敵国に情報を売った裏切り者として婚約破棄されましたが、私が売ったのは全部偽情報です
「セレナ・アーヴィン。君との婚約を破棄する」
王宮の応接室で、王太子エドワードはそう告げた。
向かいに座っていたセレナは、持っていた紅茶のカップを静かに受け皿へ戻した。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「分かっているはずだ」
「確認したいのです」
エドワードは少し迷ったあと、机の上へ何枚もの紙を並べた。
「敵国へ私の情報を売ったな」
「はい」
エドワードの動きが止まった。
「……認めるのか?」
「売ったことでしたら事実ですわ」
「君は!」
エドワードは声を上げかけ、すぐに息を整えた。
「先月十日の王都北門からの外出予定」
「売りました」
「十六日の軍の訓練予定」
「それも」
「二十三日の西の別邸への宿泊」
「はい」
「今月三日の南街道を使った視察予定!」
「売りましたわ」
「四回もか!」
セレナは少し考えた。
「七回です」
「増やすな!」
「正確な方がよろしいかと思いまして」
「今はそういう話をしているんじゃない!」
エドワードが机を叩いた。
それでもセレナは驚かなかった。
怒るのも当然だと思っていた。
セレナは公爵令嬢であり、三年前からエドワードの婚約者だった。来年には結婚し、王太子妃になる予定だった。
そんな女が、婚約者である王太子の行動を敵国へ流した。
しかも金まで受け取っている。
裏切り者と呼ばれても仕方がない。
「どうしてこんなことをした」
エドワードが低い声で聞いた。
「今は申し上げられません」
「まだ隠すのか?」
「はい」
「私にも?」
「今は、殿下にも」
エドワードはしばらく何も言わなかった。
「敵国から受け取った金は?」
「わたくしの名義で預けてあります」
「いくらだ」
「金貨八百四十枚ほどです」
「……ずいぶん稼いだな」
「ありがとうございます」
「褒めていない!」
「そうでしたの」
セレナは少し残念そうに答えた。
エドワードは額を押さえた。
「君は、これがどれほど重いことか分かっているのか?」
「もちろんです」
「なら、なぜそんなに平然としていられる」
「慌てても、したことは変わりませんもの」
「そういうところだ」
エドワードは顔を上げた。
「私は君を信頼していた」
「ありがとうございます」
「過去形だ!」
「存じております」
「セレナ!」
今度こそ本気で怒ったらしい。
セレナは姿勢を正した。
「申し訳ございません」
「謝れば済む話ではない。父上にも報告した。正式な調査も行われる」
「承知しております」
「そして、王太子妃となる人間が、夫に隠れて敵国と取引していたという事実を無視することはできない」
「おっしゃる通りです」
エドワードが黙った。
「……反論しないのか?」
「何にでしょう」
「婚約破棄についてだ」
「殿下がご存じの情報だけで判断なさるなら、当然の結論だと思いますわ」
「君は何か、私が知らないことを知っているのか?」
「はい」
「それは何だ」
「今は申し上げられません」
「……」
「申し訳ございません」
長い沈黙のあと、エドワードは小さく息を吐いた。
「もういい」
疲れた声だった。
「君との婚約は、本日をもって破棄する。王家からアーヴィン公爵家へも正式に知らせる」
「承知いたしました」
セレナは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「三年間、お世話になりました」
「それだけか?」
「はい」
「……未練はないのか」
セレナは少し考えた。
「今は、それを考えている場合ではございませんので」
「最後まで分からない女だな」
「よく言われますわ」
「誰に?」
「情報局の方々に」
エドワードが顔を上げた。
「情報局?」
「あ」
セレナは口元を押さえた。
「今のは忘れてくださいませ」
「待て、セレナ」
「失礼いたします」
「セレナ!」
呼び止める声を背中で聞きながら、セレナは応接室を出た。
廊下を曲がったところで、一人の男が壁にもたれて待っていた。
灰色の髪を短く切った、二十四歳ほどの青年だった。
「最後、余計なこと言っただろ」
「少しだけ」
「何を」
「情報局と」
「少しじゃない」
青年、ライル・フェインは大きく息を吐いた。
王国情報局に所属する情報官であり、この半年、セレナと一緒に仕事をしていた男だ。
「殿下には気づかれました?」
「たぶん」
「なら予定より早く動くかもしれないな」
「問題ございます?」
「いや。もう最後だからいい」
ライルは廊下の先を確認した。
「敵が食いついた」
セレナの表情が変わる。
「どこへ?」
「西の別邸だ」
「何人ですの?」
「今確認できているだけで十一人」
「まあ」
「嬉しそうにするな」
「半年かかりましたもの」
「分かってるけど」
ライルは少し笑った。
「これで終わる」
セレナも頷いた。
「ええ」
婚約まで終わってしまったけれど。
そのことについては、あとで考えることにした。
始まりは半年前だった。
王宮の夜会を終えたセレナが馬車へ乗ろうとしたとき、一人の男からぶつかられた。
「失礼いたしました」
よくあることだった。
男はすぐに立ち去った。
しかし馬車へ乗ったあと、セレナは手袋の中に小さな紙が入っていることに気づいた。
『王太子殿下の予定を教えていただきたい』
続けて場所と日時。
さらに、
『一度につき金貨百枚』
と書かれていた。
普通なら、その場で近衛へ知らせる。
セレナもそうするつもりだった。
ただ一つ、気になることがあった。
その夜会で、翌週のエドワードの予定を知っていた人間は多くない。
国王。
王妃。
宰相。
近衛隊長。
そしてセレナ。
なのに敵国は、セレナなら予定を知っていると分かっていた。
さらに翌日。
誰にも見せていないはずの紙について、別の男から声をかけられた。
「ご返事をいただけますか」
その瞬間。
セレナは思った。
王宮の中に、敵国へ情報を流している人間がいる。
しかも一人ではない可能性が高い。
セレナはその日のうちに国王へ相談した。
「面白いな」
国王は紙を読んだあと、そう言った。
「面白くはないと思いますが」
「敵が、自分から口を開けて待っている」
「そこへ餌を入れますの?」
「どう思う?」
セレナは少し考えた。
「偽の予定を売りましょう」
国王が笑った。
「私もそう思った」
そこから情報局が動いた。
最初の偽情報は、
『王太子は十日、王都北門から護衛二名だけで外出する』
というものだった。
もちろん、エドワードにそんな予定はない。
十日の朝、北門近くには情報局の者を待機させた。
結果、怪しい男が二人現れた。
しかし捕らえなかった。
「なぜです?」
セレナが聞くと、情報局長は首を振った。
「まだ早い」
「二人もおりますのに?」
「二人捕まえて終わりならな」
目的は、敵国の情報網をまとめて見つけること。
誰が情報を買い、誰へ渡し、最後に誰が命令を出しているのか。
だから泳がせる。
セレナは二度目の情報を売った。
三度目。
四度目。
売るたびに、敵国側はセレナを信用するようになった。
金額も上がった。
やがて直接、
「王太子殿下が一人で泊まる場所を知りたい」
と頼まれた。
「どう答えます?」
ライルに聞かれ、セレナは地図を広げた。
「西の別邸にしましょう」
「なぜ?」
「入り口が二つしかございません」
「なるほど」
「森に囲まれておりますから、近くへ来た者も見つけやすいですわ」
「逃げ道も少ない」
「ええ」
そこで最後の偽情報を流した。
『王太子は来月十二日、護衛を減らして西の別邸へ泊まる』
敵は大きく動いた。
だから、十二日の前に婚約を破棄された。
婚約破棄から三日後。
西の別邸へ向かう道で、敵国の情報員十一人が捕らえられた。
さらに捕らえた者の持ち物から、王国内で協力していた人間の名前も出てきた。
王宮の役人。
軍の書記官。
商人。
貴族の使用人。
全部で二十七人。
半年間追っていた情報網が、一度に明らかになった。
セレナが情報を売って得た金も、すべて証拠として回収された。
「終わりましたわね」
情報局の小さな会議室で、セレナは紅茶を飲んでいた。
向かいに座るライルが書類から顔を上げる。
「終わったな」
「では、もう偽情報を売らなくても?」
「ああ」
「残念ですわ」
「何でだよ」
「金貨八百四十枚もいただきましたのに」
「あれ、お前の金じゃないからな」
「知っております」
「本当か?」
「王国へお返ししますわ」
「敵国からもらった金を王国へ返すって、意味が分からないな」
「では情報局の予算に」
「さらに意味分からなくなるからやめろ」
セレナは笑った。
そこへ扉が開く。
情報局長が入ってきた。
「セレナ嬢」
「はい」
「国王陛下がお呼びだ」
「今から?」
「ああ」
嫌な予感がした。
「怒られます?」
「たぶん怒られない」
「では?」
「王太子殿下もいる」
セレナは紅茶を置いた。
「……帰っても?」
「駄目だ」
「そうですか」
仕方なく立ち上がった。
国王の執務室には、国王と王妃、それからエドワードがいた。
セレナが入ると、エドワードはすぐに立ち上がった。
「セレナ」
「お久しぶりです、殿下」
「三日しかたっていない」
「そうでしたわね」
「まず座りなさい」
国王に言われ、セレナは椅子へ座る。
「情報局からすべて報告を受けた」
エドワードが言った。
「そうですか」
「売っていた情報は全部偽物だった」
「はい」
「金を受け取ったのも、敵国に信用させるため」
「はい」
「西の別邸の情報も、敵を集めるためだった」
「その通りです」
エドワードは目を閉じた。
「なぜ私に言わなかった」
当然の質問だった。
セレナは国王を見た。
「私から説明しよう」
国王が答える。
「今回の作戦は、知る者をできるだけ少なくする必要があった」
「それでも私は当事者です」
「ああ」
「私の予定を使っていた」
「正確には、存在しない予定だ」
「父上」
「分かっている」
国王は少し困った顔をした。
「だが、王宮内部にも敵国へ情報を流している者がいた。お前の側近に疑いがある可能性も捨てきれなかった」
「私自身を疑っていたのですか」
「それはない」
国王は即答した。
「だがお前が知れば、行動が変わる」
「行動?」
セレナが口を挟んだ。
「殿下は嘘がお上手ではございませんから」
「セレナ?」
「敵国の者に見張られているかもしれませんでした。殿下が『自分の婚約者は本当は裏切っていない』と知っていれば、わたくしへの接し方が変わる可能性があります」
「変えない」
「婚約破棄のとき、あれほどお怒りになった方が?」
「……」
「たぶん変わりますわ」
王妃が小さく笑った。
エドワードは何も言えなくなった。
「それに」
セレナは続ける。
「わたくし自身がお願いしました」
「何を?」
「殿下には知らせないでください、と」
「君が?」
「はい」
「なぜ」
「その方が成功する可能性が高いと思いましたので」
「婚約を破棄されるとは思わなかったのか?」
「可能性は考えておりました」
「それでも?」
「国の中に敵国の情報網が残る方が危険でしょう?」
エドワードは黙った。
やがて深く息を吐く。
「……すまなかった」
セレナは瞬きをした。
「何がでしょう?」
「君を裏切り者だと思った」
「当然ですわ」
「当然?」
「証拠がございましたもの」
セレナは指を折りながら数えた。
「敵国の男と会っていた。王太子の情報を渡していた。お金も受け取っていた。しかも質問されても説明しない」
「……全部本当だな」
「はい」
「普通に裏切り者だ」
「そう見えますわね」
「なぜ君はそんなに他人事なんだ」
「殿下の判断は、あの時点では間違っていなかったと思っておりますもの」
エドワードは顔を上げた。
「君は怒っていないのか」
「何についてでしょう」
「信じなかったことだ」
セレナは少し考えた。
「わたくし自身が、信じていただける材料を一つもお渡ししておりません」
「だが婚約者だ」
「婚約者なら、証拠がなくても信じるべきでしょうか」
「……」
「それは少し危険ですわ」
国王が笑いをこらえるように口元を押さえた。
「父上、笑わないでください」
「すまん」
エドワードはしばらく黙ったあと、セレナをまっすぐ見た。
「なら」
「はい」
「婚約を元に戻したい」
今度はセレナが黙る番だった。
「君が裏切っていないことは分かった。婚約破棄の理由がなくなった」
「そうですわね」
「なら、もう一度婚約を結べる」
「お断りいたします」
今度は部屋全体が静かになった。
「……何?」
「婚約を戻すことはお断りいたします」
「なぜだ?」
「今回のことで、分かりましたので」
「何が」
「殿下とわたくしは、夫婦には向いていませんわ」
エドワードは本気で意味が分からないという顔をした。
「私は君を疑ったことを謝った」
「ですから、そこは怒っておりません」
「なら何が問題なんだ?」
セレナは少し考え、言葉を選んだ。
「婚約破棄を告げられた日、殿下はおっしゃいましたでしょう?」
「何を?」
「王太子妃になる女性が、夫に隠れて何かをすることは認められないと」
「ああ」
「今も、そうお考えですか?」
エドワードは少し迷った。
「夫婦なら、重要なことは話すべきだと思っている」
「わたくしも、普通のことであればそう思います」
「なら」
「でも、わたくしは情報局の仕事を続けたいのです」
エドワードが止まった。
「……続ける?」
「はい」
「今回だけではなく?」
「できれば」
「なぜだ」
「楽しかったので」
「楽しかった?」
エドワードの顔が引きつった。
「敵国に情報を売ることが?」
「そこだけ切り取らないでくださいませ」
王妃がとうとう笑った。
「半年間、いろいろ勉強しました。情報の集め方。相手が何を知りたいのか考えること。偽情報をどこまで本物らしくするか。とても面白かったです」
「君は王太子妃になる予定だったんだぞ」
「婚約は破棄されましたわ」
「だから戻そうと言っている!」
「戻したら、情報局を辞めなければなりません?」
エドワードは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「殿下」
「……王太子妃が、敵国の情報員と秘密裏に会う仕事を続けるのは難しい」
「そうでしょうね」
「危険でもある」
「はい」
「君の身を考えて言っている」
「存じております」
「なら」
「ですから、殿下が間違っているとは申しておりません」
セレナは穏やかに笑った。
「殿下は、何でも話せる妻を望んでいる」
「……ああ」
「わたくしは、仕事のことを夫にも話せない場合があります」
「それは」
「敵国の男性と二人で会うこともあるでしょう。行き先を言えない夜もございます。何をしていたのか、聞かれても答えられない日も」
エドワードの眉が少しずつ寄っていく。
「嫌でしょう?」
「……嫌だ」
「ですから、向いていないのです」
「仕事を辞めれば」
セレナは少しだけ首を傾げた。
エドワードも、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
「……いや」
「そこですわ」
「セレナ」
「殿下が欲しいのは、情報局の仕事をしていないわたくしです」
「それは」
「悪いことではありません。わたくしも、夫には自分の仕事を理解してほしいと思っておりますもの」
エドワードは黙った。
「どちらかが我慢すれば結婚できるのでしょう。でも、婚約を一度終えた今、そこまでして戻る必要があります?」
返事はなかった。
セレナは立ち上がった。
「三年間、本当にありがとうございました」
「……もう決めたのか」
「はい」
「私では駄目だと?」
「殿下が悪いのではありません」
「それ、振られるときに一番嫌な言葉だな」
「そうなのですか?」
「そうだ」
「では」
セレナは少し考えた。
「わたくしは、殿下とは結婚したくありません」
「そっちの方が痛い」
「難しいですわね」
国王がとうとう声を上げて笑った。
その後、セレナは正式に王国情報局へ入った。
もちろん、いきなり重要な仕事を任されたわけではない。
最初は文書整理。
各地から届く報告書の確認。
外国の新聞を読む仕事。
怪しい話があれば、上司へ報告する。
「思っていたより地味ですわね」
初日にそう言うと、隣の机にいたライルが答えた。
「毎日敵国の男と密会する仕事だと思ってた?」
「少し」
「そんな仕事ばかりだったら国が滅びる」
「そういうものですのね」
「そういうものだ」
ライルはセレナの前へ紙の束を置いた。
「昨日届いた商人の報告。全部読んで、怪しいところに印をつけて」
「全部?」
「全部」
「百枚ほどございますけれど」
「仕事だからな」
「敵国から金貨をもらっていたころの方が楽でしたわ」
「人聞き悪いからやめろ」
そんな毎日だった。
半年ほどすると、セレナも少しずつ外の仕事を任されるようになった。
ある夜。
外国から来た商人と会って話を聞き、帰ったのは日付が変わる少し前だった。
情報局へ戻ると、ライルがまだ残っていた。
「遅かったな」
「はい」
「何かあった?」
「少し」
「話せる?」
セレナは一瞬迷った。
「今は、まだ」
「そう」
ライルはそれ以上聞かなかった。
自分の机へ戻って書類を読む。
セレナはその横顔を見た。
「聞かないのですか?」
「何を」
「誰と会っていたのか」
「言えないんだろ?」
「はい」
「なら聞いても仕方ない」
「女性ではなく男性です」
「そう」
「二人きりでした」
「仕事だろ?」
「ええ」
「なら問題ない」
あまりにも簡単に終わったので、セレナの方が困った。
「もう少し気にしません?」
「何で?」
「何でと言われましても」
「お前が必要だと思えば話すだろ」
「……そうですわね」
「あと」
「はい?」
「夕飯食った?」
「まだです」
「そっちは聞く」
「なぜ?」
「腹減ってると仕事にならないから」
セレナは少し笑った。
王宮にいたころとは違う。
知っていることもあれば、知らないこともある。
聞けることもあれば、聞いてはいけないこともある。
それでも一緒に仕事はできる。
その当たり前が、セレナには心地よかった。
さらに一年が過ぎた。
王太子エドワードには新しい婚約者が決まった。
セレナも一度だけ顔を合わせた。
北部の侯爵家の娘で、明るく、よく話す女性だった。
「殿下、昨日どこへ行っていたんです?」
「軍の演習場だ」
「では、次から先に教えてください。探してしまいました」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
そんなやり取りをしていた。
セレナは少し離れた場所から見ていた。
「気になる?」
横にいたライルが聞いた。
「何がでしょう」
「元婚約者」
「いいえ」
「本当に?」
「お似合いだと思いますわ」
「へえ」
セレナはエドワードを見る。
彼は、何でも話したい。
新しい婚約者も、何でも知りたい。
二人ならうまくいくのかもしれない。
「よかったと思います」
「そうか」
ライルはそれだけ答えた。
「ライルは聞かないのですね」
「何を?」
「わたくしが本当はまだ殿下を好きなのでは、とか」
「聞いてほしいの?」
「いいえ」
「じゃあ聞かない」
「本当にそればかりですわね」
「便利だろ」
「便利という言い方はどうかと思います」
二人で笑った。
セレナが二十三歳になった春。
仕事を終えたあと、ライルと王都の小さな食堂へ入った。
何度も来た店だった。
「セレナ」
「はい」
「話がある」
「仕事です?」
「違う」
ライルが珍しく緊張していた。
「結婚しない?」
セレナは持っていたパンを皿へ戻した。
「わたくしと?」
「他に誰がいる」
「急ですわね」
「半年くらい考えてた」
「十分長いですわ」
「じゃあ返事は?」
「少しお待ちください」
「分かった」
ライルは水を飲んだ。
セレナはしばらく考える。
「一つ確認しても?」
「どうぞ」
「結婚しても、仕事は続けたいです」
「うん」
「任務について話せないことがあります」
「知ってる」
「男性と二人きりで会う場合も」
「仕事ならな」
「帰りが夜中になることも」
「俺もなる」
「数日、行き先を言えないことも」
「あるな」
「気になりません?」
「気にはなる」
セレナは少し驚いた。
「なるのですか?」
「そりゃなるだろ」
「でも聞かないでしょう?」
「聞いていいことなら聞く」
「駄目なら?」
「聞かない」
「心配では?」
「する」
「では、どうします?」
ライルは少し考えた。
「帰ってきたら、無事だったか聞く」
「それだけ?」
「何食ったかも」
「そこ大事です?」
「お前、仕事になると食事忘れるから」
セレナは笑った。
「分かりました」
「何が?」
「結婚のお話です」
ライルの表情が少しだけ固くなる。
「はい」
「喜んで」
「……本当に?」
「はい」
「よかった」
ライルが大きく息を吐いた。
「そんなに心配でした?」
「断られるかもしれないだろ」
「一年以上一緒にいるのに?」
「一緒にいることと、結婚したいことは別だ」
セレナは少し目を見開いた。
それから笑った。
「そうですわね」
「何?」
「いいえ」
昔、婚約を戻したいと言ったエドワードに、自分も似たようなことを言った。
仕事ができることと、妻にしたいことは別。
婚約していたことと、もう一度結婚したいことも別。
そして。
大切なのは、誰が正しかったかではない。
どんな相手となら、自分らしく一緒にいられるのか。
それだけだった。
「そういえば」
ライルがパンを食べながら言った。
「最初に会ったころ、俺はお前を本気で敵国の手先かと思ってた」
「まあ」
「金貨八百枚以上も受け取ってたから」
「八百四十枚です」
「増やすな」
「正確な方がよろしいでしょう?」
「そういうところ変わらないな」
「ライル」
「何だ」
「安心してくださいませ」
「何を?」
セレナは笑った。
「今後、敵国に情報を売るときは、ちゃんとお仕事で売りますわ」
「結婚するのやめていい?」
「もう遅いです」
「まだ書類出してないぞ」
「では急ぎましょう」
「待て」
「善は急げと申します」
「こういう時だけ行動が早いな!」
周囲の客がこちらを見る。
セレナは少し声を落とした。
「静かにしてくださいませ。情報局員でしょう?」
「誰のせいだと思ってる」
セレナは笑いながら、もう一度パンを取った。
かつてセレナは、敵国に王太子の情報を売った裏切り者として婚約を破棄された。
情報を売ったのは事実だった。
ただし、売った情報は最初から最後まで全部嘘だった。
それから数年。セレナは今も、ときどき敵国へ嘘を売っている。もちろん、今では正式な情報局員としての仕事だ。
けれど家へ帰れば、ライルには言えることを話し、言えないことは「言えない」と答える。ライルも、それ以上は聞かない。
「そういえばセレナ」
「はい?」
「俺には偽情報を流したことないよな?」
セレナは少し考えた。
「今のところは」
「今のところ?」
「冗談ですわ」
「本当だろうな?」
セレナは笑った。
敵国には、いくらでも嘘を売れる。
でも、この人にはもう、嘘を売る必要がなかった。
お読みいただきありがとうございました!
今回は情報戦っぽい異世界恋愛を書いてみました。
こういう話が好きなのと、VIVANTに影響されました(笑)
楽しんでいただけたら、評価や感想をもらえると嬉しいです!




