第一話
ノーテルダム王国。それは、比較的温暖な気候と、王国内にある巨大湖の豊富な水資源によって、大陸有数の豊かさを誇る大国の名である。そして、この国に豊かさをもたらす源である大陸最大級の湖、ウィスタル瑚。その畔には、王立ウィスタル軍学校が存在する。
一学年約八〇人。四学年合わせて約三二〇人の学生がこの学び舎で勉学に励んでいる。もちろん軍学校なので、将来は皆軍人の道へと進む……といったわけではなく、単に名門だからといった理由でこの学校に入学する者も多い。そしてなにはともあれ、今年も入学の時期がやってくる。
昨夜準備しておいた服に袖を通し、鏡の前で髪を整える。黒髪に黒い瞳。見慣れたいつもと変わりない瞳が見返してくる。顔だちは中性的で、男っぽさはあまり感じられない。まだ少し幼さが残っているが、青年と呼べる年齢である。これもまたいつもと変わらない。しかし視線を少し下げると、そこには普段あまり見慣れない服装が。
「少し大きかったかな」
そう独り言を漏らしながら、部屋の入口へと向かう。青年が着ているのは王立ウィスタリア軍学校の制服。飾りや装飾といった派手さが一切ない、実用性重視のデザイン。しかし安物というわけではなく、制服の生地は伸縮性のある特殊素材が使われている。
「行ってきまーす」
そう声をかけるが返ってくる言葉は無い。それもそのはず、この部屋は軍学校に併設された寮の一室。住人は昨夜からこの部屋の主となった青年ただ一人。今まで彼を見守ってきた唯一家族とも呼べる存在は、ここから遠く離れた辺境の田舎の村にいる。一人暮らしに対する期待と不安。それらを胸に青年は新たな日常へと向けて一歩を踏み出した。
……のだが、
「―さぶっ!」
速攻で自宅に引き返した。
「これ術式処理されてないのか!?」
確かにこの制服は伸縮性には優れている。このまま運動しても何の問題もないだろう。しかし耐熱、耐寒といった神霊術による付加術式は組み込まれていないようだ。
「中途半端な高級品だな……」
青年の率直な、偽りのない感想だった。しかしそんなものかと思い直す。何せこれは支給品なのだから。
「まぁ、霊術付加って超高級品だからな」
そんなこんなであらたに外套を羽織り、再び外へと歩み出す青年。いつもより独り言が多いのは不安を紛らわせるためなのだろうか。
ここノーテルダム王国では一年を四つの季節で表す。翠の節、紅の節、黄の節、蒼の節。そしてそれぞれの節は4つの月に分けられている。
現在、黄の節三月。厳しい日差しと、暑さが猛威を振るった紅の節が過ぎ去り、次第に肌寒さが増していく。そんななか、ウィスタリア軍学校の入学式が執り行われようとしてていた。
その建物はざわめきに満ちていた。続々と集まる新入生たち。彼ら、彼女らは見知っ者同士、あるいは初対面の者同士で様々な会話を繰り広げる。
「ねぇ、あそこにいるのって各色の学生代表じゃない?」
「え、ってことは…まさかあの紅い髪の人って…」
「うん、たぶんアリシア・ルイス」
「ええぇ?アリシアってあの紅の少女王?」
などなど…
ちなみに、各色とは紅、蒼、黄、翠の4つのことであり、一学年を四組に分けた時そのまま組の名前となる。
そんな感じでおしゃべりを続ける新入生達。それは期待と不安の裏返しでもあった。
そんな新入生を見守る学生代表や、この学校の講師陣も、過去自分たちが経験してきたことだけにそのまなざしは暖かい。
そんな中ある一人の新入生の登場がその場に新たなざわめきをもたらした。
その青年はゆっくりと新入生に用意された場所へと向かっている。周りのざわめきや、視線などを気にした様子はない。平均的な身長と細身な体躯。中性的な顔だち。落ち着いた表情、しぐさ、まなざし。そして―
「となり、いい?」
少し低い、しかし深みのある声。
「は、はい……どうぞ」
まさか自分が声をかけられるとは思っていなかった女性があわてて答える。
「おい、黒髪だぞ…」
「しかも目の色まで黒って…」
そんなささやきが聞こえてくる。
女性は改めて青年を見る。年齢は15、6ぐらいだろうか。まなざし、しぐさ、表情。どれも大人びて見える。だが目を引くのはそんなところではない。黒いのだ、髪も、瞳も。それは町にいればたまに見かける光景。しかし、今、この場でというなら明らかに場違いな色。実際、周りを見回しても黒髪は彼ただ一人。いったいどういうことか。困惑、不審蔑み、様々な視線が青年に集まる。しかし当の本人はまるで気にした風はない。肩と左胸には剣と杖を十字に交わした紋章。この学校の校章である。剣と杖が一本ずつ、それは間違いなく1年の証。
「あなた…」
思わずといった感じで女性の口から言葉が漏れる。その先に続く言葉はいったいなんだったのか。しかし見計らったように時を告げる鐘が鳴り、入学式が始まった。
青年は正面の檀上に上った老人を見ながら、内心深い安堵を覚えていた。様々な意味合いを含む視線を一心に浴び、平静でいられるわけがない。ただ、それを表に出さないだけの経験と覚悟、目的が青年にはあった。ただそれだけのことである。
青年の名前はシュウ・アカツキ。後の世にその名を刻む人物である。