「君の代わりはいくらでもいる」と婚約破棄されたので、王太子妃教育の名で押しつけられた仕事をすべて返上しました――北の国境伯だけが「君でなければ困る」と言ってくれます
「エリシア・ノールズ。私は今夜、この場をもって君との婚約を破棄する」
春を祝う王宮の大夜会。
楽団が奏でていた軽やかな曲が、不自然なところで途切れた。
数百もの視線が私に集まる。
その中心で、第一王子アルベルト殿下は勝ち誇ったように顎を上げていた。
殿下の腕には、薄桃色のドレスを着たローゼ・ミュラー男爵令嬢がしがみついている。
彼女は怯えているように眉を下げながら、口元だけをわずかに笑わせていた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
私が尋ねると、アルベルト殿下は大げさなため息をついた。
「そういうところだ、エリシア」
「どういうところでしょう」
「君には女らしい感情というものがない。突然婚約を破棄されても、顔色一つ変えずに理由を確認する。普通の令嬢なら、涙を流すか、せめて動揺するものだろう」
動揺ならしていた。
ただ、それを表情に出したところで、何の役に立つのだろう。
泣けば婚約破棄が撤回されるわけでもない。
私は事実を確認し、その後の処理を考えていただけだ。
「君はいつも書類と数字ばかりだ。夜会では壁際に立ち、流行の歌も知らず、愛想笑いすらろくにできない。王太子妃となる者には華が必要だ」
殿下は腕の中のローゼ嬢を見つめた。
彼女は頬を染め、殿下の肩へ甘えるように身を寄せる。
「その点、ローゼは違う。明るく、優しく、誰からも愛される。彼女こそ私の妃にふさわしい」
周囲から忍び笑いが聞こえた。
地味なエリシアより、愛らしいローゼのほうが王太子妃にふさわしい。
そんな囁きが、さざ波のように広がっていく。
私は胸の前で両手を重ねた。
「承知いたしました。確認ですが、婚約の解消に伴い、王太子妃教育の一環として私が担当していた業務も、本日付ですべて終了するという認識でよろしいでしょうか」
「業務?」
アルベルト殿下は怪訝そうに眉をひそめた。
「北方への食糧輸送計画、王都施療院の予算管理、街道補修費の配分、軍馬飼料の共同購入、王家直轄領の税率調整、諸外国からの賓客名簿の整理などです」
「ああ、あの書類仕事か」
殿下は鼻で笑った。
「もちろんだ。婚約者でもない君を王宮に置いておく理由はない」
「承知いたしました」
「ずいぶん素直だな。少しは私に考え直してほしいと頼んだらどうだ?」
「殿下はすでに、ローゼ嬢こそ妃にふさわしいと結論を出されたのでしょう」
「そのとおりだ」
「では、私が何を申し上げても無意味です」
私が淡々と答えると、殿下の顔に不満そうな色が浮かんだ。
捨てられる女には、もっと取り乱してほしかったのかもしれない。
殿下にすがりつき、ローゼ嬢を罵り、みじめに泣き崩れる。
そうすれば、殿下は自分が価値ある男性であると実感できたのだろう。
けれど、私にはその役を演じる気はなかった。
私はドレスの隠しポケットから、銀色の小さな鍵を取り出した。
「こちらをお返しいたします」
「何の鍵だ?」
「王太子執務室の第二書庫、北方倉庫の記録保管庫、施療院会計室、ならびに王家直轄領管理局の副金庫の鍵です」
殿下は鍵を見つめたまま、受け取ろうとしない。
仕方なく、近くにいた侍従へ預けた。
「引継書は各部署へ提出済みです。目録は全三十七冊。緊急時の対応手順と取引先一覧も添えてあります」
「三十七冊だと?」
「はい」
「たかが書類整理に、大げさな女だ」
会場に再び笑い声が起きる。
私は一礼した。
「五年間、お世話になりました。アルベルト殿下とローゼ嬢のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
その瞬間、初めてローゼ嬢が口を開いた。
「エリシア様。お怒りにならないでくださいね」
鈴を転がすような声だった。
「わたくし、エリシア様から殿下を奪うつもりなんてなかったんです。ただ殿下が、あなたと一緒にいると息が詰まるとおっしゃって……。お仕事の話ばかりで、少しも心が安らがないと」
「そうですか」
「はい。ですから、どうか恨まないでください」
「恨んではおりません」
本心だった。
殿下の心を引き留められなかったのは私であり、殿下がローゼ嬢を選んだのも殿下自身だ。
ただし、殿下の選択の後始末まで、私が引き受ける義務はない。
「今後の業務については、引継書をご確認ください」
それだけ告げ、私は踵を返した。
背後で殿下が、呆れたように言った。
「最後まで仕事の話か。そんなもの、君でなくてもできる」
私は足を止めなかった。
「君の代わりなど、いくらでもいるのだからな」
◇
王宮から屋敷へ戻ると、侍女のマーサが私の顔を見るなり泣き出した。
「お嬢様……!」
「どうしたの、マーサ」
「どうしたも何もございません! あんなひどいことを、大勢の前で……」
彼女は泣きながら私の外套を受け取った。
「お嬢様も泣いてください。怒ってください。何でもないようなお顔をなさらないでくださいませ」
「泣き方を忘れてしまったのかもしれないわ」
口にしてから、それが思いのほか寂しい言葉だと気づいた。
十歳でアルベルト殿下の婚約者に決まって以来、私は理想の王太子妃となるために生きてきた。
感情を顔に出してはいけない。
人前で声を荒らげてはいけない。
常に公平で、冷静で、誰よりも勤勉であれ。
失敗すれば、未来の国母にふさわしくないと叱責された。
褒められた記憶はほとんどない。
どれほど仕事を終えても、王太子妃になるのだから当然だと言われた。
さらに多くの仕事を渡され、私はそれを黙って片づけた。
そうしているうちに、つらいと訴える方法すら忘れてしまったのだろう。
「荷造りを手伝ってちょうだい」
「荷造り、でございますか?」
「明後日、北へ発つわ」
マーサが涙を拭う手を止めた。
「北……と申しますと、奥様の故郷の?」
「ええ。母から相続した小さな屋敷が残っているでしょう」
「ですが、北方はまだ雪深い時期でございます」
「知っているわ」
私は机の引き出しから、一通の手紙を取り出した。
厚い紙に、簡潔な文字が並んでいる。
差出人は北部国境を守るグランツ辺境伯。
王宮を通して何度か意見書を交わしたことはあるが、直接会ったことはなかった。
手紙には、こう記されている。
――北部領政顧問として、あなたを迎えたい。
――あなたが作成した輸送計画により、三年前、我が領の民三百二十七名が飢えずに冬を越した。
――正当な報酬と権限を用意する。
手紙が届いたのは一月前。
そのときはアルベルト殿下の婚約者だったため、断るつもりでいた。
けれど今は、もう何の役目もない。
「私を必要としてくださる場所があるのなら、そこへ行ってみたいの」
「お嬢様……」
「それに」
私は王宮から持ち帰った鞄を見た。
私物は、たったこれだけだった。
五年間、毎日のように通った場所なのに。
私がいなくなった後、寂しがる者はいるだろうか。
そんな考えを、すぐに打ち消す。
殿下が言ったではないか。
私の代わりはいくらでもいる、と。
「もう、必要とされていない場所に居続ける理由はないわ」
◇
王都を発って七日。
馬車の窓の外は、一面の銀世界だった。
途中で吹雪に見舞われたため、予定より半日遅れて北部の城塞都市へ到着した。
城門の前には、黒い軍馬に乗った一人の男性が待っていた。
雪が肩に積もっている。
漆黒の外套。
短く切った銀灰色の髪。
鋭い青の瞳。
北の氷狼と呼ばれる、レオンハルト・グランツ辺境伯その人だった。
彼は私たちの馬車が止まるより早く馬を降りた。
扉が開く。
私が降りようとすると、大きな手が差し出された。
「エリシア・ノールズ嬢」
「はい」
「ご無事でよかった」
それが、彼の最初の言葉だった。
婚約破棄に関する好奇心も、同情もなかった。
ただ、私が無事に到着したことだけを喜ぶ言葉だった。
「お迎えいただき、ありがとうございます」
彼の手を借りて馬車を降りる。
触れた手は、驚くほど冷たかった。
「いつから、ここでお待ちに?」
「大した時間ではない」
近くにいた副官が視線を逸らした。
その態度で、おそらく何時間も待っていたのだと察した。
「予定より遅れてしまい、申し訳ございません」
「あなたが謝ることではない。雪が降るのは私の領地の都合だ」
真面目な顔でそう言う。
私は思わず瞬きをした。
アルベルト殿下なら、私が吹雪を起こしたわけでもないのに、待たされたことを責めただろう。
レオンハルト様は自分の外套を外し、私の肩にかけた。
「ですが、閣下が寒いのでは」
「慣れている」
「私も厚着をしております」
「王都の厚着は、北では春服だ」
反論を許さない口調だった。
けれど不思議と、威圧されているとは感じなかった。
辺境伯城へ到着すると、すぐに応接室へ案内された。
暖炉の前の机には、契約書が用意されていた。
「まずは雇用条件を確認してほしい」
旅の疲れを取るより先に仕事の話をするあたり、やはり噂どおりの方なのだろう。
けれど私には、そのほうがありがたかった。
契約書を開く。
領政顧問としての権限。
年俸。
住居と使用人の手配。
週に二日の休養。
病気や負傷時の取り扱い。
提案が採用された場合の追加報酬。
どれも王宮にいた頃とは比べものにならないほど、整えられている。
とりわけ、ある一文を読んだ瞬間、私は呼吸を止めた。
――考案された政策および制度を公表する場合、発案者・作成者の氏名を必ず明記するものとする。
何度も読み返した。
文字が滲んで見えた。
「条件に問題があったか」
向かい側に座るレオンハルト様が尋ねる。
「いいえ」
声が震えた。
「問題はございません。ですが、これは……」
私は該当箇所を指した。
「当然のことだと思うが」
「当然……」
「誰が考え、誰が働いたのか。正しく記録する必要がある」
「王都では、そうではありませんでした」
王太子妃となる者の仕事は、王太子の功績として発表される。
それが当然だと言われてきた。
私が作った制度も、書いた報告書も、すべてアルベルト殿下の名で発表された。
「ならば、王都が間違っている」
レオンハルト様は迷いなく言った。
私は契約書へ視線を落とした。
涙をこぼしてはいけない。
そう思うほど、瞼が熱くなる。
レオンハルト様は何も言わずに立ち上がり、窓の外へ顔を向けた。
私が泣き止むまで、見ないふりをしてくれたのだ。
その不器用な優しさが、胸に痛かった。
「申し訳ございません」
しばらくして私が言うと、彼は振り返った。
「謝る必要はない」
「人前で泣くのは、はしたないことだと教えられてきました」
「ここには私しかいない」
「閣下の前では、よろしいのですか」
レオンハルト様は少し考えた。
「泣くのも、笑うのも、あなたが決めればいい」
それは私にとって、初めて与えられた許可だった。
◇
北での仕事は、決して楽ではなかった。
むしろ、王都にいた頃より忙しい日も多い。
けれど、苦痛ではなかった。
私の意見を聞いてくれる人がいた。
採用できない案には理由が示され、採用された案には私の名前が記された。
夜遅くまで働けば、翌朝の会議が午後へ変更された。
食事を抜こうとすれば、レオンハルト様が無言でパンの籠を私の机へ置いた。
「閣下。資料の上にパン屑が落ちます」
「食堂へ行けばいい」
「あと少しですので」
「その言葉を一時間前にも聞いた」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「あなたのことだからな」
そう言ったあと、レオンハルト様はなぜか黙り込んだ。
耳が少し赤く見えたのは、暖炉の熱のせいだろうか。
私が最初に任されたのは、冬季の食糧輸送網の立て直しだった。
北方には小さな村が点在している。
積雪で街道が閉ざされると、食糧を運べなくなる村も多い。
私は過去十年分の降雪記録と、各村の人口、備蓄量、馬車の所要時間を調べた。
そのうえで、中継倉庫を三か所増設し、乾燥豆と塩漬け肉を秋のうちに分散して運び込む案を作った。
さらに、夫を戦で亡くした女性たちを雇い、保存食の加工所を設ける。
雇用と備蓄を同時に確保する計画だった。
会議では古参の騎士が眉をひそめた。
「辺境の冬を知らぬ王都の令嬢に、何が分かる」
「バルド卿」
レオンハルト様が低い声で名を呼ぶ。
「しかし閣下、紙の上では何とでも言えます。大雪が降れば、計画どおりになど――」
「三年前の大雪で、南部からの輸送馬車を五台ずつに分け、車間を広く取るよう指示したのは彼女だ」
騎士が口を閉ざした。
「あの指示がなければ、雪崩に巻き込まれたのは先頭の一台だけでは済まなかった。さらに修道院を臨時の中継地とし、穀物を村ごとに分配する案を出したのも彼女だ」
「ですが、それは王太子殿下の指示だったのでは」
「違う」
レオンハルト様は即答した。
「王宮から届いた書状には王太子の署名があった。だが、原案を作成した者の名を私は調べた」
彼は会議室を見回した。
「彼女の案を採用する」
「閣下」
「失敗した場合の責任は、採用を決めた私が負う」
そこで一度言葉を切り、レオンハルト様は私を見た。
「成功した場合の功績は、エリシア・ノールズに帰する」
誰も反論しなかった。
計画は秋から実行された。
加工所には予想を上回る人数が集まり、品質のよい保存食が完成した。
使われなくなっていた倉庫を修繕し、積雪前に物資を運び込む。
最初の大雪が降ったのは、例年より二週間も早い時期だった。
古い橋が一つ崩落し、三つの村へ続く街道が塞がれた。
それでも、中継倉庫の備蓄があったおかげで、村人たちは救援路が開通するまで持ちこたえた。
死亡者は一人も出なかった。
報告を聞いた日、私は執務室で長く息を吐いた。
「よかった……」
その場に座り込みそうになる。
すると、レオンハルト様が私の腕を支えた。
「顔色が悪い」
「緊張が解けたからです」
「計算では、十分に持ちこたえられると言っていたではないか」
「計算と、人の命は違います」
数字の上では問題がなくても、現地から無事の報告が届くまでは安心できない。
レオンハルト様は私の腕を支えたまま、静かに言った。
「あなたは数字しか見ない女ではない」
胸が小さく震えた。
「アルベルト殿下は、そうおっしゃいました」
「王太子は人を見る目がない」
あまりにも率直な物言いに、私は思わず笑ってしまった。
レオンハルト様が目を見開く。
「何か、おかしなことを言ったか」
「いいえ。申し訳ございません」
「謝らなくていい」
「では、もう少し笑っても?」
「好きなだけ」
私は声を抑えながら、しばらく笑った。
こんなふうに自然に笑ったのは、いつ以来だろう。
やがて私が落ち着くと、レオンハルト様はわずかに目を細めた。
「あなたは笑ったほうがいい」
「王太子妃らしくない笑い方では?」
「王太子妃ではないだろう」
「そうでした」
「それに」
レオンハルト様は少し視線を逸らした。
「誰かに見せるためではなく、あなた自身のために笑えばいい」
◇
冬の終わり。
王都から、最初の手紙が届いた。




