逃亡の果てに
またこのパターンか。
溜息を吐きつつ、扉を短く二回叩く。一呼吸、二呼吸待って応えの声が内側から響く。さて、ここからが正念場だ。用意した書簡を手にドアノブを捻った。
「失礼します。本日付で長官補佐に命じられましたサディエス・フローシア少尉です」
「ああ、宜しく頼む」
「早速ですが、長官に此方の書状にサインをいただきたく」
敬礼の為に後ろ手で持っていたものを差し出す。
「……何だ、これは?」
「辞表です、長官」
でかでかと書かれた文字の後には辞表の理由が云々と綴られている。一日で書いた割にはそこそこ良い出来に仕上がって満足だ。
「ほう?つまり君は漸く私の元へ戻る気になったと」
「御冗談は存在だけになさってください、たいちょ、長官。理由も書面にしたためてあるでしょう」
「確かに」
と頷き、次の瞬間には独りでに灯った炎が紙を喰らった。後に残ったのは残骸と化した辞表届けである。
「何するんですか!」
「却下、拒否だ。認められん」
「どうしてです?至極真っ当な理由じゃ無いですか!」
「辞職願が一身上の都合程度で受理される訳ないだろうが」
馬鹿が、と吐き捨てる長官。結局、こうなるのかと諦めつつも私は本気だ。彼から逃げる為だったら、どんな手段でも使ってやる。
「……赴任したばかりの長官は知らないかもしれないですけど、私は今同棲しているんです」
「知っている」
「子供もいるんです」
「そうだな。目元が君によく似ている」
「……」
「因みに外見は父親によく似たようだ。将来が楽しみだな」
何故、この男は娘の存在まで知っているのだろうか。
「ああ、でもそうだな。産み月になったら、産休は許してやろう。何なら此方で支度も用意するが」
何でこの男は、私ですらつい先日知ったばかりの事を知っているのだろう。軍医には口止めしておいたのに。
「君と同棲しているという男から色々聞かせて貰ったよ。……何故だと詰られた」
私は口を噤んだ。彼は悪くない、だって私は何も告げることなく去ったのだから。
気付けば、彼の腕に腰を攫われていた。彼の熱がまだ目立たない腹部に当てられる。
「ここに私の子供が居るのか」
「ち……がいます!この子はレイムとの」
「私の子供だ。誰にも譲らない」
私を?それともこの子を?
何がなんだか分からなくて頭がぐちゃぐちゃになる。
「……違います、隊長。この子はレイムと私の子供です」
彼は貴族だ。それも侯爵家の跡取りである。当然彼に見合った婚約者がいるわけで、平民の私なんて単なる遊び相手だ。だから、この子も娘も父親が誰であろうと彼の子供では絶対にあってはいけない。
「……君は本当に強情だ。そんなに私が嫌いか?」
「ええ、きら……んっ」
言葉を遮るように唇を奪われる。最初は探るように、けれど段々深く。離れた時には息も絶え絶えだった。
「……君が私をどう思っていようとどうでもいいな。帰るぞ」
だったら最初から聞かなければいいのにと思うのは私だけでしょうか?
慌てて彼の腕から逃げようとするが体に力が入らない。
あれ?
蒼白になる私を他所に、私を抱き上げた彼は、相棒の待つ屋上へと登っていく。既に準備されていたらしく、彼はレイムから娘を受け取ると私共々籠の中に入れてしまった。
「ちょ、待っ……!」
「安心しろ。着く頃には薬もきれて、君は晴れて私の花嫁だ」
滅多に見せない笑顔を浮かべ、彼は動けない私の額に唇を落とす。
世話をかけたな、と彼がレイムと握手を交わしているのが視界に入った。側にいては危険なので竜から離れたレイムが、私と娘に向かって満面の笑みで大きく手を振っている。
この裏切り者が、と呟いたのを最後に巨大な羽ばたきと共に私の意識は飛んでいった。
壮麗な鐘の音が新たに夫婦となった二人を祝福する。たとえそれが花嫁の罵声であったとしても、妻に愛を囁き続ける花婿の姿があったとしても、だ。