1、プロローグ
私、峠時雫は5歳の時に事故で両親を亡くし、父の親友が経営している”星空サーカス団”に入れられてしまった。上は40代、下は小学校4年生くらいまでと幅広い年齢層の人たちが集まっている。
性格も穏やかな人からキレやすい人、面白い人など様々だった。一つ共通点として言えることは、家族のいない人だけが集まっていることだった。奥さんや旦那さんに逃げられた人、両親の虐待で施設に預けられた人、私のように事故や病気で両親を亡くして、みなしごになった人もいる。住んでいる場所は、東京都稲城市内にある小さな団地で、活動範囲は都内がメインで、時々埼玉や千葉、神奈川に行くこともある。お手伝いさんや小間使いなどがいないため、食事や洗濯などはすべて自分たちでやらないといけなかった。
食事と洗濯は当番制になっていて、2人~3人で担当することになっていた。料理も上手な人に当たった時には豪華ですが、下手な人に当たった時には罰ゲームみたいな料理になる。
洗濯も雑な人から几帳面な人まで様々だった。ある日、みんなで話し合った結果、食事当番は料理の出来る人だけに決まった。
掃除は基本みんなでやることになっていたので、いつもすぐに終わってしまう。
団長もサーカス団を結成する前、奥さんと子供を事故で亡くしてしまった。奥さんと子供が買い物帰りに横断歩道を渡っていたら、猛スピードで走ってきた車にはねられてしまい、その場で死んでしまった。車は奥さんと子供を救護せず逃走してしまい、その数日後には、車を運転していた人が”危険運転過失致死罪”で逮捕されてしまった。賠償金を受け取っても奥さんと子供が返ってこないことはわかっていた。その日も団長は奥さんと子供の遺影の前で静かに合掌して、1人で外に出てしまった。残った私たちはそれぞれの時間を過ごしていた。
その頃の私は小学校1年生で、7歳の誕生日を迎えたばかりだった。自分の勉強部屋がなかったので、空いている部屋で平仮名の練習をしていた時だった。
「なんの勉強をしているの?」
後ろから綱木空夢がやってきた。
「空夢、どうしたの?」
「なんの勉強しているか気になったから」
「平仮名の書き取り」
「漢字はやっていないの?」
「ううん、これから」
「そうなんだね」
空夢は少しバカにしたような目で私の顔を見たあと、少し離れた場所で漫画を読み始めた。なんだか感じが悪いとその時の私は思っていた。空夢は運動神経抜群で、すぐに空中ブランコや綱渡りに選ばれてしまった。しかし、勉強に関しては今一つだったため、学校では居残りになることが多かった。
本人は「学校の勉強がすべてじゃない」と言っているので、勉強はあんまりやっていないが、漢字の読み書きだけはきちんとやっていた。
その一方、大人たちはと言うと、スマホや雑誌、テレビに夢中になっていたので、私は一度勉強道具を持って、図書館へ行くことになった。図書館までは自転車で7分前後だったので、移動には非常に便利だった。駐輪場に自転車を止めたあと、荷物を持って自習スペースで残りの勉強を済ませていた時だった。連絡用として渡されたスマホの着信音がうるさく鳴っていたので、その場で電話に出てしまった。当然、図書館の中だったので、周りの人たちは私を見るなり、ギロっと睨み付けていた。さすがの私も周りの人たちが「うるさい」と言いたかったことはわかっていたので、駆け足で図書館の出入口に移動して、スマホの画面を見たら”団長”と書かれていたので、私はすぐに電話に出て要件を済ませることにした。
「もしもし?」
「雫ちゃん、今電話大丈夫?」
「すみません、今図書館の中なんです……」
「じゃあ、手短に要件を済ませるけど、これから稽古を始めようと思っているんだよ」
「今日の予定には入っていなかったはずでは?」
「急きょ、やることになったんだよ。悪く思わないでくれ」
「わかりました、急いで戻ります」
電話を切った私は荷物を持って、自転車に乗って猛スピードで戻ることにした。部屋に入ってみると、すでに居間にはみんなが集まっていた。
「急に呼び出して、すまない」
団長は申し訳なさそうな顔して私に謝ってきた。
「私なら大丈夫です」
「それなら、よかった」
そのあと、みんなで車に乗って空き地に設置したテントまで向かった。誰もいないテントの中でそれぞれ練習に励んでいた。私がジャグリングの練習していた時、空夢は空中ブランコの練習をしていた。一緒にいた相手は25歳のベテランの男性で、絶対にバランスを崩すことがなく、スムーズにやっていた。
「空夢、これだけ完璧にこなしていれば、もう練習をする必要がないよ」
「もう少しだけやらせてください。まだ満足出来ないのです」
「これだけ完璧にこなしていれば、お客さんも満足するよ」
「私が満足出来ないのです」
「サーカスはお客さんが見て満足をすればいいの。あなたが満足するかどうかは関係ないの。わかった?」
「はい……」
トレーナーさんから厳しい言葉を受けて、空夢はそのままテントの隅にある丸椅子に座って水筒に入っている麦茶を飲みながら、みんなの練習を見ていた。
「お疲れ、満足出来なかった?」
トレーナーの花岡雪姫さんは、にこやかな表情で空夢のそばに近寄ってきた。
「はい、正直……。私としては、もう少し華麗にやってみたかったのです……」
「なるほどね……。でもさ、お客さんが求めているのは派手なパフォーマンスより、正確、丁寧にこなすことだと思うの。もし、失敗して大けがでもしたら、お客さん来なくなっちゃうよ」
「そうですよね……」
「今のあなたなら、充分っていうくらいにこなせているから、ここで座ってみんなの練習を見ていてちょうだい」
「わかりました……」
トレーナーさんは、そのまま他の人の指導に入ってしまった。しかし、椅子に座っていた空夢はレーナーさんの言葉が今一つ納得していなかった。
退屈になったのか、空夢は椅子から立ち上がってテントの中をウロウロしたり、他のテントやコンテナの中を見て回っていた。気まぐれで入った衣装室の中を入ってみると、奥に一枚の写真立てがあったので、そうっと覗いてみるとそこには幼少期のトレーナーさんと家族と思われる人が写っていた。「これって、間違いなくトレーナーさんだよね……」空夢は独り言を呟きながら、ずっと写真を眺めていたら、後ろから肩をポンっと誰かが叩いてきた。
「ここにいたんだね」
後ろを振り向いたら、そこに立っていたのはトレーナーさんだった。
「トレーナーさん……」
「私のことは雪姫でいいよ」
「では雪姫さん、なんでここに……?」
「それは、こっちのセリフよ。急にいなくなったから、びっくりしたよ」
「すみません……」
「何か気になる衣装でもあったの? それとも、この写真が気になったの?」
トレーナーさんは少し意地悪そうに聞き出した。
「偶然入った衣装室を覗いたら、そこに写真があったので……」
「それで、眺めていたんだね」
「はい……」
「雪姫さん、一緒に写っている人って……」
「私の両親よ。私が8歳の時にいなくなったの」
「死んだのですか?」
「知りたい?」
「はい……」
「じゃあ、聞かせてあげる。その代わり何を聞かされても驚かないと約束出来る?」
「はい……」
空夢は覚悟を決めた顔でテントの客席に座って、トレーナーさんの話を聞くことにした。
「これは私が小学校に入って、二度目の夏休みを迎えた最初の月曜日のことだったの。夕食の時に父さんからキャンプの誘いが来て、私のテンションは一気にうなぎ上り。嬉しくなった私は友達に自慢していたの。しかし、キャンプへ行く前日、私の楽しみを根こそぎ持って行かれる出来事が発生したの」
「何が起きたのですか?」
空夢は緊張した表情でトレーナーさんに聞き出した。
「知りたい?」
トレーナーさんは、もったいぶった言い方をしてじらせていた。
「夕方、私がコンビニから戻ってきたら、何者かが刃物を持って私を襲ってきたの。それを母さんが私をかばって、胸に数か所刺されて死んじゃったの。葬式を終えたその夜から、父さんは仕事をやめて毎日お酒とギャンブル三昧。最後は借金を作り出す始末。当然、住んでいた家を売り払い、乗っていた車も廃車にして、借金取りから逃げる生活が始まったの。父さんは私にこれ以上危険なめにあわせないよう、星空サーカス団に入れて、行方を膨らませて、そのままいなくなったの」
「それって、蒸発ですか?」
「そうよ。じゃあ、この話はおしまい」
トレーナーさんの話が終わったころ、みんなの練習も終わっていたので、後片付けをして車に乗って団地へと戻った。
その日の夜、空夢はトレーナーさんから聞かされた話が気になって、なかなか眠れなかった。夜中に目を覚ました空夢はトイレに向かう途中、大人たちが部屋で晩酌をしていたので少し覗いてみた。「大人が羨ましいと」と思ってしまった。再びベッドに入ろうと思った時、後ろから「空夢ちゃん、ちょっとだけいい?」と声がした。後ろを振り向いたら、ピエロをやっている白丸星音さんが、優しく声をかけてきた。
「寝ようとしている時に、引き留めてごめんね」
「いえ、大丈夫です」
星音さんは、空夢を大人たちが集まっている部屋へ連れて行った。
「あの、私、お酒が飲めないんですけど……」
空夢は思わず大人たちの前で言ってしまった。
「大丈夫、どんちゃん騒ぎじゃないから」
星音さんは穏やかな表情で答えてくれた。しかし、空夢にはこの状況が掴めなかった。大人たちは、いい感じに酔っぱらっていて、空夢はポツンっと1人正座していた状態だった。少しの間沈黙が続いたあと、星音さんの表情は険しくなり、覚悟を決めてみんなに打ち明けることにした。
「実は子供たちには、明日打ち明けるつもりだったけど、あなただけに今話すね。実は私、このサーカス団を抜けることになったの。これは団長を始めとする大人たちと話し合った上で決めたことなの。一つ誤解しないで欲しいんだけど、これは私が星空サーカス団が嫌になったからじゃなくて、他にやってみたいことを見つけたからなの」
「そのやりたいことって?」
空夢は今一つ納得しない顔で質問してきた。
「実は私、警察官になることを決めたの」
それを聞いた、みんなは「えー!?」と大声を出していた。
「どこの警察官なんですか?」
「山梨県警に」
「もう、採用されたのですか?」
「まあね。でも、これから警察学校で厳しい訓練を受けて、そのあと交番に配属って感じかな」
「そうなんですね。私、応援しています。警察官のお仕事頑張ってください」
「ありがとう」
「来週の日曜日、晴海でショーがあるから、その時お客さんにも打ち明けようか」
団長も穏やかな表情で提案してきた。
「では、この話は終わりにしていいですか?」
「そうだな」
星音さんが切り出したら、団長は短く返事をした。
日曜日の夕方、私たちは晴海ふ頭の外れで、スタッフが午前中に設置したテントの中でお客さんを迎える準備をしていた。
「今日が最後のショーなんだね」
星音さんは衣装室で手に持っているピエロの衣装とお面を眺めながら呟いていた。
「どうしたんだ?」
団長は穏やかな表情で声をかけてきた。
「今日が最後となると、急に胸が苦しくなって……」
「警察の仕事がうまくいかなくなった時は、ここへ戻ってきてもいいからな」
「ありがとうございます。私、警察の仕事頑張りますので」
「ところで、なんで山梨県警にしたんだ?」
「私、産まれも育ちも上野原だったんです。ですから、自分が生まれ育った山梨で警察官になってみようと思ったのです」
「そういえば、君の実家は、どうなったんだ?」
「両親がいなくなったあと、祖父母が暮らすようになりました。2人で野菜農家をやっています」
「そうなんだね。お祖父さんとお祖母さんには会うのかね?」
「一応、そのつもりでいます」
「じゃあ、私は先に行かせてもらうよ。お客さんが待っているから」
団長が衣装室を出てテントへ向かった時、空はオレンジ色に染まっていた。星音さんも少し遅れて衣装に着替えてピエロのお面を被ったあと、テントの中に入った。ステージ裏では、男性陣がメイクの直しをするなど、簡単な身支度をしていた。
ステージでは空夢の空中ブランコが終わった時だった。
「続きましては、ピエロのジョーカーによる玉乗りとジャグリングです。うまくいったら拍手を、失敗したら大いに笑ってください」
団長の紹介が終わったあと、星音さんのショーが始まった。最初の一回目は球に乗った瞬間、見事にすってんころりん。それを見たお客さんは大爆笑。失敗したように見せかけて、実は星音さんがお客さんから笑いをとるための計算だった。お客さんの笑いが収まったあと、二回目が始まった。今度は球に乗りながらのジャグリングが成功して、お客さんから盛大な拍手が送られた。
すべてのショーが終わり、流れていたBGMが止まり、団長がマイクを持ってステージの中央に立った時、にぎやかだった客席がシーンっと静まりかえった。
「みなさん、今日はお忙しい中にも関わらず、当サーカス団のショーにお越し頂き、誠にありがとうございます。今日はみなさんに大事なお知らせがありますので、しばらくの間ご清聴頂けますよう、お願い申し上げます。ジョーカー、来てくれないか」
団長に呼ばれたジョーカーこと星音さんは団長の横に立った。その瞬間、客席からざわつきが始まった。
「みなさん、どうかご静粛に」
団長に言われて、観客たちは再び静かになった。
「改めて申し上げます。実はここにいるジョーカーは本日付で、当サーカス団を退団することになりました。退団後の進退は私の口からは申し上げられませんが、ジョーカーはこれから新しい道を歩まれます。私から以上です」
団長の挨拶が終わったあと、ジョーカーこと星音さんがあいさつ代わりに、再び玉乗りをしながらジャグリングをやって、最後に何も言わずに静かにおじぎをして終わったその時だった。
「このピエロ、なんで声を出さないんだ?」
「ジョーカー、一言しゃべってくださいよ」
客席からヤジが飛んできた。
「みなさん、ヤジはご遠慮ください。これがジョーカーなりの挨拶なので、ご了承ください」
団長が客席に理解を求めた時だった。「こんなの、納得いくか!」そう言って、1人の男性客がパンフレットや空のペットボトルを投げつけてしまった。それを見た警備スタッフが取り押さえて、ステージに物を投げつけた男性客を警備員詰所まで連れて行ってしまった。
私のサーカス団は女性がピエロになる時には被り物でステージに出るのだが、その時に声だしは禁止と言う決まりになっていて、その理由は団長以外は誰も知らなかった。
ステージが終わって観客が全員帰ったあと、私たちは一度団地に戻って、打ち上げの準備が始まった。テーブルの上にはオードブルやおにぎり、お菓子などが置かれ、飲み物はジュースやビール、お茶類などが置かれた。
「まずは、乾杯と行きましょうか」
コップにはビールなどが注がれて乾杯が始まろうとしたが、お酒の飲めない未成年者はジュースで乾杯することになった。
「では、今日のショーの成功と星音ちゃんの旅立ちを祝ってカンパーイ!」
団長の一声で乾杯をしたあと、みんなで飲んで食べて騒いでいた。始まって1時間した時だった。
「ご歓談中のところ、大変申し訳ありませんが、少しだけお時間をちょうだいしてもいいですか?」
団長は急にあらたまって、みんなの前で話そうとしていた。
「団長なんですか?」
ビールで顔を赤くしたトレーナーの雪姫さんが疑問に感じたような顔で聞き出した。
「本日付で退団となる白丸星音さんから、一言ご挨拶があります。星音さん、どうぞ」
団長に言われ、星音さんはみんなの前に立って、緊張した表情で話し出した。
「みなさん、今日はお疲れ様です。実は本日付で星空サーカス団を退団することになりました。ただ一つ誤解しないで欲しいのは、みなさんのことが嫌になったわけではありません。私には夢があるのです。それは、生まれ育った山梨で警察官になることなんです。ここを離れても、みなさんのことは決して忘れません。ここで過ごした時間は私にとって大切な宝物です。時々ですが、ここに戻らせてもらうことがあります。その時はよろしくお願いします」
星音さんがおじぎをしたあと、みんなは盛大な拍手をした。そのあと団長が星音さんが着ていたピエロの衣装とお面と靴を差し出して「これ、餞別だ。よかったら受け取ってくれないか」と言ってきた。
「ありがとうございます。一生大事に使わせていただきます」
「警官になっても着るのか?」
「いえ、それはないです。とりあえず保管しておきます」
団長のツッコミに星音さんはあわてて返事をしたので、それを聞いたみんなは笑い出してしまった。
翌朝、大きなキャリーバッグを持った星音さんは団長が運転する車に乗ってJR南武線の南多摩駅まで向かうことになった。
「みなさん、長い間お世話になりました」
「元気でやれよ」
「警官のお仕事、頑張れよ」
星音さんが短く挨拶したあと、みんなは口々に短いはなむけの言葉を出していた。そのあと、車は走り去っていなくなってしまった。
「いなくなったな」
「なんだか寂しくなったよ」
そう言って、みんなは部屋の中へ戻ってしまった。
「星音さん、いなくなったね」
「そうだね」
私が一言呟いたら、空夢は短く返事をした。
「私たちも、やがては星音さんのようにいなくなる時が来るのかな」
「さあ、それはわからないよ。星音さんは、たまたま自分の夢を見つけたから辞めた。でも、私たちは夢すら見つかっていない。だったら当分ここへいてもいいんじゃない? 仮にここを出て行っていっても、行くあてが無ければ、放ろうして終わるだけだと思うよ。だから、それを考えるのは後回しにしようよ」
さすが私より年上だけであって、言うことが違っていた。そのあと朝食を済ませて、稽古を始めることになった。
そして、話は7年後に飛ぶ。
私が14歳の誕生日を迎えて、最初の日曜日のことだった。団長が自分の部屋に私を呼んで話を始めた。
「失礼します。団長、要件はなんですか?」
「そんなに緊張しなくてもいいよ」
団長は私の緊張をほぐすように、穏やかな表情で話を始めた。
「実はこれなんだが……」
「この服は?」
私は団長が机の上に乗せた服がなんだか分からず、少し考え込んでしまったのだが、色の組み合わせを見て、だいたいの見当がついた。
「まだ、わからないのかね?」
「なんとくわかりました。ピエロの衣装ですか?」
「その通りだ。実は君にもピエロをデビューしてもらおうと思っている。そして、これがステージでの君の顔になる」
団長は、さらにピエロのお面もテーブルに載せてきた。
「これを被るのですか?」
「嫌かね?」
「そんなことありません……。ただ……」
「ただ?」
納得しない私の言葉に団長は聞き返してきた。
「被った時、視界はどうやって確保するのと、激しい動きをした時、お面が外れないか、気になりました」
「そんなことか。視界なら言うまでもなく目の部分だよ。サングラスのようにスモークがかかっているが、ステージで被っている時は問題ないから大丈夫だ。お面が外れないかどうかだが、お面の後ろに紐が付いているから、それをきつく縛れば絶対に外れないよ。星音さんが使っているお面も同じタイプだったよ」
「そうなんですね」
団長の言葉に納得して返事をした。
「試しに被ってみるか?」
「はい」
私は団長から渡されたピエロのお面をゆっくり被ってみた。すると、ずれているせいか何も見えなかった。
「団長、何も見えませんよ」
「ちょっと待ってくれ」
団長はそう言って、私の後ろに回って、お面の紐をきつめに縛った。
「今度は見えやすくなりました」
「よかった。じゃあ、今日はこの衣装とお面で稽古をしてみようか」
「はい」
団長の言葉に、私は短く返事をした。
その日の夕方、稽古用のテントの中でお面を被って、視界を慣れる所から始まった。実際に被ってみると、暗さと狭さが両方あったので、慣れるのに時間がかかってしまった。
私がお面を直そうとした時だった。
「雫ちゃん、この動作、お客さんの前ではNGだよ」
さっそくトレーナーの雪姫さんからダメ出しがやってきた。
「どうしてですか?」
私としてはどうしても納得がいかなかった。
「お客さんは、あなたが被っているお面が、自分の顔だと思っているからなんだよ」
「そうなんですね……」
「まず、あなたには視界に慣れてもらう所から始めてもらおうかな。じゃあ、この状態で歩いてもらおうか」
「わかりました」
雪姫さんは、私にお面を被らせた状態で、テントの中をずっと歩かせていた。
「結構きついですね」
「歩き方が、まだぎこちないよ」
雪姫さんは容赦なしに、私に厳しい言葉をぶつけてきた。さらに私が奥の丸椅子に座ろうとした時だった。
「まだ、休憩じゃないよ」
「すみません……」
雪姫さんは、お面を被った状態で、自然に歩ける状態まで何度も歩かせていた。
「もう限界です」
「わかったわ。そろそろ休憩にしましょうか」
私がお面を外して、丸椅子に座った時だった。
「お疲れ」
雪姫さんがクーラーボックスからペットボトルのお茶を取り出して、一本私に渡してくれた。
「ありがとうございます」
「始めてお面を被って、歩いた感想はどうだった?」
「実際に被ってみたら、思っていた以上に大変でした。星音さん、あれを被って芸をやっていたのですね」
「そうよ。彼女も最初はあなた以上に酷かったのよ」
「そうなんですか?」
「最初からうまく行くとでも思っていた?」
「はい……」
「そんなわけないでしょ。最初は誰だって失敗するんだから。星音さん、始めてお面を被った時なんか、歩き方がフランケンシュタインみたいだったから、みんなに笑われていたんだよ」
「そうなんですか?」
「でもね、彼女はそのあと、私や団長の雷に耐えてここまで成長していったの。まさに努力の賜物だよね」
「そうですよね」
私はお茶を飲みながら、雪姫さんの言葉に相づちを打っていた。
「休憩はここまで。稽古に戻るわよ」
雪姫さんに言われ、私は再びお面を被って歩行練習をした。そしてその次の日も歩行練習を続けて、一週間以上経ったある日の出来事だった。私がお面を被って歩きなれたころ、雪姫さんは水色の大きなボールを持ってきて、「今日はこれに乗って歩く練習をするわよ」と、私に玉乗りをやらせた。
「これに乗るのですか?」
「そうよ。じゃあ、これに乗ってくれる?」
私は言われるままに水色のボールの上に乗ってみた。その途端、体のバランスを崩して、すぐに落ちてしまった。何回かやってみたけど、結果は同じだった。
「雪姫さん、何かコツありますか?」
「最初からうまくいくわけがないでしょ。これは数やっていくしかないのよ」
その日から玉乗りの練習をする日々が始まった。そのせいか、歩き方がおかしくなり、学校でもクラスメイトから「歩き方が、がに股になっているわよ」と突っ込まれる始末だった。
その日の4時限目は体育の授業で、集団行動をやることになっていた。しかし、歩き方が不自然だったため、そこでも先生に「峠時さん、あなただけ歩き方が変だよ」と突っ込まれる始末だった。私はとっさに「すみません」と一言謝ってしまった。
放課後も運動部に混ざって、体育館でバスケットボールで玉乗りの練習をしていた時だった。
「いたいた。雫、何をやっているの?」
クラスメイトの矢野口花織子が私の所にやってきた。
「花織子、なんでここがわかったの?」
「雫が体育館のほうへ歩いていったのを見かけたから。ところで、何をやっていたの?」
「ちょっと玉乗りの練習を……」
「そういうのは、家に帰ってからにしてよ」
「そうだね」
「それで体育の時間も廊下を歩いている時も、変な歩き方になっていたんだね」
「歩き方、変だった?」
「思い切り変だったよ。なんていうか、がに股歩きになっていた」
それを聞いた私はショックを受けてしまった。
「帰ろうよ」
「そうだね」
花織子に言われ、私はそのまま団地へ帰ってしまった。中に入ってみると、誰もいなかったので、あたりを見渡してみると、テーブルの上に<ひとあし先に稽古を始めています。衣装一式を持って、そのまま稽古用のテントまで来てください。 雪姫より>と置手紙が置いてあった。私は大きめのリュックに衣装本体、パーツ、お面、靴などを入れて自転車に乗って、稽古用のテントまで向かった。衣装室に入って着替えを済ませたあと、お面を持って雪姫さんの所へ向かったら、さっそくダメ出しが入ってきた。
「雫ちゃん、お面はどうしたの?」
「手元にあります……」
「なら、早く被ってちょうだい。ここが稽古場じゃなくて、本番のステージだったらどうなっていたと思う?」
「お客さん、びっくりします……」
「それだけじゃないわ。しらけて、そのまま帰っちゃうわよ」
「すみません……」
「次からは、稽古場に入る前にお面を被ってちょうだいね」
「わかりました……」
雪姫さんの雷を受けたあと、お面を被って、そのまま稽古に入った。その日も玉乗りの練習を始めた。厳しい目線を浴びている中、私は体のバランスを保ちながらボールに乗って、ずっと歩き通していた。
「点数で言うなら40点。自分でどこが悪いのか、わかっているよね?」
「はい……」
「だったら、すぐにやり直しなさい」
雪姫さんの視線は、いつになく厳しかった。まるで氷の剣を突き付けられたような気分だった。
ボールの上を歩けるようになったのは、あれから1週間後のことだった。さらに待ち受けていた試練は玉乗りをしながら、ジャグリングをすることだった。そう、かつて星音さんがやっていた、あの演技だった。雪姫さんはテントの奥から、赤と青のゴム製の野球ボールを持ってきて、私に渡してきた。
「これで、お手玉をやってちょうだい」
「お手玉をやるだけでいいのですか?」
「そうよ」
雪姫さんに言われるまま、私は赤と青のゴム製の野球ボールを使ってお手玉をやり始めた。
「じゃあ、次は黄色も混ぜて三個でやってみようか」
これもすんなりこなせたので、雪姫さんは「今度は、それをボールの上でやってもらいましょうか」と付け加えてきた。
「玉乗りをしながらですか?」
「そうよ。何かひっかかることでも?」
「無理です……」
「言っておくけど、お客さんの前では、そんな言葉は通用しないわよ。早くやりなさい」
雪姫さんの厳しい言葉に、私は何も言い返せず、そのまま玉乗りをしながらジャグリングを始めたが、結果は言うまでもなく失敗で終わった。
「やっぱ、難しいです……」
「最初からうまくいくわけないでしょ」
その日を境に、玉乗りをしながらのジャグリングの練習が厳しくなっていった。
放課後は用事があることを除けば、まっすぐ帰宅。ちょっとでも寄り道をすれば、雪姫さんの雷が飛んできた。その日も数学の小テストで赤点を取ってしまい、放課後は居残りで補習となってしまった。
「遅いじゃない、今日はどうしたの?」
「数学で赤点を取って、放課後補習になりました……」
「仕方ないわね。じゃあ、今から練習を始めるわよ。早く着替えてきてちょうだい」
数学の赤点があっても、年中無休のコンビニエンスストアの営業のように、私の稽古は続いていた。
練習が終わると、今度は団地に戻って勉強が始まった。稽古と勉強の両方で、私のストレスは膨張していた。些細なことで怒りぽくなることもしばしばあった。我慢の限界が来て、私は思い切って雪姫さんのいる部屋に行って直談判をすることになった。
「雪姫さん、ちょっといいですか?」
「雫ちゃん、怖い顔してどうしたの?」
私の不機嫌な顔を見た雪姫さんはビックリした顔をしていた。
「実は雪姫さんに相談があります」
「何?」
「ここんところ、勉強と稽古の両方でストレスがたまっています。少し休みをもらっていいですか?」
「休みを与えるのはいいけど、玉乗りをしながらのジャグリング出来るようになったの?」
「まだ完璧ではありませんが、一休みをすれば、うまくいけると思います」
「それ、絶対に言い切れる?」
「どういうこと?」
「そのセリフ、私の前だから通用するかもしれないけど、お客さんの前では通用しないわよ。お客さんは、あなたがストレスを抱えようと抱えまいと、そんなの関係ないの。お客さんが求めているのは、”成功”の二文字だけなの。わかるでしょ? あなたが失敗した時、お客さんの前で『勉強と稽古のストレスがたまっているから、仕方ないでしょ?』っていう言い訳が通用すると思う?」
「思いません……」
「お客さんは、あなたのことを失敗をしないプロだと思っているの。それだけは絶対に忘れないでちょうだい。あなたの相手は私たちじゃなくて、お客さんなんだよ」
「わかりました……」
雪姫さんの厳しい言葉に私は何も言い返せなくなってしまった。
自分の部屋に戻って数分したとき、外から戻ってきた空夢が私の所にやってきた。
「雫、どうしたの? 元気ないじゃん」
「空夢、おかえり……」
「私でよかったら、相談に乗るよ」
「実は雪姫さんの所に行ったら、結構厳しいことを言われた……」
「何を言われたの?」
私は雪姫さんに言われたことを全部話した。すると、空夢は呆れた顔をして「あんた、サーカスの世界を完全に舐めているでしょ?」と言われる始末になった。
「どういうこと?」
「あのね、お客さんは、あなたの事情なんかどうでもいいと思っているの。お客さんにとって重要なことは、私たちの完璧なショーなの。私たちのことをプロだと思っているんだよ。プロはステージで個人的な事情を持ち込まなかったり、それを顔に出さないの。あなたの場合、お面を被るから関係ないと思っているけど、わかる人にはわかるから気を付けた方がいいよ」
さらに空夢からも厳しい言葉をもらってしまった。最悪な一日だ。次の日の稽古の時も雪姫さんから雷を受けた時、我慢の出来なくなった私は思わず「うるさい!」と大声で言い返してしまった。
「今日の練習は終わり。戻っていいわよ。こんな状態でやっても無意味だから。それと本番までうまくいかない時には、ピエロの役を他の人にやってもらうから、そのつもりでいてちょうだい。あなた、プロの世界を甘く見すぎ。場合によっては団長と相談して、退団も視野に入れないといけないから。それが嫌なら、もっと真剣にやってちょうだい」
雪姫さんの厳しい言葉は、いつになく半端ではなかった。ステージの片隅に置いてある丸椅子には空夢が座っていたので、私は客席に行って1人ポツンとみんなの稽古を見ていた。
「どうしたの?」
やってきたのは、さっきまで丸椅子に座っていた空夢だった。
「なんでここにやってきたの?」
私はビックリして聞き返してしまった。
「さっき雪姫さんから、盛大に怒鳴られていたわよね」
「うん……」
「やっぱ、雫はプロの世界を舐めている」
「どういうこと?」
私は今一つ納得していなかった。
「雪姫さんの注意に『うるさい!』と怒鳴り返した時点で、あなたプロ失格だよ。自分がまだ素人だと思っているなら、ここを早く辞めたほうがいいよ」
「うん……。そうだね……」
「雫はここを続けたいの? それとも今すぐ辞めたいの?」
「まだ、続けたい……」
「だったら、雪姫さんにちゃんと謝ろうよ。私も一緒に行くから」
「ありがとう……」
私と空夢はステージの中を探し回ったけど見つからなかったので、外を探していたら衣装室の近くで団長と話していた雪姫さんが見えた。もしかして、すでに退団が決まったのかと思って、私は恐る恐る雪姫さんに声をかけてみた。
「雪姫さん、少しだけいいですか?」
私が緊張しながら声をかけたら、雪姫さんは「空夢はちょっと外してくれないか?」と言って私と雪姫さん、団長の3人だけになった。
「お話ってなんだ?」
横にいた団長が口を挟んできた。
「今、団長と雪姫さんが話していた内容って、もしかして私の退団のことですか?」
私の質問に団長と雪姫さんは一瞬顔を見合わせたあと、その直後笑い出してしまった。
「ハハハハハ……、何を言っているんだ。そんなことをするわけないだろ。実は雫ちゃんに少し休みを与えようと思っていたんだよ。勉強と稽古でストレスがたまっているみたいだし」
「そうなんですか?」
団長の言葉に私は思わず目が点になってしまった。
「いやか?」
「そんなことはありません。とても嬉しいです。ただ私1人だけいいのですか?」
「ああ、いいよ。その代わり、きちんと休んだあとは稽古に励むんだよ」
「ありがとうございます」
次の日曜日、期末試験も終わったので、電車に乗って少し遠出をしてショッピングセンターで買い物をしたり、喫茶店でパフェを食べたあと、1人でカラオケをして楽しんで、あっという間の休日が終わってしまった。
団地に戻って自分の部屋に入った時、空夢が「お帰り、休日どうだった?」と聞いてきた。
「いい気分転換になったよ」
「そう、よかったね。明日からちゃんと稽古頑張るんだよ」
「うん、わかった」
月曜日から遅れを取り戻すかのように、私の稽古が始まった。雪姫さんの顔は男鹿半島のナマハゲよりも迫力があった。しかし、本番までのことを考えたら時間がなかった。毎日夜遅くまでやっていたので、疲労困憊が続いていた。
迎えた本番当日。私の出番が来るまでの間、少し緊張してしまった。
「雫ちゃん、どうしたの?」
そばにいた雪姫さんが心配して声をかけて来た。
「実は緊張してきて……」
「なんで緊張する必要があるの?」
「うまく行けるかどうか……」
「そんなの普段の稽古の延長線だと思えばいいんだよ。それにあなたの場合、お面を被っているんだから、普通にやっていれば大丈夫だよ」
雪姫さんが自信をつけていても”緊張”という言葉は消えなかった。空夢の空中ブランコが終わったら、いよいよ私の出番。
「雫ちゃん、そろそろ出番だからお面を被ってちょうだい」
「雪姫さん、被るの手伝って」
「それくらい自分で出来るでしょ?」
「緊張して、うまく被れない」
「しょうがないなあ」
雪姫さんは、文句を言いつつも私のお面被りを手伝ってくれた。
「続きまして、当サーカス団のニューフェイス、ピエロのエビルです。どうぞ」
団長の紹介が終わって、私の出番が来た瞬間、緊張は頂点に達していた。でも、お客さんの前では緊張しているところを見せるのは禁止となっているので、そのまま始めることにした。星音さんの時と同様、最初の一回目はわざと失敗して笑いを狙い、二回目の時にきちんとやって拍手をもらう作戦で行くことにした。
「おや、エビルどうしたのでしょう。もしかして今日は緊張しているのかな」
団長のわざとらし演出に客は大爆笑。
「では、二回目はうまくいくように、みなさんでエビルに応援をしましょう」
客席から応援が聞こえたとたん、私は玉乗りをしながらプラスティックのこん棒でジャグリングをやり始めた。成功したとたん、団長は客席に向かって「では、うまく行ったので、皆さんで大きな拍手をしましょう」と高めな声で言った。
客席から大きな拍手が送られ、私の出番は終わった。ショーが終わって、衣装室で着替えをしている時、空夢が「エビルっていう名前、いつ考えたの?」と聞いてきた。
「少し前に団長と話し合って決めたの」
「そうなんだね」
「どう?」
「なかなかいいと思うよ」
「ありがとう」
月日が流れて、季節は秋になろうとしていた。私たちのサーカス団ではハロウィーン特別仕様を考えていて、キャスト全員がハロウィーンのようなメイクや衣装になる企画だった。
その日からメンバーたちの稽古が始まり、雪姫さんの鬼指導も始まった。ちょっとでもミスをすると雷が飛んでくるので、気を緩めることが出来なかった。私も例外ではなかった。その日の稽古は半端なく地獄だった。
稽古が終わって、団長がまたしても自分の部屋に私を呼んできた。
「失礼しまーす。なんでしょうか」
「実はハロウィーン使用の君の衣装とお面を用意してみたんだよ。嫌かな?」
「そんなことはありません。とても嬉しいです」
「それならよかった。明日からこれを着て稽古に励んでくれないか」
「一つ質問ですが、本番もこれを着てやるのですか?」
「そうだが……。何か引っかかることでも?」
「練習中に着ていたら、汚れるのではないかと思って……」
「それもそうか。なら、お面だけ被って練習着で稽古しなさい」
「わかりました……」
団長の部屋を出たあと、自分の部屋に戻ってさっそく試着してみた。全体的に赤ぽくてホラーをイメージしたデザインになっていた。お面も赤いツインテールの髪型に白塗りで、口から血が出ているデザインになっていた。鏡の前で何度かポーズをとっていたら、空夢がベッドから起き上がって、「これ、新しい衣装?」と聞いてきた。
「そうだよ。ハロウィーンだから、ちょっとホラーぽくなっていた」
「そうなんだね」
「空夢も試着してみる?」
「せっかくだけど、遠慮するよ」
「わかった」
「気を悪くして、ごめんね」
「ううん、大丈夫」
「私も明日あたり自分の衣装が届くと思うから。じゃあ、明かりを消すね」
「ちょっと待って、今パジャマに着替えるから」
パジャマに着替えた私は明かりを消して、ベッドにもぐって寝てしまった。
そして、ハロウィーン前日。最後の稽古を終えた私たちは、雪姫さんの話を聞くことになった。
「みんな、よくここまで頑張ってくれた。本当に感謝する。明日は本番前にお客さんとの交流がある。内容としてはステージで子供たちと記念撮影や握手をやってみたいと思う。そこで一つ注意があるけど、くれぐれも客を怖がらせないこと。特に雫、ピエロの姿でいる時は、間違っても小さい子どもに自分から近寄らないこと」
「わかりました」
私としては今一つ納得がいかなかった。でも、あのお面を被って近寄ったら、間違いなくクレームが来ても不思議ではないと、あとで思った。
「では、明日は本番なので、くれぐれもけがだけはしないように。以上!」
雪姫さんの一言で、みんなは部屋に戻った。
夜中、トイレで目を覚ました私は台所から甘い匂いが漂ってきたので、近寄ってみると雪姫さんが、お菓子を作っていた。
「雪姫さん、何をされていたのですか?」
「これ? 明日子供たちに配るお菓子を作っていたの。味見してみる?」
「いいのですか?」
「一個だけならいいわよ」
一口かじった瞬間、口の中にバターの香りが広がった。
「これって……?」
「フィナンシェよ」
「美味しいです」
「私、ここを辞めたらパティシエになってみようかなと思っているの」
「雪姫さん、辞めるのですか?」
「まだ先の話よ。でも、この話は誰にも言わないでよね」
「わかりました」
「明日に響くから早く寝なさい」
「おやすみなさい」
次の朝、いつもより早く目が覚めた私は、近所を散歩することにした。早朝の道は誰もいないから、とても歩きやすかった。
「おはよう、散歩かね?」
犬を連れてきた1人のおじいさんが、私に声をかけてきた。
「おはようございます。犬の散歩ですか?」
「ああ、そうだよ。わしはこんな年齢だから家族も親戚もいない。だから、こうやって毎朝、雄太を連れて散歩しているんだよ」
「このワンちゃん、雄太と言うのですね。何歳なんですか?」
「10歳。人間で言うなら40歳近くになるのかな」
「そうなんですね。失礼ですが、おばあさんは……」
「婆さんなら、おととし病気で死んだよ。息子もいるが、海外にいて連絡が出来ない」
「あの、お孫さんは……?」
「孫なんていないよ」
「なんだか悪いことを聞いてしまいました……」
「お嬢さんが気にすることなんてないよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、散歩の途中だから……」
「引き留めてすみません……」
そう言って、散歩しているおじいさんと別れてしまった。近くの公園で一休みをしたあと、団地へ戻るとみんなが集まっていた。
「どこへ行っていたんだ。これから打ち合わせだ」
団長はいつになく、厳しい言葉で私に言ってきた。そのあと、今日の流れを発表したあと、車に乗って晴海の会場まで向かった。到着するなり、着替えやメイクを済ませて、それぞれの持ち場についた。
「雫はお面だから、ノーメイクか。羨ましいなあ」
横にいた空夢が独り言のようにぼやいていた。
「私と変わる?」
「遠慮するよ。それを被ると声が出せなくなるんでしょ?」
「まあね」
私も苦笑いをしながら、返事をした。開場まで少し時間が余っていたので、少しふらつくことにした。パンパンと花火の音がしたので、私たちはお客さんを出迎えることにした。ステージに集まったところで、子供たちをステージに呼んで記念撮影することになった。緊張していたり怖がって泣いている子供がいる中、反対に満足そうに笑みを出した子供もいた。握手や記念撮影が終わって、雪姫さんが作ったお菓子を配った時点で客席に戻してショーが始まった。
終盤にさしかかり、空夢の空中ブランコが終わったあと、いよいよ私の出番がやってきた。
「さあ、いよいよ最後のステージになりました。ピエロのエビルによる玉乗りしながらのジャグリングです。うまくいったら拍手を、失敗したら笑ってください」
団長の紹介が終わったあと、青い大きな球の上に乗ることにした。最初の一回目は、わざと失敗して客席から笑いをとることにして、二回目はちゃんとやって、拍手をもらうことにした。
「どうもありがとうございます。もう一度大きな拍手をお願いいたします」
団長の一声で、客席からは大きな拍手が送られてきた。
ショーが終わって、お客さんを見送ったあと、片付けをして戻ることにした。
そして話は、さらに4年後に飛ぶ。
それは私が高校卒業を控えた2月の出来事だった。急に団長からショッキングな話が飛んできた。
「皆さん、お疲れ様です。お休みのところ大変恐縮ですが、とても大切なお話があるので、このままでいいので聞いてください。実は3月末を持って当サーカス団を解体することになりました」
その直後、ざわつきが広がってしまった。
「笑えないジョークだな。なんでこうなったのか、きちんと説明してもらおうか」
1人の男性団員が納得しない顔で団長に文句をぶつけてきた。
「実を言うと、少し前から赤字続きで、みんなに払える給料がなくなってしまったのです……」
「だったら、給料なんかいらねえから、俺たちを置いてくれよ」
「そうしたいけど、多額な借金を抱えていて……」
「だったら、みんなで返済すればいいだけじゃねえかよ」
「そうしたいけど、テントも住んでいる家も手放すことになったのです……。本当に申し訳ございません」
最後は土下座までする始末だった。
「ねえ、その借金ってどれくらい抱えているの?」
今度は雪姫さんが口を挟んできたので、団長が手に持っている請求書の金額を見せた。
「何この金額」
雪姫さんは請求額を見て、ビックリしていた。
「裁判所へ行って破産手続きを済ませてきたよ」
「それって、私たちに相談しないで勝手に話を進めたってことだよね」
「本当にすまない」
団長は私たちの前で頭を下げ通しだった。
「ねえ、私たちの身の振り方はどうなるのですか?」
「それは3月の最後のショーを終えたあとに、きちんと話すよ」
「本当ですよね?」
雪姫さんの言い方は、いつになくきつかった。
団長の話が終わったあと、みんなの不安は募るばかりだった。
3月に入って、立川で最後のショーが始まった。この衣装も今日で着納か。私は独り言のように呟いていた。自分の出番が来た瞬間、いつもしないミスをやってしまった。しかし、お客さんたちは、芸の一つだと思って笑い続けていた。
すべてのショーが終わって、団長がマイクを持って客席に向かって話し出した。
「みなさん、少しの間ご清聴お願いします。今日はお忙しい中、当サーカス団のショーにお越し頂き、誠にありがとうございます。今日はここにいるお客様に大切なお知らせがございます。実は本日を持って、当サーカス団を解体することになりました。驚かれるのも無理もありません。これは決めたことなんです。それでは皆さん、どうかお元気で」
団長の挨拶が終わったあと、客席からざわつきが広がった。
最後のお客さんを見送って、団地に戻って今後の身の振り方について話が始まった。なにせ、この団地には住めなくなったからである。
「改めてお疲れ様です」
「団長、俺たちこれからどうなるのですか?」
1人の男性団員の威圧感に、団長は一瞬ひるんでしまった。団長は今いる団員たちの新居地を発表し始めた。雪姫さんは前からパティシエになる夢があるため、パリへ行くことへなった。空夢は古い友人が住んでいる奥多摩へ、私は最近大菩薩村の駐在所へ左遷された星音さんとの同居が決まった。そして、団長はここへ残って後片付けをすることになった。
その日の夜、私はなかなか眠れなかった。
「雫、まだ起きている?」
珍しく空夢が私に話をかけてきた。
「どうしたの?」
「このベッドで寝るのも今夜が最後なんだね」
「そうだね」
「雫は寂しくない?」
「寂しくないと言ったら嘘になるけど、今それを気にしていてもしょうがないでしょ」
「確かにそうだけど……」
空夢としては、今一つ納得が行かなかった。
「もう決まったことなんだし。さ、寝るわよ」
翌朝、私は自分が着ていた衣装一式をリュックに詰めて、トランクに着替えの服と下着、洗面具などを詰めたあと、そのまま食事を済ませることにした。ここでの食事も今日で最後。ここから”にぎやかさ”がなくなると、なんだか寂しくなってきた。団地の入口でみんなを見送ったあと、私と空夢もJR南武線の南多摩駅から電車に乗って奥多摩を目指すことにした。電車の中では特に何も話すことなく、終始無言のままでいた。奥多摩駅に着いて、10分くらいぼーっと景色を見ていたら、オレンジのコンパクトSUBの車が見えてきた。運転席からサングラス姿の星音さんがやってきて、私と空夢を乗せて向かうことになった。
はたして、これからどんな生活が待っているのか。
2話に続く。




