今日も受付は忙しい
朝、目が覚めた。
天井の染みは相変わらず竜の横顔に見える。寝ぼけている時は少しだけ格好よく見えるが、完全に目が覚めるとただの雨漏りの跡だった。
俺は布団から起き上がり腰を押さえた。
「……痛い」
朝一番の台詞としてはもう少し若々しいものがほしい。だが四十を過ぎた男に朝日が与えてくれるものは希望ではなく関節の現実である。
桶の水で顔を洗い歯を磨く。
鏡に映った顔は昨日と大して変わらない。目の下には薄い隈。顎には剃り残し。髪には年々白いものが増えている。
顔を拭いたタオルは臭かった。
昨日洗ったはずなのに湿った布特有の嫌なにおいがする。部屋の風通しが悪いせいだ。干す場所を変えればいいのだが変えたところで劇的に改善するわけでもない。
独り暮らしの男の生活などだいたいそんなものだ。
俺はタオルを鼻から遠ざけ椅子の背にかけた。
着替えを済ませる。シャツの襟元を整えギルド職員用の上着に袖を通す。
紋章入りの上着は便利だ。これを着ていると町の人間は俺を「受付の人」として扱ってくれる。
ただし冒険者たちは違う。
あいつらは俺を「昔そこそこ強かったらしい受付のおっさん」として扱う。
その認識は実に迷惑だった。
家を出ると朝の町はすでに動き始めていた。
パン屋からは焼きたての匂いが流れ鍛冶屋の方からは金属を叩く音が聞こえる。酒場の前では酔いつぶれた男が樽に寄りかかって寝ていた。
あれは昼には起きる。起きたあと自分がどこの酒場で飲んでいたか忘れて隣の店に支払いへ行く。店主同士が揉める。最後に俺が呼ばれる。
今日も受付は忙しい。
大通りへ出る手前で俺は少しだけ歩調を緩めた。
次に右へ二歩ずれる。
頭上から鉢植えが落ちてきた。
素焼きの鉢はさっきまで俺の左肩があった位置を通り過ぎ石畳に叩きつけられて砕けた。土が飛び、赤い花が無残に転がる。
「うわっ!すみません!」
二階の窓から若い女が青い顔で覗き込んだ。
「怪我人はいない。次から窓辺に置くなよ」
「はい、本当にすみません!」
俺は軽く手を振って歩き出した。
こういうものは避ければいい。
避けられるものは避ける。避けられないものは諦める。人生とは結局その二つの仕分けでできている。
次の角を曲がると鳥が一羽、看板の上に止まっていた。
俺は足を止めなかった。
頭にべちゃりと生温かいものが落ちた。
「……」
朝の通りを行く老婆が俺の頭を見て気まずそうに目を逸らした。パン屋の小僧は笑いかけたが俺の上着を見てすぐに口を閉じた。
鳥の糞は避けなかった。
左には荷車。右には水桶を抱えた子供。後ろには走ってくる犬。
俺が変に動けば誰かにぶつかる。鳥の糞一つで始まる面倒ごとは思っているより長引く。
頭を洗えば済むならそれが一番安い。
俺は何も言わずに歩き続けた。
冒険者ギルドに着くと正面玄関には入らず建物の裏へ回った。
裏手には職員用の水場がある。冬場は指が割れるほど冷たいが今朝はまだましだった。
桶に水を汲み頭の汚れを流す。朝から鳥の糞を洗う中年男。
英雄譚の一ページ目としては地味すぎる。もっとも俺の人生に英雄譚など必要ない。受付台の向こうで書類を受け取り、判子を押し、冒険者に無茶をするなと注意する。
それで十分だった。
水を切っていると訓練場の方から掛け声が聞こえた。
「腰が高い!拳だけで突っ込むな!」
「はい!」
新人冒険者が先輩にしごかれていた。
新人の名はリュカ。昨日登録したばかりの少年だ。年は十六。村から出てきたばかりで目がやけに輝いている。
あの手の目は嫌いではないが長持ちはしない。
最初に折れるのは鼻っ柱。次に折れるのは剣。運が悪ければその前に骨が折れる。
リュカは木剣を捨て素手で構え直した。先輩冒険者のガレスがわざと隙を見せる。リュカはそれに飛びつくように踏み込んだ。
そこが悪い。
餌に食いつく獲物のように飛び込む。若さの欠点は自分の勢いを長所だと思い込むことだ。
ガレスが軽く足を払う。リュカは見事に転がった。
「いってぇ!」
「だから腰が高いと言っただろうが」
ガレスは面倒見のいい男だ。口は悪いが後輩をよく見ている。
今日の午後、あいつは走ることになる。息を切らし、顔を青くし、ギルドの扉を蹴破る勢いで入ってくる。
そこまでわかっているのに俺は何も言わなかった。
訓練場を眺めていると裏口が開き同僚のミナが顔を出した。
「ラウルさん、また裏にいるんですか」
二十代半ばの職員で書類仕事が速い。代わりに朝は機嫌が悪い。
「鳥に好かれてな」
「朝からですか。運が悪いですね」
「そうでもない」
「頭、ちゃんと洗いました?」
「洗った」
「なら早く来てください。もう並んでます」
俺は濡れた髪を手櫛で整え建物の中へ入った。
受付はすでに混んでいた。
依頼完了の報告。新規依頼の相談。薬草採取の報酬についての不満。討伐証明部位の数え間違い。紛失した登録証の再発行。新人が持ち込んだ謎の牙。老人が拾った魔石らしきもの。
それは魔石ではなくただの青い硝子片だった。
「では次の方」
俺は椅子に座り書類を受け取った。
ギルドの受付業務は単純ではない。笑顔で冒険者を送り出すだけなら酒場の看板娘でもできる。実際の仕事は面倒ごとの芽を見つけて、少しでも小さいうちに摘むことだ。
「この依頼、報酬が安すぎるだろ」
髭面の冒険者が依頼書を叩いた。
「薬草採取だ。危険区域指定はない。相場通りだな」
「昨日東の森で狼を見たって話がある」
「その狼は猟師の犬だ。首輪をつけていた」
「なんで知ってる」
「朝一番に猟師が探しに来た」
髭面は黙った。
もちろん猟師が来るのはこのあとだ。だが、犬に首輪があるのは事実なので問題ない。順番が少し違うだけだ。
次の依頼主は商人だった。護衛依頼の期限を書き忘れている。
「出発日は」
「ああ、明後日です」
「到着予定は」
「五日後には」
「では七日契約にしておく。天候で遅れた場合に揉める」
「そこまで必要ですか?」
「必要だ。三日後に雨が降る」
「天気予報ですか?」
「膝が痛む」
商人は納得したような、していないような顔で書類を書き直した。
昼前には案の定酒場の支払いで揉めた男が連れてこられた。俺は帳簿を確認させ、飲んだ分だけ払わせて終わらせた。
その少し後、冒険者同士の小さな喧嘩が起きた。
原因は討伐証明の耳が一つ足りないこと。足りないはずの耳は袋の底に張りついていた。俺が指摘すると片方の冒険者は恥ずかしそうに笑い、もう片方は怒りの行き場を失って天井を見た。
よくあることだ。よくあることは起きる前からだいたいわかる。
昼休憩は短かった。硬いパンと豆の煮込み。味は悪くない。温かいだけで十分だった。
ミナが隣に座り俺の皿を見た。
「ラウルさん、またそれですか」
「安い」
「たまには肉を食べた方がいいですよ」
「腹につく」
「もうついてますよ」
「職場で上司に言うことか」
「上司じゃないでしょう。受付の先輩です」
ミナは平然とスープを飲んだ。
その直後、奥の棚から書類の束が落ちた。俺は手を伸ばさなかった。受け止めようとすると熱いスープを膝にこぼすからだ。
書類は床に散らばった。ミナが俺を見た。
「今、取れましたよね?」
「腰が痛い」
「絶対嘘ですよね」
「本当だ。朝から痛い」
嘘ではない。
嘘ではないが全部ではない。
午後の業務が始まるとギルドはさらに騒がしくなった。討伐帰りの冒険者が増える時間帯だ。怪我人も来る。報酬に納得しない者も来る。依頼失敗の言い訳を持ってくる者も来る。
「次の方」
俺は判子を押し続けた。
その間も頭の片隅では時間を数えていた。
このあと扉が開く。
正面からではない。勢いがつきすぎて少し左にぶつかる。取っ手の金具が外れかける。修理費はギルド持ちになる。備品係が怒る。明日には直らない。
扉が大きく開き左の柱にぶつかった。取っ手の金具が嫌な音を立てる。
ガレスが駆け込んできた。
顔は青く息は荒い。額には汗が浮かび左の頬に土がついている。
「まずい!」
受付前の冒険者たちが振り返った。
俺は書類から顔を上げた。
「何があった」
「北門の見張りがリュカが一人で黒顎の巣へ向かうのを見たらしい! 追ったらダンジョンの入口にあいつの足跡だけが残ってた!」
ギルド内の空気が変わった。
黒顎の巣。
町の北にあるダンジョンの中層の奥。名前だけなら新人でも知っている。だが知っていることと理解していることは違う。あそこはベテランが複数人で組んでも気を抜けば死ぬ場所だ。
それに昔から妙な噂もある。
奥で死にかけた者は別のものを連れて帰る。
冒険者の間では酒場で語る怪談の一つにすぎない。だが怪談で済むならギルドの記録棚に封をされた報告書など残らない。
リュカは朝の訓練で自分が少し動けると思ってしまったのだろう。
珍しい話ではない。
よくあってはならないことだがよくある。
「救助隊を組むぞ!」
ガレスが叫んだ。
すぐに数人の冒険者が立ち上がる。魔術師のエイダ。斥候のノルド。盾役のベック。回復術を使える神官見習いのセラ。
人数は足りない。足りないが待てば手遅れになる。
ガレスの目が俺に向いた。
「ラウルさん」
「断る」
口に出す前から答えは決まっていた。
「俺はギルド職員だ」
「元冒険者だろ」
「引退して十年だ。腹に肉はついたし、目は霞むし、朝から腰も痛い」
「今その話をしてる場合か!」
「している場合だ。中年を戦力に数えるな。計算が狂う」
周囲の視線が集まる。俺は肩をすくめた。
「若いやつらで行け」
「人手が足りない!」
「足りないならなおさら使える人間を選べ」
「だから頼んでるんだろ!」
ガレスは受付台に両手をついた。その顔は必死だった。
こいつはリュカを助けたい。朝から訓練を見ていたせいで責任を感じている。自分がもう少し強く言っていれば、自分が目を離さなければ、そう思っている。
その後悔は正しい。だが正しさは人を救わない。
「ラウルさん、お願いします」
ミナが小さく言った。俺は彼女を見た。
断ればガレスたちはそれでも行く。行って黒顎の巣で死ぬ。リュカも死ぬ。だがリュカの中のものは死なない。
救助隊が戻るより早く巣から出てきたものが町を焼く。
そういう日もあった。俺は深くため息を吐いた。
「今回だけだ」
「助かる!」
「喜ぶな。足を引っ張ったら置いて帰る」
「わかってる!」
わかっていない顔だった。
だがわかっていない人間ほどよく走る。
俺は受付台の下から古い短剣を取り出した。護身用として置いてあるものだ。手入れはしてあるが使わないに越したことはない。
上着を脱ぎ動きやすい外套に替える。ミナが俺に布包みを投げた。
「傷薬です」
「戻ったら精算する」
「戻ったらでいいです」
俺は布包みを受け取り腰に差した。
ギルドを出る時、空は少し曇っていた。
三日後に雨が降る空だ。
黒顎の巣へ向かう道中ガレスたちはほとんど喋らなかった。
急いでいるのに慎重でなければならない。そういう時、人間はだいたい無口になる。
俺は先頭ではなく二番目を歩いた。
先頭は斥候のノルド。罠を見る目がある。だが左ばかり見る癖がある。右下のくぼみを見落とす。
「ノルド、右足を置くな」
ノルドの足が止まった。
石の下には細い糸があった。踏めば矢が飛ぶ。矢には麻痺毒。刺さるのはガレスの首筋。セラが泣きながら解毒しようとするが手が震えて失敗する。
今回はそれは起きなかった。
「……よく見えましたね」
「老眼は近くが見えにくいだけだ」
納得した者はいなかった。
次に出るのは天井の蝙蝠。音に反応する。ここでガレスが焦って名前を呼ぶと群れが降ってくる。
「ここから先は声を出すな」
俺は低く言った。
ガレスが口を開きかけ、閉じた。蝙蝠の群れは天井に張りついたまま動かなかった。
次は湿った通路。右壁に触れると毒苔がつく。エイダは右手で壁を探る癖がある。
「エイダ、壁に触るな」
「わかってる」
「右手」
エイダは舌打ちして手を引っ込めた。
次は二股の道。左は近い。右は遠い。
近い道には巣からはぐれた黒顎の幼体が二匹いる。幼体といっても人間の腕くらいは簡単に食い千切る。倒せない相手ではないが戦闘音で奥の個体が動く。
「右だ」
「左の方が早い!」
ガレスが言った。
「早い道には早く死ぬ理由がある」
「……くそっ」
ガレスは俺に従った。俺たちは右の道を進んだ。
通路の泥には小さな足跡が一人分だけ残っていた。罠の糸は切れていない。毒苔にも触れていない。幼体の爪痕だけが壁に残り血は一滴もない。
リュカが自力で抜けたというより巣の方が通したように見えた。
遠回りをした分時間はかかった。だが誰も怪我をしなかった。全滅しないためには早さより順番が大事なことがある。
奥へ進むほど空気が重くなった。
黒顎の巣は湿った獣臭がする。鉄錆に似た血のにおい。腐った肉のにおい。古い水のにおい。
セラが口元を押さえた。
「大丈夫か」
「はい……」
「吐くなら左を向け。右は滑る」
セラは一瞬、不思議そうな顔をしてから左を向いて吐いた。
若い者はよく吐く。それでいい。吐いても歩けるならまだ生きている。
やがて最奥の広間に着いた。
リュカはそこに倒れていた。仰向けで片腕を投げ出している。剣は少し離れた場所に落ちていた。胸は上下している。
生きている。
「リュカ!」
ガレスが駆け出した。止めなかった。止めてはいけない。
最初に近づく者を黒顎は必ず喰う。その一撃まで黒顎はリュカの真上の天井から動かない。
止めたことはある。その時は黒顎が先に叫んだ。叫びを聞いたリュカの中のものが目を覚まし広間で全員が死んだ。
止めれば順番が崩れる。順番が崩れると誰が死ぬかだけでなく何人死ぬかも変わる。
ガレスがリュカの肩に触れた瞬間、天井の影が落ちた。
黒顎の成体。
名前の通り顎だけが異様に発達した魔物だ。頭上に張りつき弱った獲物に近づいた者を喰う。
ガレスは振り返る暇もなかった。巨大な顎が彼の上半身を挟んだ。骨の砕ける音がした。
セラが悲鳴を上げノルドが後退する。エイダが呪文を唱えようとして声を詰まらせた。
俺は短剣を抜いた。何度見ても慣れない。
慣れたら終わりだと思っていた頃もある。だが慣れなくても終わらないものはある。
「リュカを運べ」
俺は言った。
「で、でもガレスさんが!」
「死んだ」
セラの顔が歪んだ。
「リュカを運べ。黒顎は俺が相手をする」
黒顎がガレスを吐き捨てた。口の端から血が糸を引く。小さな目が俺を見た。攻略法はわかっている。
顎を狙ってはいけない。硬すぎる。足を切っても止まらない。腹を刺すと体液が飛び散る。浴びれば皮膚が爛れる。
狙うのは左目の下。ただしすぐには刺さない。
黒顎は追い詰められると最後に叫ぶ。あの叫びをリュカが近くで聞くとよくないものが早く目を覚ます。
早すぎれば広間で全員死ぬ。遅すぎればリュカは巣の中で壊れる。町まで運ばせるこの手順が今のところ一番長く人が生き残る。
面倒な魔物だ。面倒な手順だ。
俺は黒顎の突進を半身で避け、短剣で前脚を浅く切った。深くは切らない。怒らせるだけでいい。
「ラウルさん!」
ノルドが叫んだ。
「振り返らずリュカを連れていけ。出口まで下がったらそのまま戻れ。町まで」
ノルドとベックがリュカを抱え上げる。セラは震えながらも回復術をかけている。エイダが炎の魔術を構えた。
「撃つな」
「でも!」
「撃てば天井が落ちる」
エイダは唇を噛んだ。
黒顎が再び跳んだ。俺は床を転がり背中を石に打ちつけた。激痛が走る。演技ではなく痛い。中年の体に受け身を要求するな。それでも立つ。
黒顎の右前脚が滑った。さっき浅く切った傷から血が床に垂れている。その血はぬめる。黒顎自身も滑る。
リュカを担いだノルドたちが広間の入口まで下がる。
まだだ。あと十歩。
黒顎が口を開けた。俺は短剣を投げるふりをして横へ走った。黒顎が釣られて向きを変える。
あと五歩。
セラが泣いていた。ベックが歯を食いしばっていた。ノルドは息を乱していた。
リュカの首がだらりと揺れている。
生きている。生きているだけだ。
広間から全員が出た。
俺は黒顎の真正面に立った。
「悪いな。待たせた」
黒顎が跳ぶ。俺は膝を落とし左へ半歩入った。顎が肩を掠める。外套が裂ける。皮膚も少し切れた。
そのまま左目の下へ短剣を突き込む。硬い膜を破る感触。黒顎の体が痙攣し広間の床に倒れた。
喉の奥から潰れた笛のような音が漏れる。叫びになる前に俺は短剣をさらに押し込んだ。
黒顎は動かなくなった。しばらく広間には俺の呼吸だけが残った。
肩の傷は浅い。背中は痛い。膝も痛い。ふらつくが歩くこともできる。大した怪我ではない。
俺は外套を破り傷口を派手に縛った。血はそれほど出ていないが布を広めに巻けば重傷に見える。顔にも少し土をつける。
走れない理由が必要だった。追いついてはいけないからだ。
途中で追いついてリュカを止めたこともある。その時はリュカの中のものが門の前で目を覚ました。人が町の外と中に逃げ散り死者はもっと増えた。
通路へ戻った時にはノルドたちの姿はもうなかった。リュカの容態が悪い。先に町へ戻る、そう判断したのだろう。
壁際にはセラが包帯代わりに裂いた布の切れ端が落ちていた。足跡は出口の方へ続いている。
判断としては間違っていない。
怪我人を抱えたまま倒した魔物の前で待つ理由はない。応援を呼ぶにも治療師を呼ぶにも町へ戻るのが一番早い。
俺は肩の傷を押さえ少し遅れてその足跡を追った。帰り道は静かだった。
倒した魔物の死骸。避けた罠。触れなかった毒苔。通らなかった左の道。
どれもそのままだった。外へ出ると空は夕方の色になっていた。
町の方角が赤い。夕焼けにしては赤すぎた。俺は足を止めなかった。
町に近づくほど焦げたにおいが強くなる。人の叫び声が風に乗って届く。鐘が鳴っている。火事を知らせる鐘だ。
だがもう遅い。門を抜けた時、町は炎に包まれていた。
パン屋は燃えていた。鍛冶屋の屋根が崩れていた。酒場の前の樽は黒く焦げていた。朝、俺の頭を見て目を逸らした老婆が道端で倒れていた。
ギルドの建物も燃えていた。受付台はもうないだろう。書類も判子も、依頼票も、職員用の上着も。
炎の向こうにリュカが立っていた。いやリュカの体をしたものが立っていた。
少年の目は黒く濁り口元だけが笑っている。背中からは煙のような影が伸びていた。あれが魔王と呼ばれるものなのか呪いなのか、別の何かなのか、正確な名前は知らない。名前などどうでもいい。
リュカを巣から連れ出すとあれは目を覚ます。リュカを置いて帰るとガレスたちが死ぬ。
黒顎を早く倒すと広間で目を覚ます。俺が救助に行かなければもっと早く町が燃える。
鳥の糞を避けても、鉢植えを受けても、昼の書類を受け止めても、受け止めなくても、結果はだいたいこのあたりへ流れ着く。
炎の中で魔王と呼ぶしかないものがこちらを見た。俺は短剣を握った。勝てないことは知っている。逃げ切れないことも知っている。
町の外まで走ったこともある。ギルドに籠城したこともある。朝のうちにリュカを拘束したこともある。ガレスを殴って止めたこともある。魔術師を十人集めたこともある。王都へ知らせを出したこともある。
全部試した。全部終わった。
今回は黒顎の叫びを消すところまではうまくいった。リュカを広間で目覚めさせずに済んだ。だが町が燃えるところまでは変わらない。それでもまた朝は来る。
天井の染みが竜の横顔に見える朝が来る。臭いタオルで顔を拭く朝が来る。鉢植えが落ち、鳥の糞が落ち、受付が忙しくなり、ガレスが駆け込んでくる午後が来る。
俺は空を見上げた。黒い煙で夕焼けはほとんど見えない。
「まあ」
炎が近づいてくる。熱で頬が痛い。
「これでまた、やり直しか」
『それ』が笑った。視界が白く焼けた。
次に目を開けると天井の染みが見えた。竜の横顔に似ていた。俺は布団から起き上がり、腰を押さえた。
「……痛い」
桶の水で顔を洗い歯を磨く。
タオルは今日も臭かった。




