第十一話 (後)
――お迎えに上がりました、エリシア・セプト・ノーテルダム王女殿下……
その言葉に驚き、息を呑むフレアやアオイの横で、シュウだけが全く驚きを現さなかった。知っていたわけではない。ただその言葉が耳を素通りし、意味を持たなかったからだ。
彼は捕まり、腕輪《拘束具》を填められた時から異常なほど静かでおとなしい……感情や思い、気持ちなどが様々な表情となって顔を彩る他の面々とはまるで対照的に、彼の顔に張り付くのは無表情。目を閉じ、身動ぎ一つしないその姿は外から見ればあきらめのように見えるのだったが……
奇しくも……アリシアがエンジュに目配せを送り、勝ち目のない、文字通り命がけの最後の抵抗に出ようとするのと、エリシアが自身の決断を言葉にしようとするのと、"それ"は同時だった。
立ちあがったと他の者達が認識した時には既にそこに姿はなく、前かがみに地面すれすれを低い姿勢で駆け抜ける。まるで獣のようなしなやかで鋭い身のこなし。あろうことか腕輪を力ずくで引きちぎり茫然と立つ男に襲い掛かる。その男の手には早々に取り上げられた彼の蒼刀《愛刀》が握られていた。交差し、すれ違い様に刀を奪い取る黒髪の青年。静かに崩れ落ちる男。青年が向かう先は人質となったアリシアの所でも、他の仲間たちの所でもなく、何もない―誰もいない場所………
彼の意図が全く読み取れないアリシア達仲間の視線の先で、シュウが何もない空間を薙ぐ。何もないはずの場所から赤い鮮血が舞った。
「―くっ!」
ファルノースは信じられない思いで自分を切りつけた青年を見つめる。黒髪の青年……"幻惑の羽衣"を手に入れて以来初めて傷を負ったことに驚愕と動揺と、そしてそれらをはるかに超える怒りが芽生える。
―よりにもよって黒髪なんぞに傷を負った
そのことがファルノースの怒りを煽り、プライドを傷つける。しかし次の瞬間、その怒りは綺麗に吹き飛び、恐怖に塗り替えられる。
―馬鹿な……なぜ……なぜ奴はこちらを見ている。
まぐれ、勘……先ほどの黒髪の攻撃はそういった類のモノだった。こちらの方を見てはいたが、焦点は自分に合っていなかった。だからこそ黒い刃はファルノースの左肩を掠めていっただけ。それなのに今は男の瞳が……闇のように深い漆黒の瞳がファルノースを捉えて離さない。
いや、男だけではなかった……アリシアが、シルファが、エリシアが、彼の部下も含めた皆が驚いたように自分を見ている。見えないはずの自分を……
シュウはじっと耳を澄ませていた。目を閉じ外部からの情報を遮断してひたすら感覚を研ぎ澄ます。どんな些細な音も聞き逃さないように。誰かが何かを言っているようだが、他人の声もまたすべて雑音として遮断する。そして彼の耳は微かな…本当に微かな音を感じ取る。それは足音。誰一人動きまわっている者のない空間で、確かに感じられた人が大地を踏みしめる音……
彼は走った。先ほど音のした場所へと―人の気配のあった場所へと。途中で男から彼の蒼刀を奪い返すと、すれ違い様に斬り捨てる。そして疾駆しながら神霊術を発動するそれも詠唱術を――
「闇よ…漆黒の闇よ…黒き刃となりて我に力を……目覚めよ"黒狼"!!」
蒼き輝きを持つ刀が見る間に漆黒へと染まる。そしてシュウは切り裂いた……ファルノースではなく"幻惑の羽衣"の効果を。
間近で少年と目が合う。年齢的にはシュウより少しばかり下のように見える。その少年の腹部にシュウは黒刃を突き刺す。黒き刃は何の抵抗もなくすんなり根元まで埋まった。
「アリシア先輩!」
シュウはそのまま踵を返すとアリシアを拘束している腕輪《拘束具》と、彼女を押さえつけていた男二人を続けざまに斬り伏せた。浮き足立ち個別にしか反撃できない敵をしり目に、シュウとアリシアは次々と仲間の拘束を解いてゆく。間もなく形勢は逆転し、この地での戦いの勝敗が決した。
「いろいろ分からないことだらけなんだけど、まずは子供たちをどこにやったの?」
戦闘が終わり、あちらこちらにその戦闘の傷跡が残る中、少年を取り囲むアリシア達。少年の手には彼らが所持していた腕輪《拘束具》の余りを取り付け、今はキルアが必要最小限の治療を行っている。
この少年こそがファルノースの正体であった。アリシア達がファルノースだと思っていたのは、単に|"幻惑の羽衣"によって姿を変えられた少年の部下の一人。同じく最初にあった馬車三台もまた幻惑で、連れ去られた女子供の姿はどこにもなかった。
「ここにはいないよ、最初からね。行先は当然帝国。今から追いかけてもまず間に合わないだろうね……ふふ…いいザマだ」
見た目美しい少年だった。自分で言っていた通り髪の色は緑。しかしその顔には軽薄そうな笑みが浮かび、瞳は自分を負かしたアリシア達に―というかシュウに対する憎悪に染まっていた。
「っち!」
その答えを聞いて小さく舌打ちを漏らすエンジュ。ここに来るまでと、ここでの戦闘によってとんでもなく時間を失ってしまっている。しかしここであきらめるわけにもいかない。
「すぐ出発しよう。国境を越えるまでに追いつかなければ手遅れだ」
国境を越えられてしまえば、ただの学生では手出しができなくなる。たとえ王女という肩書があったとしても……
「くくくく……いいのかな? それで?」
取り繕う気もないのか、素をさらけ出して耳障りな笑い声をあげるファルノース。しかしその声には無視できない何かがあって……
「……どういうことだ……―何を知っている?」
思わず問い返してしまったエンジュ。そのエンジュや、アリシア達他の面子が見ている前で再び嬉しくてたまらないといった表情を見せるファルノース。それはエリシアの正体を暴露した時と同じ、他人の絶望を見て喜ぶ類の笑みだった。
「今回送り込まれた四将は僕だけじゃないんだよね、実は。そしてその男が直属の部隊を率いて王都に潜伏していたとしたら? それこそ僕の部下達《雑魚達》とはちがった帝国の精鋭部隊が…」
エリシアの、エンジュの、アリシアの顔が強張っていく…
「そして今日は何の日でしょう? 答え国王が王宮から出てくる日~」
「―っ!」
ようやく他の者達も事態の重さを理解する。
武術大会決勝である今日は、王族が勢ぞろいで試合を観戦する。人の出入りが多く警備が難しい闘技場で。しかもそこにいるのはこの国の王族だけでなく、諸島連合の代表や他の各国の重鎮達もまた……
「そ、そうはいっても入国審査だってあるんだ。そんなたくさんの部隊を送れるはずがない」
「そうよ。それに護衛だって……警備だってちゃんと付いてるはずでしょ?」
不測の事態に対する備えはある程度行われているはず。珍しく情報に基ずく事実ではなく、希望的観測を口にするカグラとアリサ。しかし――
「僕の依頼主……協力者って誰だったっけ?」
「――」
アフレイア家が協力しているのならばそれらの二つはまるで問題にならない。二の口が次げないカグラとアリサ。代わって再びエンジュが口を開く。絶望一歩手前の苦しげな口調で…
「いくらあの家でも国を売るとは考えられない。国がなくなれば彼らの利権も失われる」
言葉とは裏腹に、エンジュはそれもありうると思っていた。帝国からアフレイア家に今以上の利権を認める等といった働きかけが行われれば。そう、例えば…………
「僕たちはあくまで協力する側にすぎませんよ。この国のトップが変わる為の……ね」
「…クーデター………」
そしてそのエンジュの最悪の予想は当たってしまった。思想的にもアフレイア家は帝国に近い。帝国にとってもかの家が王家にとって代わるのは都合がいい……
ここにきて誰一人反論することができなくなっていた。ただ敵の一人が言っているだけの事に過ぎない。しかしその言葉はやけに説得力があり、辻褄も完璧と言っていいほど合っていた。
「さてさて…どうする? 連れ去られた者達を追って行くか、はたまた王都へ取って返すか……ま、どちらも間に合わないと思うけどね」
この場でエリシアが捕まっていたら、おそらくクーデター後の王族派の抑え込みに利用されていたのだろう。四将二人による同時二正面作戦……
この場における勝者はアリシア達の側であったはずだ。現に敵の指揮官を捉え、拘束しているのはアリシアの側。しかし目的であった黒髪達の救出は失敗し、今また新たな問題を突きつけられ、決断を迫られている。
戦闘ではアリシア達の勝利。しかし戦略的、戦術的にはアリシア達の敗北であった。
時間がないと知りつつ、アリシアはなかなか決断を下せずにいた。いつもならこんな時に助言をするエンジュもまた今は口をはさめない。決めかねているのは彼も同じだった。
まずエリシアの存在があった。こうして狙われた以上はこのまま帝国との国境まで連れて行くのは危険極まりない。しかし同時に、王都もまたファルノースの言葉が正しければ四将の一人が待ち構えている。エリシアの身の安全を確保したいアリシアとしてはどちらとも決めかねていた。
また王都の状況も気になる。今数人が駆け付けたところで何の影響も与えられないかもしれないが、逆に情報を持ち帰ることで何らかの対抗策を打てるかもしれない。
王都にしても、黒髪達の事にしても、間に合うかどうかすら分からない。しかし何もしなければ状況は悪化する一方……
「ああ…もう!」
アリシアは苛立たしげに空を仰ぐ。雲に覆われた濃い灰色の空がアリシアを見下ろしていた。あたかもこれからのアリシア達の行く道を暗示するかのように……
「ここでこうしていても始まらない」
不吉な予感を振り払う為頭を一振りして気持ちを切り替えるアリシア。誰もが分かっていることをあえて口にした。そして…
「部隊を二つに分けます」
指示を下す。戦力の分散などとは言っていられない。どちらも気になり、ほっておけない以上両方に対処するしかないのだ。
隊員達はただ静かにアリシアの言葉を―命令を待ち………………そして受け入れた。




