1話
「そうだ、温泉に行こう。それが、いい」
コンクリートの上に座った俺は、そのアイデアの素晴らしさに感動し、思わず声に出していた。
後ろの壁越しに、バスケットボールが床を叩く音と、幾つもの足音、威勢の良いかけ声が体育館特有の反響付きで聞こえてくる。
左を見れば三階建ての学舎、右を見ればプール側面のコンクリ外壁。
正面すぐに、ブロック塀。そして幹がゴツゴツとした名前も知らない木が一本。生い茂る葉が陰を作っている。日照条件は常に悪く、じめじめとしている。雑草もまばら。
ここ、五メートルばかりの隙間は、放課後の体育倉庫裏で、今日も閑古鳥が鳴いている。
現在訪れているのは、俺ともう一人。
さて、もう一人。
「一体、そりゃどこのキャッチコピーで?」
俺の隣に座る、眉間にしわを寄せた女子生徒が顔を向けた。
機嫌の悪さを反映した表情は、しかしアニメ調ひよこの如きで、迫力は皆無。むしろ可愛らしいと表現可能だ。黒い内巻きショートカットの髪が、頭を動かした反動で僅かに揺れる。女子の標準冬制服にプラスして、スカートの下に防御力が高そうなジャージ。真新しく軽そうなスニーカー。身長はそこそこ平均で、立ち上がれば俺の目線に丁度頭頂部がくる具合。
多少野暮ったい感はあるが、総じて平凡な外見と言っていい。
例えば、冬に田舎の女子高の朝礼で石を投げたら、「イテェなクソ野郎!」と殴りかかってくる相手が、いや発言と行動はさておき、石の当たる相手が二割か三割程度の確率で、そんな外見をしている、といって良い、そんな気がする。
唯一の特徴らしい特徴は、その名前で、仰々しく、壇ノ浦スミレ。完全に名前負けしている。
「……なんスか、ジロジロ見んでください」
「見てるいようで、見ていない。そんなことより、温泉プラン。幼馴染みから恋人へ、一気に関係、進展。恋を成就させる必勝法。間違いなし、パーフェクトプラン。全てスムーズに、進行。狙い目は、来週のゴールデンウィーク。さあ、壇ノ浦、今すぐ、旅行代理店に電話」
「因みに、そのプランは、いつ考え付きやがりました?」
「三秒前に、ビビッと」
「アホですかい!? そういうのは思いつきってんですよ! ったくぅ……、まあ、どうしてもってんなら、電話くらいしますけど。その前に、どんなプランなのか説明していただけますかね? 詳しく」
「すまない、うっかりしていた。壇ノ浦の頭は、残念な出来。仕方ないので、レベルを落として、話をしてやるから、ありがたく聞くように」
「ひゃほーう! はい、いただきました! 上から発言いただきましたッ!」
「……それはツッコミ?」
聞くまでもない。分かっている、ツッコミではない。
『上から発言カッコワルー』という皮肉でもない。
純粋に。
壇ノ浦スミレは、悦んでいた。
女子が一人、満面の笑みを浮かべつつ、叫び悶えている。
幸か不幸か(幸の場面に出会ったことはないが)彼女は倒錯的な性癖を持ち、責められることに至上の悦びを感じる。簡潔に述べるならマゾの変態だ。あと関係ないが、日本語も変だ。
「ターゲット、五日辰也。仕掛け人、壇ノ浦スミレ。二人で温泉旅行に行って、しっぽりと…………あとは勝手に、告白でもなんでも、すればいいじゃないか?」
「必勝法なのに最後は投げ遣りたァ、どういうことスかね? ってか、何度でも言わせていただきますが、面と向かって告白できんだったら、こんなに拗れてねえんですので!」
「つまり、諸悪の根源は、壇ノ浦」
「ええまあ……全部あたしが悪いんですけどね」
「開き直りは、解決にならない。問題の先送り。先ず、ヘタレであることを、克服すべきでは?」
「ふ、ふふ……、岬さんは、そうやってあたしを虐めて追い詰めて、どうしようってんです? どうにかしようってんですか? なんですか、覚醒させようとでも?」
「既にある意味、目覚めているので。その心配は無用かと」
ところで、今しがたスミレが呼びかけた『岬さん』、先ほどから語り部気取りで、グダグダと脳内言語を垂れ流している『俺』……こと、姓も合わせて柳生岬。本校一年の男子をしている。白髪で目が茶色で肌は白、他に大した特徴のない顔。今朝、鏡を見て確認したので情報は確かだ。何故か良く『浮いて』しまうのが悩み。
ところで、瞳や肌、髪などの外見的特徴は、この学校ではあまり意味がない。
とある事情で、生徒の髪、瞳、肌の色のバリエーションが非常に豊かなためだ。他校の生徒には異様に映るらしいが、慣れればどうと言うことはない。つい先日も、髪は金、瞳はグレーで白い肌、西洋風か、改造された日本人らしき女子生徒が、犬っぽい男子生徒の頭を撫でていた(なかなか痛々しい光景だった)。髪が白い程度では、奇抜とは言えない。因って、浮くはずもないのだが。
二重の脱線、しかも愚痴めいてきた。それはさておき、本筋へ。
「壇ノ浦。俺は飽たので、もう、五日辰也に、振られればいいんじゃないか?」
「きっ、来ましたァ。全、否、定!」
「涎、汚いから拭くこと。……あと俺の顔に、荒い息を吐きかけない。生ぬるくて、気持ち悪い」
「ふ、ふわぁぁん」
「本当に、どうしようもない、変態だ」
そう口に出してしまうくらい、頭のネジがごっそり抜けている。
「い、いいですね、ぐっとキます……。できれば、立ち上がって、リアルに見下して、もう一度お願いできませんかね? はいっ! どうぞ!」
「ところで、その姿はとても、恋に悩む少女とは、思えないのだが」
「…………え、ええ……、分かってんですよ。自分でも分かってんスよ。あたしごとき豚風情が、恋だなんて、笑っちまいますよね」
さっきまでの、危ない表情から一転、口を歪め、蔑むのは自分自身か。
よく見れば、口の端がひくひくと引きつっている。
つまりはセルフでもオッケー、と。壇ノ浦の世界は奥が深い。しかしそんな深淵を覗き込む趣味はないので、出来れば避けて通りたい。
「でも……仕方ないじゃないスか! これが! あたしですから!」
「自分を、認めたつもりの、開き直りは、人格の底が知れる。寒いので、自重。マゾでヘタレということが、最大の問題」
「じゃ、あたしはどうすりゃいいんですか? で、この質問するのも何度目ですかね?」
「質問の回数、『俺が、そんなもの、知るか』を、解答その一、としておく」
「本気で回数聞いてるわけじゃないんで、それはスルーしてもらって……。それより、あたしはどうすりゃいいんですか? って方をお願いできません?」
「キャラを変えてみては、どうか」
「……具体的に」
「五日辰也の好みを、知らないので、壇ノ浦に任せる」
「…………気持ちよくなんか、ないんですからよ?」
気持ち上目遣いで、睨むような風。
「ツンとマゾの両立は、あまりにも大冒険。まあ、落ち着け」
「デレをマゾの一側面と捉えるのは、広義すぎますかね」
「曲解は時に、新ジャンルを開拓する、が、壇ノ浦。そこは、恐らく不毛の地」
「ところで……なんの話でしたっけ?」
「ようやく本題に、戻れる。壇ノ浦への説明は、骨が折れる」
「ごくろうさまなことで」
「では、『そうだ、温泉に行こう。それがいい』」
「そこからですかよ」
「三秒前に」「なぜ温泉なのか聞かせてもらえますかね」
思い出した。そこからだ。
「……そこで温泉。告白が無理なら、別の手を講じる」
「それで、結局あたしに、何しろってんです? 具体的に説明を、詳しく」
「夜這いを、しろ」
壇ノ浦こと、ひよこ風の顔が、少し怖い。それは笑顔ではないよ?
「あー、テメェ様? 告白よりハードル上がってんですが?」
「……歪んだ性癖程度、いたしてしまった事実の前には、薄絹同然であるから」
「そもそも不可能スから!」
「マゾでありながら、エロは無理。これいかに」
「人のことを、なぞなぞの問題みたいに言わんでください!」
虐げられ蔑まれることに快感を感じつつも、一般的な下ネタはNG。
壇ノ浦は、やはり一筋縄ではいかない。
「夜這いは、冗談として」
「一度、殴ってもらっていいですかね」
「俺が殴られる、のではなくて?」
「はぁ、岬さんを殴って何が楽しいんスか? 殴ってやってくださいよ。さあ、ほら、思い切ってどかーんと。どうして首を振るんすか? ほら! ほら岬さん! いいじゃないスか減るもんじゃなし!」
「人として大切な心が、減るので」
キラキラと期待に満ちた目で見られても、やらない。
特に理由はないが、強いて言うなら気持ちの問題。気持ちは大事だ。
「ところで、以前聞いた情報では、五日辰也にとって、壇ノ浦は、ただの幼馴染み、要は兄妹といった関係である、と。間違いない?」
「友達に聞いてもらった情報なんで、信憑性は高いスよ」
「ならばやはり、色仕掛けが有効」
「……詳しく」
「壇ノ浦は、五日辰也に、女性として意識されていない。いかに?」
「不本意スけど、その通りスね」
「ならば、まずはその、平凡な肉体にて、迫る」
「不本意スけど……、まるで見たことあるような口振りスね」
「おっとその手は、桑名の……焼き……は」「どこまで見た、テメェ様?」
そして耳年増でもあるのか。奥が深い。
「さて、温泉旅館の手配は、俺がしておく、ので。五日辰也を、旅行に誘うがいい」
「あたしが旅行代理店に電話するって、話はどこに?」
「友人に、旅館の息子がいた、のを今思い出した。そして彼に対して、俺の発言力は、無限大……クハハハ……」
「ところで辰也くんの予定が埋まってたら、どうしますかね?」
「諦めなければ、きっと道は開かれる、ような、開かれない、ような」
「自信なさげスね」
「所詮は、三秒プラン」
サポートは充実の俺。
そして正否は、壇ノ浦の頑張り次第。






