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「君の代わりはいくらでもいる」と婚約破棄されたので、王太子妃教育の名で押しつけられた仕事をすべて返上しました――北の国境伯だけが「君でなければ困る」と言ってくれます

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/06/23

「エリシア・ノールズ。私は今夜、この場をもって君との婚約を破棄する」


春を祝う王宮の大夜会。

楽団が奏でていた軽やかな曲が、不自然なところで途切れた。

数百もの視線が私に集まる。

その中心で、第一王子アルベルト殿下は勝ち誇ったように顎を上げていた。

殿下の腕には、薄桃色のドレスを着たローゼ・ミュラー男爵令嬢がしがみついている。

彼女は怯えているように眉を下げながら、口元だけをわずかに笑わせていた。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」

私が尋ねると、アルベルト殿下は大げさなため息をついた。


「そういうところだ、エリシア」

「どういうところでしょう」

「君には女らしい感情というものがない。突然婚約を破棄されても、顔色一つ変えずに理由を確認する。普通の令嬢なら、涙を流すか、せめて動揺するものだろう」


動揺ならしていた。

ただ、それを表情に出したところで、何の役に立つのだろう。

泣けば婚約破棄が撤回されるわけでもない。

私は事実を確認し、その後の処理を考えていただけだ。


「君はいつも書類と数字ばかりだ。夜会では壁際に立ち、流行の歌も知らず、愛想笑いすらろくにできない。王太子妃となる者には華が必要だ」


殿下は腕の中のローゼ嬢を見つめた。

彼女は頬を染め、殿下の肩へ甘えるように身を寄せる。


「その点、ローゼは違う。明るく、優しく、誰からも愛される。彼女こそ私の妃にふさわしい」


周囲から忍び笑いが聞こえた。

地味なエリシアより、愛らしいローゼのほうが王太子妃にふさわしい。

そんな囁きが、さざ波のように広がっていく。

私は胸の前で両手を重ねた。


「承知いたしました。確認ですが、婚約の解消に伴い、王太子妃教育の一環として私が担当していた業務も、本日付ですべて終了するという認識でよろしいでしょうか」

「業務?」

アルベルト殿下は怪訝そうに眉をひそめた。

「北方への食糧輸送計画、王都施療院の予算管理、街道補修費の配分、軍馬飼料の共同購入、王家直轄領の税率調整、諸外国からの賓客名簿の整理などです」

「ああ、あの書類仕事か」

殿下は鼻で笑った。

「もちろんだ。婚約者でもない君を王宮に置いておく理由はない」

「承知いたしました」

「ずいぶん素直だな。少しは私に考え直してほしいと頼んだらどうだ?」

「殿下はすでに、ローゼ嬢こそ妃にふさわしいと結論を出されたのでしょう」

「そのとおりだ」

「では、私が何を申し上げても無意味です」


私が淡々と答えると、殿下の顔に不満そうな色が浮かんだ。

捨てられる女には、もっと取り乱してほしかったのかもしれない。

殿下にすがりつき、ローゼ嬢を罵り、みじめに泣き崩れる。

そうすれば、殿下は自分が価値ある男性であると実感できたのだろう。

けれど、私にはその役を演じる気はなかった。

私はドレスの隠しポケットから、銀色の小さな鍵を取り出した。


「こちらをお返しいたします」

「何の鍵だ?」

「王太子執務室の第二書庫、北方倉庫の記録保管庫、施療院会計室、ならびに王家直轄領管理局の副金庫の鍵です」


殿下は鍵を見つめたまま、受け取ろうとしない。

仕方なく、近くにいた侍従へ預けた。


「引継書は各部署へ提出済みです。目録は全三十七冊。緊急時の対応手順と取引先一覧も添えてあります」

「三十七冊だと?」

「はい」

「たかが書類整理に、大げさな女だ」


会場に再び笑い声が起きる。

私は一礼した。


「五年間、お世話になりました。アルベルト殿下とローゼ嬢のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」


その瞬間、初めてローゼ嬢が口を開いた。


「エリシア様。お怒りにならないでくださいね」

鈴を転がすような声だった。

「わたくし、エリシア様から殿下を奪うつもりなんてなかったんです。ただ殿下が、あなたと一緒にいると息が詰まるとおっしゃって……。お仕事の話ばかりで、少しも心が安らがないと」

「そうですか」

「はい。ですから、どうか恨まないでください」

「恨んではおりません」


本心だった。

殿下の心を引き留められなかったのは私であり、殿下がローゼ嬢を選んだのも殿下自身だ。

ただし、殿下の選択の後始末まで、私が引き受ける義務はない。


「今後の業務については、引継書をご確認ください」


それだけ告げ、私は踵を返した。

背後で殿下が、呆れたように言った。


「最後まで仕事の話か。そんなもの、君でなくてもできる」


私は足を止めなかった。


「君の代わりなど、いくらでもいるのだからな」





王宮から屋敷へ戻ると、侍女のマーサが私の顔を見るなり泣き出した。


「お嬢様……!」

「どうしたの、マーサ」

「どうしたも何もございません! あんなひどいことを、大勢の前で……」

彼女は泣きながら私の外套を受け取った。

「お嬢様も泣いてください。怒ってください。何でもないようなお顔をなさらないでくださいませ」

「泣き方を忘れてしまったのかもしれないわ」


口にしてから、それが思いのほか寂しい言葉だと気づいた。

十歳でアルベルト殿下の婚約者に決まって以来、私は理想の王太子妃となるために生きてきた。

感情を顔に出してはいけない。

人前で声を荒らげてはいけない。

常に公平で、冷静で、誰よりも勤勉であれ。

失敗すれば、未来の国母にふさわしくないと叱責された。

褒められた記憶はほとんどない。

どれほど仕事を終えても、王太子妃になるのだから当然だと言われた。

さらに多くの仕事を渡され、私はそれを黙って片づけた。

そうしているうちに、つらいと訴える方法すら忘れてしまったのだろう。


「荷造りを手伝ってちょうだい」

「荷造り、でございますか?」

「明後日、北へ発つわ」

マーサが涙を拭う手を止めた。

「北……と申しますと、奥様の故郷の?」

「ええ。母から相続した小さな屋敷が残っているでしょう」

「ですが、北方はまだ雪深い時期でございます」

「知っているわ」


私は机の引き出しから、一通の手紙を取り出した。

厚い紙に、簡潔な文字が並んでいる。

差出人は北部国境を守るグランツ辺境伯。

王宮を通して何度か意見書を交わしたことはあるが、直接会ったことはなかった。

手紙には、こう記されている。


――北部領政顧問として、あなたを迎えたい。

――あなたが作成した輸送計画により、三年前、我が領の民三百二十七名が飢えずに冬を越した。

――正当な報酬と権限を用意する。


手紙が届いたのは一月前。

そのときはアルベルト殿下の婚約者だったため、断るつもりでいた。

けれど今は、もう何の役目もない。


「私を必要としてくださる場所があるのなら、そこへ行ってみたいの」

「お嬢様……」

「それに」


私は王宮から持ち帰った鞄を見た。

私物は、たったこれだけだった。

五年間、毎日のように通った場所なのに。

私がいなくなった後、寂しがる者はいるだろうか。

そんな考えを、すぐに打ち消す。

殿下が言ったではないか。

私の代わりはいくらでもいる、と。


「もう、必要とされていない場所に居続ける理由はないわ」





王都を発って七日。

馬車の窓の外は、一面の銀世界だった。

途中で吹雪に見舞われたため、予定より半日遅れて北部の城塞都市へ到着した。

城門の前には、黒い軍馬に乗った一人の男性が待っていた。

雪が肩に積もっている。

漆黒の外套。

短く切った銀灰色の髪。

鋭い青の瞳。

北の氷狼と呼ばれる、レオンハルト・グランツ辺境伯その人だった。

彼は私たちの馬車が止まるより早く馬を降りた。

扉が開く。

私が降りようとすると、大きな手が差し出された。


「エリシア・ノールズ嬢」

「はい」

「ご無事でよかった」


それが、彼の最初の言葉だった。

婚約破棄に関する好奇心も、同情もなかった。

ただ、私が無事に到着したことだけを喜ぶ言葉だった。


「お迎えいただき、ありがとうございます」


彼の手を借りて馬車を降りる。

触れた手は、驚くほど冷たかった。


「いつから、ここでお待ちに?」

「大した時間ではない」


近くにいた副官が視線を逸らした。

その態度で、おそらく何時間も待っていたのだと察した。


「予定より遅れてしまい、申し訳ございません」

「あなたが謝ることではない。雪が降るのは私の領地の都合だ」


真面目な顔でそう言う。

私は思わず瞬きをした。

アルベルト殿下なら、私が吹雪を起こしたわけでもないのに、待たされたことを責めただろう。

レオンハルト様は自分の外套を外し、私の肩にかけた。


「ですが、閣下が寒いのでは」

「慣れている」

「私も厚着をしております」

「王都の厚着は、北では春服だ」


反論を許さない口調だった。

けれど不思議と、威圧されているとは感じなかった。

辺境伯城へ到着すると、すぐに応接室へ案内された。

暖炉の前の机には、契約書が用意されていた。


「まずは雇用条件を確認してほしい」


旅の疲れを取るより先に仕事の話をするあたり、やはり噂どおりの方なのだろう。

けれど私には、そのほうがありがたかった。

契約書を開く。

領政顧問としての権限。

年俸。

住居と使用人の手配。

週に二日の休養。

病気や負傷時の取り扱い。

提案が採用された場合の追加報酬。

どれも王宮にいた頃とは比べものにならないほど、整えられている。

とりわけ、ある一文を読んだ瞬間、私は呼吸を止めた。


――考案された政策および制度を公表する場合、発案者・作成者の氏名を必ず明記するものとする。


何度も読み返した。

文字が滲んで見えた。


「条件に問題があったか」

向かい側に座るレオンハルト様が尋ねる。

「いいえ」

声が震えた。

「問題はございません。ですが、これは……」

私は該当箇所を指した。

「当然のことだと思うが」

「当然……」

「誰が考え、誰が働いたのか。正しく記録する必要がある」

「王都では、そうではありませんでした」


王太子妃となる者の仕事は、王太子の功績として発表される。

それが当然だと言われてきた。

私が作った制度も、書いた報告書も、すべてアルベルト殿下の名で発表された。


「ならば、王都が間違っている」


レオンハルト様は迷いなく言った。

私は契約書へ視線を落とした。

涙をこぼしてはいけない。

そう思うほど、瞼が熱くなる。

レオンハルト様は何も言わずに立ち上がり、窓の外へ顔を向けた。

私が泣き止むまで、見ないふりをしてくれたのだ。

その不器用な優しさが、胸に痛かった。


「申し訳ございません」

しばらくして私が言うと、彼は振り返った。

「謝る必要はない」

「人前で泣くのは、はしたないことだと教えられてきました」

「ここには私しかいない」

「閣下の前では、よろしいのですか」

レオンハルト様は少し考えた。

「泣くのも、笑うのも、あなたが決めればいい」


それは私にとって、初めて与えられた許可だった。





北での仕事は、決して楽ではなかった。

むしろ、王都にいた頃より忙しい日も多い。

けれど、苦痛ではなかった。

私の意見を聞いてくれる人がいた。

採用できない案には理由が示され、採用された案には私の名前が記された。

夜遅くまで働けば、翌朝の会議が午後へ変更された。

食事を抜こうとすれば、レオンハルト様が無言でパンの籠を私の机へ置いた。


「閣下。資料の上にパン屑が落ちます」

「食堂へ行けばいい」

「あと少しですので」

「その言葉を一時間前にも聞いた」

「よく覚えていらっしゃいますね」

「あなたのことだからな」


そう言ったあと、レオンハルト様はなぜか黙り込んだ。

耳が少し赤く見えたのは、暖炉の熱のせいだろうか。


私が最初に任されたのは、冬季の食糧輸送網の立て直しだった。

北方には小さな村が点在している。

積雪で街道が閉ざされると、食糧を運べなくなる村も多い。

私は過去十年分の降雪記録と、各村の人口、備蓄量、馬車の所要時間を調べた。

そのうえで、中継倉庫を三か所増設し、乾燥豆と塩漬け肉を秋のうちに分散して運び込む案を作った。

さらに、夫を戦で亡くした女性たちを雇い、保存食の加工所を設ける。

雇用と備蓄を同時に確保する計画だった。

会議では古参の騎士が眉をひそめた。


「辺境の冬を知らぬ王都の令嬢に、何が分かる」

「バルド卿」


レオンハルト様が低い声で名を呼ぶ。


「しかし閣下、紙の上では何とでも言えます。大雪が降れば、計画どおりになど――」

「三年前の大雪で、南部からの輸送馬車を五台ずつに分け、車間を広く取るよう指示したのは彼女だ」


騎士が口を閉ざした。


「あの指示がなければ、雪崩に巻き込まれたのは先頭の一台だけでは済まなかった。さらに修道院を臨時の中継地とし、穀物を村ごとに分配する案を出したのも彼女だ」

「ですが、それは王太子殿下の指示だったのでは」

「違う」


レオンハルト様は即答した。


「王宮から届いた書状には王太子の署名があった。だが、原案を作成した者の名を私は調べた」


彼は会議室を見回した。


「彼女の案を採用する」

「閣下」

「失敗した場合の責任は、採用を決めた私が負う」


そこで一度言葉を切り、レオンハルト様は私を見た。


「成功した場合の功績は、エリシア・ノールズに帰する」


誰も反論しなかった。

計画は秋から実行された。

加工所には予想を上回る人数が集まり、品質のよい保存食が完成した。

使われなくなっていた倉庫を修繕し、積雪前に物資を運び込む。

最初の大雪が降ったのは、例年より二週間も早い時期だった。

古い橋が一つ崩落し、三つの村へ続く街道が塞がれた。

それでも、中継倉庫の備蓄があったおかげで、村人たちは救援路が開通するまで持ちこたえた。

死亡者は一人も出なかった。

報告を聞いた日、私は執務室で長く息を吐いた。


「よかった……」


その場に座り込みそうになる。

すると、レオンハルト様が私の腕を支えた。


「顔色が悪い」

「緊張が解けたからです」

「計算では、十分に持ちこたえられると言っていたではないか」

「計算と、人の命は違います」


数字の上では問題がなくても、現地から無事の報告が届くまでは安心できない。

レオンハルト様は私の腕を支えたまま、静かに言った。


「あなたは数字しか見ない女ではない」


胸が小さく震えた。


「アルベルト殿下は、そうおっしゃいました」

「王太子は人を見る目がない」


あまりにも率直な物言いに、私は思わず笑ってしまった。

レオンハルト様が目を見開く。


「何か、おかしなことを言ったか」

「いいえ。申し訳ございません」

「謝らなくていい」

「では、もう少し笑っても?」

「好きなだけ」


私は声を抑えながら、しばらく笑った。

こんなふうに自然に笑ったのは、いつ以来だろう。

やがて私が落ち着くと、レオンハルト様はわずかに目を細めた。


「あなたは笑ったほうがいい」

「王太子妃らしくない笑い方では?」

「王太子妃ではないだろう」

「そうでした」

「それに」

レオンハルト様は少し視線を逸らした。

「誰かに見せるためではなく、あなた自身のために笑えばいい」





冬の終わり。

王都から、最初の手紙が届いた。

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