がヘッドセットを通して、環を通して、外部リンクを通して、そしてデボラシステムのネットワークへと繋がろうとしている。
目を瞑ると、梶井の脳内に、一つずつ扉を開けていくイメージと、先へ先へと掻き分けて進んでいくイメージとが重なり合って浮かんだ。
『デボラシステムに入る。ルーイー、開けてくれ』
誰かの声が聞こえたような気がした。
けれど、これが梶井自身が話している声だと、気づくのに少し時間が掛かった。
ルーイーからの返事は聞こえなかった。
けれど、デボラシステムの扉は、開かれた。
(道を歩いているみたいだ。何だ、何となくだけど、出来そうな気がしてくる)
水無が言っていた各地区ごとの入り口、葡萄がその身を落とさないように支える蔓の枝の部分にやってくる。
ここで、入り口が開けられるのを待つ。
『環、お願い』
川瀬の優しい声。
『たまちゃん、おねえちゃんだよ』
少しして、同じような高さの細い声。
『おねえちゃん? まあちゃん?』
切なくなるほど、か細い。
楽器が奏でる旋律のような。
『たまちゃん、逢いたかったよ。おねえちゃんね、たまちゃんにすごく逢いたかったんだ』
『まあちゃん』
『ここの入り口、開けてくれる?』
『まあちゃん』
嬉しそうな声の後に、一つずつ入り口が開けられる。
『たまちゃん、ありがとう。あと、梶井さんをね、お願いね』
慈愛に満ちた声。
川瀬の声が震えたように聞こえた。
「はじめまして、梶井さん。行きましょう、一緒に」
突然、環のクリアな声。
横っ面に張り手を食らわされたように、現実へと引き戻される。
そして、そこからは意識を集中させ、全ての入り口から、中へとその意識を滑らせて入っていった。
梶井はそのまま、デボラシステムの末端を目指していった。
✳︎✳︎✳︎
「君と環ちゃんなら、できると思うんだ」
大賀が言い残していった言葉を、頭の中で反芻する。
梶井はそんな大賀の背中を思い出しながら、川瀬 町子を自分の前に置いて、息を吸い込んだ。
川瀬は、梶井の前で身体を固くしている。
「川瀬さん、俺の話をしっかり聞いてください」
「は、はい」
何事かと警戒している川瀬の肩に両手を掛けると、川瀬は驚いたように身を引こうとした。
それをぐっと手に力を入れて引き止めると、梶井は決意が鈍らないうちにと強い声で言った。
「俺はあなたを愛しています」
「は?」
川瀬が間の抜けた顔で、梶井を見る。
「あの、よく分かんねえけど、好きですっ‼︎」
すると、みるみる川瀬の頬が赤く染まっていった。
「あの、どういう、」
言葉の最後は聞き取れない程の、か細い声。
梶井は大きく息を吸い込むと、次には細く息を吐き出して、気持ちを整える。
「好きっていうことですっ! これが終わったら、俺と付き合ってもらえませんかっ」
整えた気持ちは冷静さを呼んできて、頭の中もきんっと冷える。
川瀬が、俯く。
背の高い梶井から見ると、川瀬の頭頂部しか見えず、けれどそこから耳の先がほんのりと赤く色づいているのが見える。
もうそれだけで、うわ、と思い、梶井は両手で川瀬の頬を包み込むと、少し屈んで前髪の上からその額にキスをした。
驚きの表情も、その色を真っ赤に染めている。
「い、今はイギリス人だからっ」
全くもって俺はバカだなと思いつつ、一心不乱に抱き締める。
川瀬は両手で顔を覆うと、小さな声で言った。
「こういうの、すごく恥ずかしから、もう止めてください」
梶井は頭から血の気が、さあっと引いていくのを感じた。
「でも俺、頑張るからっ! っていうのは、デボラのことだけど、環さんにも負担かけねえようにするし、君にも迷惑掛けねえから」
川瀬が、両手の隙間からちらと覗く。
上目遣いのその瞳はまだ、ゆらゆらと揺れていた。
「頑張るからって言うのも変だけど、でもマジ頑張るから俺の恋人になってください」
梶井の腕の中の川瀬は小さく縮こまっていて、小動物のような可愛らしさを感じた。
「俺が守るから」
必死で説得、いや必死で口説く。
「ね、俺じゃダメ?」
無言の川瀬を抱き締めていると、色々と雑事が頭の中に浮かんでくる。
「も、もしかして、安居さんのこと…… 蓬莱とか、蓬莱とかっ」
自分で言って全力で否定する。
「ダメダメ、そんなの、絶対ダメ! 俺にしてっ‼︎」
そして次を続けようとして、川瀬の身体が震えていることに気づく。
慌てて覗くと、彼女の悲しさをこらえたような顔が梶井の目に飛び込んできた。その瞳の縁から、涙が溢れるのを認めた。
「ご、ごめんなさい」
そして、腕で押してそのまま梶井の腕の中から離れていった。
梶井は自分でも自覚のある情けない声で言った。
「え、それって、ダメってこと? か、川瀬さんっ、ちょ、待って!」
川瀬が零れ落ちる涙をそのままにして、口元を手で押さえながらドアから出て行くのを、梶井は呆然と見ていた。
✳︎✳︎✳︎
(このままブドウの粒へと入っていけば良いんだろう。俺、出来そうだ)
身体中の細胞が、自分の言う通りに操ることが出来るような気がして、頭が冴える。
背中を押されているような気になるのは、環のアシストがあるからだと、直感で分かる。
自分の歩みを上回る力。
梶井は環の凄さを体感していた。
意識をするすると伸ばしていく。それはまるで蛇行しながらも目的の獲物へと目指して走る、ヘビのようでもあった。
デボラの各地域の入り口に立った時は、二億ものブドウの粒へと届くのだろうかという不安を払拭できなかった。
けれど、行ける、梶井はそう思った。
環の力が予想を上回り、梶井の力をどんどんと引き出して増幅してくれる。
坂道で自転車に乗った自分を、環が後ろから押してくれるようなイメージ。
坂をどんどんと何の障害もなくスムーズに登っていくイメージ。
その時、声が届いた。
『梶井くん‼︎ これ以上は環が死んでしまうっ‼︎ 止めてくれ、止めてくれえ‼︎』
狂ったような声が響いて、梶井は立ち止まった。
その水無の悲痛な叫びで我に返る。
そしてその声で、自分が環の力を使い過ぎていることに気づいた。
『環さん、もう良いっ! 手を離してくれ、この先は俺が行く‼︎』
『でも、』
川瀬の声と同じ高さで、環が呟く。
『大丈夫、俺を信じて』
梶井が説き伏せるように言うと、ふっと身体が軽くなる。
けれど、直ぐに重力のような重みが襲いかかってくる。
さっきまでとは天と地ほどの差がある重み。
足に枷をはめられたように、途端に動きが鈍ってしまう。
『くそっ、もう直ぐだってのに』
ゴムか何かで引っ張られるような、思い通りに動かない身体に神経を研ぎ澄ませていく。
そして、更にその触手を伸ばしていくようにして、集中力を高めていく。
『もう直ぐ着く、もう直ぐだ。くそっ、』
身体が縦横無尽に引っ張られて、バラバラになりそうな錯覚に陥った。
もう少しで気がふれる、そう思った瞬間、声に助けられる。
『梶井さん、』
川瀬の柔らかい声。
『あと少し、』
最後の力を振り絞って、最後の一粒に手を伸ばす。
そして、二億の感触を得ると、梶井は叫んだ。
『川瀬さん、今だっ‼︎』
そして、川瀬によるリウィンドは開始された。
過去へ。
十分前に巻き戻る。
日本中のαウォッチを着けた国民の、『生き時計』のカウントが、一斉に一秒一秒と戻り始めた。
枝分かれして現れるリウィンドの時計ではなく、人の寿命を刻む『生き時計』の「本体」が、一斉に巻き戻される。
カチッ、カチッ、カチッ……
そしてその二億もの負荷に耐えられずに、αウォッチは少しずつその機能を壊していった。
『たまちゃん、また逢えるから。おねえちゃんね、いつまでも待ってるから』
川瀬の優しく切なげな声が響く。
『うん、また逢える、まあちゃん、待ってて』
環の返事が、梶井の心の中にもするりと入る。
『梶井さん、水無さんに。あまおう、美味しかったって伝え、て……』
その余韻に浸りながら、梶井は大きく息をした。
そして、完全に巻き戻りが完了する三秒ほど前になったその時、ありったけの声を上げた。
『政府よりお知らせします! アルファ・クォーツ社製、αウォッチはリコールの対象となりましたっ。詳しくは、アルファ・クォーツ社までご相談ください‼︎』
そして、川瀬のタイムリープによるリウィンドも、それと同時に終了した。
✳︎✳︎✳︎
「だってさあ、梶井くんがそんなこと考えてるなんて、思いも寄らなかったんだもん。ほんと、奇想天外な人だね。はああ」
水無が感嘆の息を吐きながら、言った。
「いや、この人、バカなだけなんで」
蓬莱が華月庵のプリンを一つ、手前に引き寄せてから、梶井を貶める。
大切そうに両手で握ると、口で袋からスプーンを器用に破って出した。
「マジでな、何だよ、リコールて‼︎」
ぶはっと吹き出しながら安居がラベルを見ずに、キャラメル味を引き当てる。
「よっしゃあ、キャラメル味、ゲッツ‼︎ 梶井よう、もうちょっとマシなもん思いつかなかったのかよ。クソ頭悪りいな」
梶井が黙っていると、蓬莱が重ねてくる。
「本当だよ。大賀さんが、あんまり梶井くんがハイブリッドで凄い的なこと言うから、ちょっとは期待してたんだけど、がっかり感が半端ないわっ。リコールて、リコールっ‼︎」
「……うるせえ」
梶井がこれ程まで罵倒されていて言い返さないのには、実は理由があった。
誰もその理由を知らないはずなのに、勘の良い水無がつついてくる。
「梶井くん、さっきから黙ってるけど、もしかして川瀬さんにフラれた?」
梶井がうわっと顔を上げて、水無を見る。
「え、え、え、何で知って、」
慌てて、手で口を押さえる。
「見れば分かるよ。あんなに頑張ってたのにねえ。フラれるとは、何ともダサいなあ」
「だってこいつ、いきなり抱き締めたり、チュウしたりするんですよ。セクハラでしょ、完全に。そりゃあ、嫌われるわ」
「うおいっ‼︎ 蓬莱、ヤメロっ」
「ほんと、ダセえ。女心ってもんを少しも分かってねえな。引くわあ、いきなりチューは俺でも引く」
キャラメル味を一気に流し込むと、安居がうめえと言って、残りのプリンに手を伸ばす。
「誰もあんたにしねえっつーの」
水無にバラされたことより、フラれた事実に打ちのめされる。
反論の言葉に攻撃力は無い。
「けどなあ、俺が今こうしてプリン食っていられんのも、まあ、何だ、おまえのお陰だよ」
口にスプーンを咥えながら安居がしみじみ言うと、そこに居る全員が納得したような顔になる。
αウォッチのリコールの件については、梶井の独断だった。
このままデボラシステムをダウンさせるだけでは、秘密裏に片付けられて安居を始めとした自分たちは、国家転覆に関わる謀反の罪で、重罪人と成り果てる。
そこで、安居が以前「内部告発」という言葉を使っていたことを思い出した。
マスコミにリークするという手もあったが、今からデボラシステムによって、国民全員のαウォッチを乗っ取るのだからそれを利用する手はない、そう梶井は考えた。
ルーイーの脳に直接話し掛けて、仲間に引き込んだことを思い出す。
そして、そこで今回の案に気がついた。
自分の脳に直接声が届いてその仕組みを知った国民は、大多数がその場でαウォッチを放棄。
そして、それは伝染する民衆心理につけ込んだ形となり、ちょっとしたパニックを各地で引き起こした。
アルファ・クォーツ社には国民からの問い合わせが殺到し、その真相を暴こうとネットでは犯人探しが行われ始め、そんな事態の収拾をつけるため、政府も動かざるを得なくなった。
先ずはアルファ・クォーツ社への家宅捜索が行われた。
そしてその後、行政処分という流れとなり、結果いわゆるトカゲの尻尾切りとなった。
もちろん、政府の関与は世間にも知られているので、その火消しにてんやわんやの状態が今でも続いている。
現在では、国民やマスコミが政府関係者が行う説明や発言に対していちいち揚げ足を取り、そして政府はまたその説明に追われるという、イタチごっこの様相を呈している。
そんな時に、『生き時計管理課』の内部告発者を処分できるはずもなく、安居はあっさりと解放された。
何も知らずに職務を全うしていた局員は皆、元々公務員であったため、守秘義務を背負わされてではあるが配置替えや転勤のみの処遇で終わったし、デボラシステムは完全にダウンして、二度と手を入れることは出来なくなった。
そのデボラシステムは環の頭脳でしか構築することができないので、政府に再利用される心配は当面の間ない。
その環自身を今回の騒動の立役者の一人である水無が手中に収めているのには、安居側にしてみれば無言の戦利品と言っても過言ではないだろう。
環は未だ眠っている。
その成長を、少しずつ進めながら。
「身体がこのまま成長し、早過ぎた脳の成長に追いつけば、あるいは」
梶井は水無の言葉を頭の中で反芻した。
環が目覚める可能性を、水無は否定しなかった。
そうなれば良いな、心から単純にそう願った。
「それにしても、この研究所が残って良かったですよ」
大賀が、皆が空けたプリンのカップを回収しながら言った。
それに応えながら水無は、空いたカップを大賀の方へと寄せる。
「まあ、何も無けりゃ潰すことも出来るんだろうけど、実際問題、環がここで眠ってるからねえ。ほっぽり出すわけにもいかないだろうし。それに、ここには日本中の天才や逸材が集まっているから。環を含め、手放すことのできない貴重な資源だと思っているんだろうね。それに、一箇所に集めて、管理しときたいんじゃないの」
実は今回の件に関わりがあった梶井、安居、蓬莱は、もちろん公務員を辞めさせられはしたが、この水無の研究所において再雇用となった。
公務員はクビにするのが難しいため、形だけの依願退職へと促されたのだが、その見返りとしてこの研究所での再雇用という条件を、目の前にぶら下げてやったのだ。
そして、処分や提訴などは無しにして穏便に済ませたいという両者の思惑が一致し、今に至る。
「日本中の天才って、俺、マジでそん中入ってねえわ。はああ」
梶井が項垂れて、溜息とともに呟く。
机に顎を乗せて、背中を丸める。
「まあ、お前はバカだから入ってねえわな。俺は違うぞ、俺は入ってる。一般ピーポーと見せかけての、天才だ」
「安居さん、結局何にもやってないのに。よく言うよ」
蓬莱が、蓬莱の中で以前よりは少しだけランクの落ちた、安居に言葉を投げる。
「仕方がねえだろ、俺はその頃まっずい飯を食わされてたんだからよっ」
「ねねね、あたしは? あたしは? 入ってるよね?」
一人だけテンションが異質なルーイーが声を上げた。
ルーイーはデボラの入り口を開けるのを手助けした罪で、梶井たちと同じく、流刑に処された。
最初は、ルイのせいだあ、と泣きながらキャンキャンと吠えていたが、暫くするとこの研究所を大層気に入り、今では研究所の中を楽しそうに走り回ってる。
皆の声がそれぞれに揃う。
「お前は入ってねえ」
「ルーイーは入ってないね」
皆が腰を上げて、残ったプリンを一つずつ取り上げて、部屋から出て行く。
「何よう、あたしの分はあ?」
一つとして残らなかったプリンの残像を見ながら、ルーイーは腕を組んで、頬を膨らませた。
✳︎✳︎✳︎
「ルイ、ルイっ。久しぶりだあっ‼︎ 元気にしてたあ‼︎」
梶井に飛びついてきたルーイーを受け止めれず、梶井は後ろへとのけぞった。
デボラシステムをダウンさせ、反乱直後の混乱の中、研究所へとやってきたルーイーが犬のようにはしゃいでいる。
首に腕を回され身体を押されて、仕方なく抱き止める。
「おいっ! 危ないだろ、このボケがっ」
「だって、この間ぶりだよね、わあああい」
久しぶりって、まだこの間からまだ三日しか経ってねえだろ、と抗議の声を出そうとすると、ルーイーが頬に何度もキスをしてきた。
「うおい! お前、それマジやめろ。ここは日本だって何度言やあ分かんだよ。それにお前の国でも、こんな挨拶しねえだろ」
台湾がそういう国だとは聞いたことがない。
ルーイーを引っぺがそうとして、前を向く。
そして、そこに立っていた川瀬と目が合った。
「え、え、あ、これは違うぞ、おい、離れろ、ルーイー」
慌てて腕で押さえ込むと、ルーイーは大人しくなった。
「か、川瀬さん、あのさ」
話し掛けようとしても言葉が出ない。
川瀬の凍った表情で、梶井の口も凍ったように開かない。
踵を返して去ろうとする川瀬を追って、梶井は慌てふためきながらついていく。
「川瀬さん、あいつはそんなんじゃねえっくて。あいつ、外国人で、あれは挨拶っていうか」
「そうですか、日本人の私には関係ないんで」
川瀬の初対面の時のつっけんどんな態度に戻ってしまったかのようで、梶井は心底しまったと思った。
「俺は川瀬さんが好きなんで、」
「関係ないからっ」
梶井を振り切るようにして、歩調を速める。
「関係なくないでしょ、俺はあんたが好きなんだから」
「私は好きでも何でもないっ‼︎」
梶井の足が止まった。
けれど、川瀬はそのまま振り返らずに去ってしまった。
川瀬は反乱後、そのまま看護師として、如月第一病院に復帰した。
公安に目をつけられてはいたが、それは安居の彼女としてであったらしく、安居が無罪放免になった後、川瀬も自ずとフリーとなった。
実はタイムリープの能力は、安居によって上手く隠されていたので、政府の知るところとならずに済んだのだ。
ただ、環の姉でもあるし、貴重な日本の純血種としてリストにあがっていることには変わりないので、その高い知能はこれからの使い所を期待される存在となるには違いない。
梶井はそのまま、そこで当分の間、突っ立っていた。
好きでも何でもないなら、嫌いというわけじゃないはず、そう自分に良いように言い聞かせて、何とか水無のラボへと戻った。
梶井は川瀬に好きになって貰えなかった自分が情けなかった。
じゃあ何だ、誰か他に好きな人でもいるのか、そう考えると頭がおかしくなりそうだった。
その後、看護師に戻った川瀬は、時々妹の様子を見に来る。
その時にちらと様子を見掛けたりするが、やはりただ単にその場で突っ立っているしか、梶井には出来なかった。
(相変わらず、綺麗だ)
帰っていく後ろ姿を、ただ見つめるしかできなかった。
✳︎✳︎✳︎
「おうい、ぼーっとしてんなあ、相変わらず。ちゃんと仕事してんのかあ。梶井さあ、失恋の痛手も明日の成長の糧だぞ、なっ‼︎」
廊下で出会った安居にバシッと背中を叩かれる。
「イケメンの使い所を間違えたねえ」
蓬莱にも肩を叩かれ、梶井はそこそこ復活してきていたテンションがまたもや急降下していくのを感じた。
(くっそ、言い返す気力も出てこねえ)
廊下をずんずんと歩いていって、環の部屋へと入る。
ここはまだ、関係者以外は立ち入り禁止となっていた。
水無が、環との二人きりの時間を大切にしているからだ。
(水無先生は、環さんのこと、どうして好きになったんだろうな)
今度機会があった時に聞いてみよう、そんな風に思っていたら、後ろのドアが開いた。
どきりとした。
川瀬が立っている。
梶井は痛む胸を押さえながら、部屋から出ていこうと歩みを進めた。
すれ違う時に、挨拶の意味合いで頭を下げる。
ドアのパネルに手をかざそうとした時、川瀬の震える声が響いた。
「梶井さん、この前は、すみませんでした」
梶井は振り返ると、川瀬の後ろ姿を見た。
白く細いうなじから、目が離せなくなる。
「何がですか? あれは俺が悪いんだし、川瀬さんが謝ることなんてないですよ」
無言のうなじに話し掛ける。
「それでも俺、好きなんで。あんま会ったことないのにな、俺たち。何でかな、でも凄え惹かれるんだ」
更に続ける。
「でも、大丈夫。俺、一方通行とか平気なんで。川瀬さんは色々、頭悩ませなくても良いですよ」
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさ、い……」
小さく消えそうな声で何度も謝罪する。
そんな川瀬の様子に違和感を感じながらも、ゆらゆらと揺れる背中が愛しくて、梶井は堪らなくなり近づいていった。
本当なら、抱き締めて慰めたい。
けれど、二度それで失敗した。
ぐっと我慢し、言葉だけ掛けた。
「マジで、川瀬さんが謝る必要ないって。ね、泣かないで」
両手の甲や指で涙を拭う様子を見て、頭を撫でるくらいなら許されるだろうか、そう思って手を伸ばす。
けれど、指先が触れるか触れないかで、梶井は動きを止めた。
髪一本にでも触れてしまうと、拒否され嫌われて逃げ出されるのが恐い。
梶井は指を引っ込めた。
「違うの、梶井さん。私、梶井さんに謝らなければいけないの」
ゆっくりと振り返った川瀬の顔は涙と苦しみでぐしゃぐしゃだった。
眉根はきつく寄せられて、唇は歪んで結ばれている。
流れ落ちる涙。
思いも寄らぬ川瀬の言葉に、自分では全く思い当たることがなく、おろおろと動揺してしまう。
「え、っと……何の話?」
頭を掻きながら、梶井は困惑の表情をそのまま続けた。
✳︎✳︎✳︎
「ちょちょちょ、違うって、マジで何にもやってねえって‼︎」
そこへ運悪く部屋へと入ってきた蓬莱に向かって、梶井は全力で否定する。
「梶井くん、いい加減にしてよ。やって良い事と悪い事があるだろっ」
「いや、だから違げえって。俺、マジで何にもやってねえ‼︎」
前科者の言うことなど信用ならないんだよと言う蓬莱の攻撃を、両手でストップの仕草をして防御する。
すると、川瀬が慌てて訂正する。
「蓬莱さん、違うんです。私が勝手に泣いてるだけで。梶井さんは悪くないんです。本当に何も、」
「何もされてません?」
「……はい」
「じゃあ、良いですけど。もし何かしてきたら遠慮なく殴ってやってくださいね。それで、こいつの目も覚めると思うんで」
それはないだろ、などと呟きながら、梶井は後ろへじりじりと退いていった。
デスクの前にあるイスに座り込む。
そして、もう一つのイスを自分の前に置き、どうぞと川瀬に勧めた。
その動作を見て蓬莱は、ふんっと荒い息を吹いて、部屋から出ていった。
この状況を見て、環のバイタルチェックを夕方へと変更してくれたらしい。
空気を読むのが得意な蓬莱の気配りに感謝しつつ、川瀬がイスにそろそろと座るのを見てから話し掛けた。
「話して貰えますか?」
もう涙が乾いて乾燥した肌に、触れてみたいと思う。
その頬に残っている涙の跡を指先で辿っていきたいという衝動に駆られ、梶井はマジで狂ってんな、と自嘲気味に思った。
「実は梶井さんには、以前に一度お会いしているんです」
「……不整脈の件、じゃなくて?」
「はい、その前に一度」
梶井には覚えがなかった。
記憶を叩いたり振ったりしてみたが、そのような出会いは落ちてこない。
物覚えが悪いわけではないので、直ぐに理解できた。
「タイムリープで忘れさせた?」
川瀬がその身を更に小さくして、固まっていく。
「……はい、」
「いつ頃のことですか?」
「不整脈の件でいらっしゃった数ヶ月前です。梶井さんは私がタイムリープできることに気づいて、私を調べに来たんです。その直前に安居さんに連絡を貰って分かりました。梶井という者が私を調べに行こうとしているが、今は会わないで貰いたいから、取り敢えず直ぐに外出して留守にしていてくださいと言われました」
「俺が川瀬さんの生き時計に違和感を感じた時だな。でも俺、蓬莱に言われて、」
「いえ、私の所に調べに来たんです。私は直ぐに家を出ようとしました。けれど、間に合わなくて。玄関のドアを開けた時、あなたに逢ってしまった」
覚えがないということは、川瀬がタイムリープを使ったことの証拠となり得る、が。
「じゃあ、川瀬さんに初めて会ったような気がしなかったのは……」
「頭の隅にでも覚えていたんでしょうか」
「それなら納得できるな。もしかして、その時俺とぶつかってない?」
「はい、私、慌ててドアを飛び出したから」
川瀬を抱き締めた時、その腕の中の存在感に梶井には身に覚えがあったような気がしたのは、それが当たりだったということになる。
「その時、俺たち何か話した?」
「私がごめんなさい、と言うと、」
川瀬が口籠る。
「俺、何て?」
促してから気づく。
多分、それは。
「俺の方こそ、ごめんって」
梶井は心の中で得心した。
川瀬にどんどんと惹かれていったのは、そういう理由があったのだ。
(その時に、俺は川瀬さんに一目惚れしてたってわけだ。だから初めて会った時には、俺はもう、君の事を)
川瀬の言葉がするりと入ってきた。
欠けていた何かがぴったりとはまり、とても清々しい気持ちになった。
けれど、川瀬はとてもそんな気にはなれないのだろう、更に涙を重ねて謝罪を続ける。
「ごめんなさい、こんなのデボラと同じだね。私、今までそんなこと考え無しで、ほんと大したことない事ばっかに、この力を使ってきた。自分だけじゃない、他人の人生にも私は踏み込んで変えてしまってた。最低なこと、してた」
梶井は目の前で、肩を震わせて泣き続ける川瀬を見つめていた。
「私、梶井さんに会えて嬉しかったの。梶井さんすごく素敵な人だったから。でもその時、ぶつかった時、安居さんから直ぐにも電話があって、まだ私と梶井さんが出会うにはタイミングが早過ぎるから、タイムリープしてくれってその場で言われて。それで、そのまま……」
一時間ほど過去へと戻り、そしてそれを二回繰り返して、梶井が蓬莱に疑問を投げる時間まで巻き戻った。
その後、川瀬から連絡を貰った安居が手を回し、蓬莱にとぼけるように仕向けたということだった。
「すごく悲しかった。梶井さんの大切な時間ももちろん、私の気持ちも無かったことにしなきゃいけなくて、悲しくて悲しくて。その時、これが私がやってきたことなんだって思い知って……」
んっと、川瀬の喉が鳴る。
「自分を許せなくなった。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
すすり泣きが酷くなり、込み上げてくるものを抑えきれずに、びくびくと身体が脈を打つ。
「ほんと、ごめ、なさい」
手の甲を口に押しつけて、涙をぼろぼろと零すのを見ていると、そんなことどうでも良いと思えて、梶井は慌てて言った。
「ちょ、川瀬さん、そんなの良いって。だって君は安居さんに言われてやったんだし、安居さんも安居さんで今回の件もあってそれなりに考えがあったんだろうから、仕方がないっていうか」
「でも、ひ、ひどいですよね、自分勝手に他人の中に入って、大切なもの、大切な時間を、う、奪っていくんだから」
安居が、以前に話していたことが甦ってくる。
(俺はさあ、十二年この仕事やってきた割に、結局のところこの仕事の真の意義を理解できんかった。必要性を感じられんかった。人の生き死にに踏み込むことじゃねえよ。他人の人生自体に踏み込んじゃいけねえって思うんだ。しかも、俺たちは土足でなんだよ。相手が何が何だか分かってねえうちに、土足で踏み込んでんだよ。命を助けるどうこうじゃねえ。それ以前の問題だって思うんだ)
「じゃあさ、後悔してんなら、これからはそれをやらないようにすればいいんだよ。そんでいいじゃん、デボラシステムも完全に潰せたんだし、もう必要ないんだから、ね」
強く念押しのように、ね、ともう一度促す。
すると、川瀬がこくんと頷いた。
もう一度抱き締めたいと伸ばした手を宙で迷わせると、梶井は自分の頭へと持っていき、あちこちに跳ねている髪をばりばりと掻いた。
✳︎✳︎✳︎
「あぁあ、何だそっかあ、一目惚れかあ。まあ、そうだよな、そんな気がしてたわ」
与えられた自室でごろんと寝転がり、頭を乗せた枕に両手を突っ込んで、天井を見る。
「川瀬さんは、俺のことどう思ってんのかって、嫌われてはいないと思うんだけどなあ。俺はちゃんと好きって言ったし、ルーイーのことも誤解だって言ったし、付き合って、とも言った」
自分の気持ちは素直に伝えた。
そうは思うが……梶井は再度、大きな溜息を吐いてから独りごちた。
「でも、関係ないって言われたっけなあ、」
こんな時は、自分の記憶力の良さが恨めしい。
けれど、直ぐに考えを新たにした。
「……俺のことステキな人だとも言ってたな。そうだ、まだ可能性はある」
そして目を閉じる。
(初めて逢った時、ぶつかったと言っていたな)
すると、瞼の裏に何かが光った。
チカチカと、それは瞬いて、梶井の気を引いた。
✳︎✳︎✳︎
「まっちーの復活のお祝い会、駅前の串民に七時集合だから」
「うん、」
川瀬は、同僚の小堺に急かされるように背中を押されながら、以前過ごしていた日常が戻り、ほっとしている自分を感じていた。
けれど、梶井との一件で、その心は常に暗い雲に覆われていた。
そして、そこには悲しみもあった。
(もうこの力も使う気はないけれど。それに、)
それに、の続きを考えると、途端に駄目になる。
川瀬はじわっと目頭が熱くなるのを感じた。
(梶井さんとも、もう……)
足取りの重い川瀬の腕を引っ張るようにして、小堺が促す。
そんな小堺の強引さに苦笑してみると、涙を少しだけ我慢することが出来た。
そんな風に込み上げてくるものをこらえながら病院のエントランスを横切ろうとした時、川瀬はその声に驚いて足を止めた。
「川瀬さんっ‼︎」
背中に声が掛かり、川瀬と川瀬の腕を引っ張っていた小堺が振り返る。
「あ、梶井さ~ん‼︎ お久しぶりですう」
一歩早く、小堺が声を上げた。
もうそれで気後れして、川瀬は声が出せなくなった。
けれどその空気を破るようにして、梶井が声を張り上げた。
「川瀬さん、俺、覚えてるよ! 覚えてたよ‼︎」
梶井が川瀬に駆け寄り、肩に両手を掛けた。
その梶井の興奮ぶりに、川瀬だけでなく、小堺もぽかんと口を開けている。
梶井が息を吸い込み、息を整える。
「俺は、あなたを愛してます」
川瀬が驚いた顔で見上げた。
「付き合ってくださいって、そう言った。今度は俺、ちゃんと覚えてて言うんだ。俺は君にぶつかった時、一目惚れしてそう言った。そうだろ? それで、君が……」
梶井の手に力が入る。
「君が、はいって、言ったんだ! 言ってくれたよね!」
川瀬の目から涙が零れ落ちた。
梶井は川瀬を抱き締めて、
「言ったよね。俺、ちゃんと覚えてたよ」
川瀬が涙を零しながら、言う。
「お、思い出して、」
梶井が腕に力を入れる。
お互い一目惚れなんてそんなことあるか、あり得ねえだろと梶井は思った。
けれど、思い出していた。
突然、腕に飛び込んできた川瀬の顔を。
梶井にとって川瀬は、顔の好みが本当にどストライクの単なる一目惚れだっただけで、運命の出逢いとかそういうことを口にするつもりもなかった。
けれど、ここで口説かなければ男がすたると瞬時に考えた、その時の高揚と興奮までをもちゃんと思い出していた。
タイムリープで忘れ去られたはずの、そんな気持ちもしっかりと覚えている。
梶井には、それが奇跡としか思えなかった。
「俺、今なら自分のこと天才って思えるわ」
川瀬が小さく、ふっと吹いたのを嬉しく思う。
そして、そんな川瀬にも色良い返事をもう貰っている。
自信があった。
「俺と付き合ってもらえませんか」
川瀬が頷くのを見て、ほうっと心から安堵してから、もう一度彼女を抱き締めた。




